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2月
第13話:お隣さん_1
しおりを挟むサトコとの食事は本当に楽しかった。もっとこの時間が続けばいいのにと思いながら、名残惜しみつつ帰路へ着く。
「……? 消印のない封筒……?」
マンションの一階、集合ポストを覗くと、一通の手紙らしきものが入っていた。我が家の住所は書かれておらず、差出人の名前もない。だが、宛名として私の住む部屋の号室が書かれており、差出人の部分にはお隣の号室が書いてあった。隣は今空き家だ。少し不安になりながらも、封のしていないその封筒を開けた。
「ええっと……。あ、引っ越しか!」
そこには隣に引っ越しをしてくる旨と、その作業を明日明後日の土日で行うことが書かれていた。引っ越しの挨拶は引っ越しをしてからするものだと思っていたが、土日でうるさくなると思い先にしてくれたのだろうか。その心遣いが嬉しい。作業の前後どちらかで、また挨拶に伺うと、そう書いてあった。私自身、明日明後日の用事はないから、きっとお隣さん予定の人には会えるだろう。
「どんな人が越してくるのかな……」
私は新しい隣人のことを考えながら、あお君の帰宅を待った。サトコとそれなりの時間話していたと思ったが、帰りはあお君のほうが遅い。あお君も飲み会だから、それは当たり前なのかもしれないが。お風呂に入って日記を書く。習慣化した日記は、あまり長文は書いていない。『しっかり書かなければ』と思うと、そのプレッシャーに押しつぶされそうになるからだ。だから、そのときどきによって短くても長くても気にしないようにしている。それが私には合っているのかもしれない。
家へ着いたときに帰ったことをあお君に連絡したが、その返事はなかった。しかし、既読はついている。
(あぁ、またか――)
ソファに座り、スマホとにらめっこをした。――最近はなかった。なんとなく寒気がして、胸の奥がギュッと痛い。また連絡をくれなくなったのか。ただ一言、帰宅したというメッセージに対して『わかった』と返してくれるだけで気持ちは楽になるのに。スタンプひとつでも良い。
……本当は『遅くなるのか』と聞きたかった。だが、そんなことをしてまた返事が来なかったら。帰ってきたときの態度がそっけなかったら。二週間作ってくれた休みの日の朝食が、一切なくなっていたら。またなにも言わずに、長時間どこかへ出かけて帰ってこなくなってしまったら。そう考えると、怖くて送ることができなかった。たった一言なのに。私は妻なのに。その勇気はなかった。
これは『愛情が重たい』と言うことなのだろうか。私にはわからない。だが、今自分の心がズッシリと重たくなっていることはわかる。
(ダメだ、ダメだ――)
ポタポタと涙が溢れてきた。大丈夫だと思っていたのに、私の心はとっくにダメになっていた。気にしないようにと思って済むほど、私は強くなかったし無関心にもなれなかった。
「う……うぅ……っ……」
友人と会っているのだろうか。それは男性なのだろうか。実は嘘を吐いていて、あの女性と会っているのではないだろうか。もしかしたら既婚者を隠して合コンでもしているかもしれないし、マッチングアプリで誰か女性と会っているかもしれない。まさかとは思うがパパ活だって有り得る。……考えれば考えるほど、悪い方向の話しか浮かばなかった。
これがほんの、ほんの一か月前の、まだ写真を見る前だったら『ひとりでいる時間も気楽で良い』と、気にも留めなかっただろう。立場的に後輩を連れての飲み会も多かったし、部下から相談があると言われて食事をすることも多かった。取引先と行くこともあったし、そこへ友人も加われば、毎月そこそこの回数出かけていた。今それがなくなって、ホッとしたのも束の間また復活しようとしている。
……しているのだろうか? それとも、私の思い違いなのか。
どちらにせよ、まだ浮気も確定していない状態なのに、ボロボロと泣いてしまってはとてもこの先やっていけない。なにが起こるかはわからないのに、強くいられる気がしない。
「……寝よう」
私は止まらない涙を服の袖で拭きながら、寝室へ向かった。こうなってしまっては、起きてあお君を待っていても、なにも良いことはない。お互いに。きっと。
――次に私が目を覚ましたときは、翌日土曜の朝だった。私ひとりベッドにいて、あお君の帰ってきた気配は――ない。私が帰ってきたそのままの状態で、玄関に靴はなかった。スマホを見ても電話はおろかkiccaにメッセージが来た記録もない。私の送ったメッセージが最後で、向こうからはなにもリアクションがない。起こされた記憶もないし、誰か家に入ってきた気配も感じなかった。ということは、あお君はあれからまだ帰ってきていないのだ。朝帰りだろうか。それとも……もう帰ってこないのだろうか。
あえて、私はなにも連絡を入れなかった。朝起きたあとは、ただいつも通りに身支度をして朝食を食べる。テレビをつけて、淹れた紅茶を飲みながらぼんやりとした。出かける予定はない。いっそのこと、あお君が帰ってくるまで家にいても良いだろう。朝帰りを問い詰めるつもりはない。――今は。ただ帰りを待つだけだ。
ピロリン――ピロリン――ピロリン――ピロリン――。
インターホンが鳴る。そういえば、昨日入っていた手紙に、土日で引っ越しをするからあいさつに行く、と書いてあったっけ。
「――はーい」
『すみません、隣に越してきた室井です。ごあいさつに参りました』
「あ、はい! 今開けますね」
我が家はオートロックだ。基本的にエントランスで部屋番号を押してロックを解除したあと、部屋自体の鍵を開ける。今のは下のエントランスから部屋番号が押されたときの音だ。お隣ならばそのまま部屋のインターフォンを押してくれても良いと思ったが、相手が誰かわからずこちらが不安に思わないための配慮だろう。
――ピーンポーン。――ピーンポーン。
今度は部屋のインターフォンが鳴った。
――ガチャ。
「はい」
鳴らされたインターフォンには出ず、そのまま部屋のドアを開けた。宅配業者が来たときと同じだ。誰がいるのかわかっているときは、もうそのまま開けている。
「初めまして! お隣に引っ越してきました【室井砂苗《むろいさなえ》】と申します。その、昨日夕方ごろに伺ったのですが、いらっしゃらなかったのでお手紙を入れまして……」
「あ、はい、見ました。ご丁寧にありがとうございます! 弓削です、弓削汐未。えっと、夫の蒼飛とふたりで暮らしています。結婚して何年か経つんですけど、まだ子どもはいなくて……」
「ウチも夫婦です! 夫が今回転勤になって、それについてくる形で引っ越ししまして」
「そうだったんですね」
「今日はちょっと、夫が仕事で……。また改めてごあいさつと思っているのですが、作業でうるさくなるので先にお声がけしたほうが良いかなと思いまして……」
「ありがとうございます! ……今は夫がちょっと外出中で」
「そうなんですね。……あ、もしかしてこの写真の男性ですか? ご主人」
「え、あぁ、そうです」
玄関に飾ってある写真。結婚式のものだ。額縁に入った写真の中で、私とあお君が良い顔で笑っていた。
「このあと荷物を運び入れたり、宅配が結構届くので、うるさくなったらすみません」
「全然! 気になさらないでください」
「ありがとうございます。……あ、これ、つまらないものですが」
「ご丁寧にありがとうございます。……この包み紙……」
「消耗品のほうが良いかなと思いまして。ここのクッキー、美味しいんです」
「そうなんですね! ありがたくいただきます」
「あの、ゴミ出しの日とか、そういうお話お聞きしても良いですか……?」
「もちろん! 引っ越し作業が終わってからのほうが良いですかね?」
「お昼過ぎには終わると思うので、もしよかったらそのときでも……?」
「えぇ。あ、近所のカフェでお茶でもしませんか? 夫も出かけていて、出かける用事もないからちょっとその、暇で」
「良いんですか!? じゃあ、あの、kiccaやってます? 交換しません?」
私と室井さんはkicccaを交換し、またあとでと別れた。このあとまだ、上下の部屋を回るらしい。
相変わらず、あお君から連絡は来ないが、もう気にしないことにしてもらったクッキーを開封しお茶請けにした。
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