ねぇ、これ誰かわかる?

三嶋トウカ

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3月

第51話:いらっしゃい_1

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 ――当日になれば、もっと怖気づくと思っていた。いざあの人を目の前にしたら、言葉が出てこないと思っていた。それでももう、怒りの感情も情も愛情も悲しみも、なんにもないと思っていた。だけれど、思っていたよりも、私にとってこの三年にも満たない結婚生活は、自分の心をすっと占めていたことを改めて突き付けられた。でも、だからと言って、後戻りも中断もしない。

 場所は弓削家。私とあの人の住んでいた家だ。連絡を入れたら、義両親があの人を引っ張って連れてきてくれた。どんな手段を使ったのかはわからない。だが、不貞腐れてイライラを隠さない態度は、義両親にいたいところでも突かれたのだろう。逃げ出さずに、テーブルを挟んだ向こう側に座っている。義母と義父はうしろに立っていた。私も両親を呼んでおり、私のうしろに同じように立っている。

「離婚届、書いていただけましたか?」

 上手くなんて話せない。初手から離婚届の話をしてしまった。もっと、あいさつとかこれまでの様子を聞くとか手はあるはずなのに。

「書かせました、なんとか」

 記入済みの離婚届。それを私の目の前に差し出したのは、義母だった。

「そ、それであの……」
「……うん、不備はパッと見はなさそうですね」

 この離婚届は、私が既に記入した物に追記してもらった。破られたりしなくて良かったと思う反面、文字も落ち着いているようで、どんな気持ちでこれを書いたのかわからなくて少し怖い。私が記入していない用紙も渡していたが、こちらを使ったということは義実家側も離婚の覚悟ができたということだろうか。

「ありがとうございます。これは私が提出しておきます」

 提出を相手に任せる気はない。出さずに捨てるかもしれないし、信用なんかもう微塵もしていない。

「あ、あのねぇ? シオちゃん」
「なんでしょう?」

 煮え切らない態度の義母。ついさっきもなにか言おうとしていたが、わかっていてあえて無視をした。

「や、やっぱりその、離婚は考え直してもらえないかしら?」
「え? なんでですか?」

 本音が出る。ここまできて、離婚しない意味がわからない。

「だってほら、一度夫婦になったわけだし……。この子も反省しているはずだわ。ね、ね?」

 すがるような義母の目に、私は嫌悪感を抱いた。一度夫婦になったからなんだと言うのか。そういう考えかたも、あるとは思っている。だが、それはその考えかたをよしとする人が受け入れるだけであって、私はその考えかたをよしとしていない。

「よくわからないですけど、この子も反省している『はず』なんですよね? 親として、この人が反省しているように見えますか? そんな紙よりも薄っぺらい可能性に賭けるほどの愛情は、もう残っていませんよ?」

 ギュッと義母は口をつぐんだ。目の前にいる元夫となろう人間は、明らかに不機嫌である。しかし、口を挟んでこない。だが、小刻みに揺れていた。笑ってしまいそうだが、貧乏ゆすりをしているのだと思う、まぁまぁな強さで。これは、イライラしている証拠だ。両腕を胸の前で組んで、睨みつけるようにこちらを見ている。義父母や私の両親がいなかったら、殴ってきたり暴言を吐いていただろう。この人はそういう人なのだ。もう良くわかっている。

 それに、部屋に集まってからこの会話を録音すると言ったのが効いているのかもしれない。あの人は『は? ふざけんな』『そんなに信用していないのか』と言っていたが、なぜまだ自分が信用されていると思っているのかわからない。恫喝したって無駄なのに、それが有効だと思っているあたりおこちゃまだ。私よりも年上なのに。

「……つーかさ。浮気されるお前に原因があるだろ? お前が俺のこと放っておくからいけないってわからないの?」
「え? ウチ子どもいないし、アナタ以外に愛情を分ける相手はいなかったよ? 放っておくってなに? え? 誰かと間違えてない?」
「そのままだよ! とにかくお前が悪いんだよ。だいたい、たかだか一回の浮気で離婚とか、ありえなくない?」
「そ、そうね、たった一回の過ちなのよ。だから、許してあげるのが妻の役目なんじゃないかしら……?」
「母さんだってそう思うだろ? ほら、そう思うんだよみんな」

 腹が立つほど得意げな顔をしている。言葉尻に乗って追撃しようとしてくる義母にも同じように腹が立つ。

「三人と常時浮気しておいて『たかだか一回』の浮気と言うには無理しかないし、結婚して半年も経たないうちに浮気してるヤツに『放っておくからいけない』とか『お前が悪い』とか『離婚なんてありえない』とか言われたくないんだけど」
「は? え? 三人? 半年?」
「……おい蒼飛、どういうことだ」
「えっ……あ、え……?」

(あ。思わず口に出しちゃった。もっと追い詰めてから言おうと思ってたのに)

 これは私のウッカリだった。まだ義父母には、この人が三人の相手と浮気していたことを伝えていなかったし、今年に入ってからはほぼ毎日浮気相手の元へ通っていたことも伝えていなかった。大騒動になりそうだからあとで言いたかったという気持ちはほんの少しで、義父母相手には切り札になると思ったから黙っていた。

(……なんというか、思った通りだなぁ)

「さ、三人ってどういうことなの……!?」
「あ、いや、それは……」
「結婚して半年も経たないうちに、浮気するバカがいるか! なんで結婚したんだ!」
「なんでって……別に……」

 今にもつかみかかりそうな勢いで、義父母が自分の息子を責め立てている。そりゃそうだ。最初の義母の様子を見れば、今日は離婚を了承しに来たというよりも『なんとか離婚を回避しに来た』のだろう。こちら側に非があると認めつつ、まだあるかもしれない愛情に一縷の望みをかけてきたのだ、おそらく。彼らの言う通り、たった一回の、大いに反省の見られる浮気だったら、許していたかもしれない。でもこれは、許せる可能性がどこにもない。……ということに、改めて義父母が気が付いたのだ。

(ま、浮気だけじゃない話もしたのに、浮気にだけ焦点を当てたうえに、こちらになんの得もない再構築を向こう都合で進めてくるあたり……義両親もこの人の親と言えば親か……)

「あのー。話し合いのこと忘れてません?」 
「お前黙ってろよ! お前のせいで俺今怒られてんだぞ!?」
「え、怒られてるのは自分のせいでしょ」
「お前が余計なこと言わなきゃこんなことにならなかっただろ!?」
「余計なことじゃないから言ったんだよ? それもわかってないの?」
「うるさい! 離婚されて困るのはお前なのに! お前なのに!! ただの強がりだろ? そうやって、俺を思い通りに動かそうとしてるんだろ!?」
「離婚されて、どうして私が困ると思うの?」
「なっ……だ、だって俺がいなくなるんだぞ!?」
「え? はぁ? ……っ、あははっ、あははははははっ!!」
「な、なんで笑ってんだよ……」

 この人の返答に、思わず大きな声を出して笑ってしまった。今の自分という存在に、この人はどれだけ価値があると思っているのか、。勘違いも甚だしい。

「お義母さんもお義父さんも……あぁ、アナタも。よく聞いてくださいね? 私は、結婚して半年も経たないうちに浮気して、しかも既婚者含め三人の女性と浮気をし、ケンカになったら不機嫌になって暴言を吐き、毎日浮気相手の元に通い詰めて帰ってこなかった挙句、共同の貯金を空っぽにして貢ぎ、さらにお金をせびってきたのにいざ離婚となったら、自分の両親にいい年して尻拭いしてもらおうとする男に、なんの価値も見出せません。むしろ、こうして今婚姻関係を続けていることがひどいマイナスでしかない。離婚しないって言うんだったら、私はすぐにでも別居して、調停離婚だろうが裁判離婚だろうが、離婚の手段は問わないつもりです。……裁判記録に、アナタの名前載せましょうか?」

 大人しかった……大人しいはずだった私が、こんなふうに吐き捨てるなんて思っていなかったのだろうか。ぽかんとした表情を見せたあと、急に三人揃って俯き黙っている。
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