Falling tears2

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1.序章

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 これまでの"自分"という存在を、見えない何かで覆い尽くされた。この肉体に存在しているはずの意識。けれど、そこに"自分"という人間がいることを感じることができなくなった。"自分"を確認することができない。周囲の人間から見えるのは、リンというただの少年の形を成したもの。それは自己の感情を確認できなくなり、無に近い誰かも分らない何かがいるだけだった。何も考えられなかった。何一つ……。

「分るかい? …これを見てごらん」

 白い服を着た見知らぬ男性が目の前でペンを見せながらリンに聞いてくる。だけど、それがペンと分るけど、分らなかった。"見て"という言葉と、視界に入ってきた細長い黒いペン、聴こえてきたその二つの情報で、無意識に視線が動く。

「リン君、何か話してみくれないか? なんでもいい、これは? これはなんて言うかな?」

 覗き込んでくる男性は次にペンを指差すと、次に話すよう言ってきた。言葉は理解できる。けど、なぜか口にすることができない、ただペンを見つめていた。頭のどこかでは言われている内容は理解できる。でも自身の頭の中の別のどこかが、その言葉を素通りさせてしまい話せなかった。いや、話そうという感情すら起らない。

 暫くの間、目の前でペンを見せていた男性は全く話そうとしない少年の様子に肩を竦めると後方に立っている金髪の男性の方へと振り返り、ペンを白衣の胸ポケットにしまいながら落ち着いた口調で話し始めた。

「言葉は分っているはずなのですが、まだショック状態が続いているようだ。無理もないか…。ファレンズさん、まだリン君は入院をさせてしばらくここで療養することを勧めます」
「いえ、それは結構です。今後は病院に変わり、私がリンの面倒をみますので予定通り、今日退院させます」

 レノはきっぱりと医師の申し出を断った。

「ですが、あなたは医師ではないですし…、その、あれでしょう? あなたは、普通の人間とは違いますし…。ここで入院を続けさせて精神療法を行ったほうが、リン君の為にはいいと思いますよ」

 言いよどみながらも、医者は金髪の青年を頭から足元まで観察するような目つきを投げつけている。人間ではない、人間と酷似したアンドロイド。言われなければ人間と見分けのつかないレノ・ファレンズというアンドロイド、いやアンドロイドだと言われても人間にしか見えない。その事が余計に医師の感情に恐怖を与えた。その人間としか思えないアンドロイドにあかの他人ではあるが、子供を預けるという事に拒絶感を医師は感じていた。

 惑星リースの中で最も強大な力を誇るスレア国、そのスレアの首都ザレルにあるリース世界政府直轄の医療施設内のある一室で、リンはやっと訪れた平穏を享受することなく、感情を失った身体は人形のようにベッドに横たえられている。惑星G7の難民であり、孤児だった少年は恒星ラクロを支配するゼムリア連邦国の人間によって強制的に惑星ゼムリアに連れて行かれた。そして、その惑星で待っていたものは痛みと苦しみと絶望、恐怖、悲しみだった。突然に襲い掛かったそれらの感情の波はリンの精神を限界まで押しやった。そして、その限界を通り越した時、リンの心の中で感情が消えてしまっていた。死という世界に足を踏み入れる寸前で、リンはレノに助けられた。軍人であったレノは自身の職と故郷とも言える惑星ゼムリア、ゼムリア連邦国を捨てて遠く離れた惑星リースまでリンを守る為、逃れてきたのだった。

「いえ、本当に結構です。今後は私がリンの傍について全ての面倒をみていきます。それに私は人間とは違いますが、あなたよりずっとリンの事を知っている。すぐに退院の手続きをして下さい。リース世界政府の許可も受けています」

 レノの視線は目の前にいる医者を通り越して、その奥のベッドの上で寝ているリンを見つめながら、改めて医者の申し出を断った。

「精神療法にも様々な治療法がありまして、それに脳の手術で以前のような状態に戻すこともできるんですよ? 嫌な記憶を手術により消し去り、普通の生活ができるようにすることができます」
「脳を直接いじってしまったら、もうそれは別の人格だ。例え苦しみから解放されたとしても、別の人間になってしまう。とにかく、今後は私がリンの面倒をみます。これ以上あなたの意見は聞けない」
「…分りました、退院の手続きを取りましょう」

 先生と言われた男の人が話していた相手の声はよく知ってる人の声だった。知ってる人の声、とてもよく知っている、リンの中で一番大切な友人の声。けれど、その事も頭のどこかがその事を素通りさせてしまって、感情を失ったリンには届かない。

「リン、ここから退院しよう。私の言葉が分るか? 今日は十二月二十五日だ、今日から惑星リースのスレアという国で、私とリンは一緒に暮らすんだ。スレアにはイオという小さな町があって、とても環境のいい落ち着いた場所なんだ。何もない小さな町だがそこで静かに暮らそう。大丈夫、私がついてるから、何があっても必ずリンを守る」

 知ってる人…、よく知る人物がリンの顔を覗き込みながらやさしく話しかける。金色の髪と綺麗な水色の瞳。美しく整った完璧すぎる顔。その水色の瞳がやさしげで、それでいてとても悲しそうな色を帯びていた。でも両眼の水色の瞳からは強い意思を感じさせる。

「退院の手続きが終わったら、すぐに病院から出るよ。リンの服は用意してあるから着替えよう。ここからイオという町までは飛行船で約四時間程かかる、長旅になるが乗換えはせず、真っ直ぐに向えるのでリンの負担は少ないはずだ。もし途中で具合が悪くなっても私がついているから安心していい。さぁリン、身体を起こそう」

 思い出した、この人はレノだ…レノ・ファレンズ、僕の友達。久しぶりに会った……けどいつもと着ている服が違う。僕が知っているのは軍服姿のレノ、なんだか別人みたい。まるで知らない人みたい。



 惑星ゼムリアを脱出してから十四日後、レノとリンを乗せた小型宇宙船はリースという惑星に辿り着いた。リース近くまでは安全に航行できていた。だがあと少しというところで、ゼムリア連邦宇宙軍に捕捉され、レノ達を乗せた小型宇宙船は攻撃を受けた。ゼムリア連邦の最先端技術を活かして造られたアンドロイドであるレノはなんとか攻撃を交しながら、リース政府の助力も受けて、船はゼムリア軍による攻撃で破損しながらも、惑星リースに着陸することができたのだった。ゼムリア連邦の軍人であったレノは無事リースに亡命することができた。そして、リースに到着するとリンはすぐに首都にある政府直轄の病院に搬送され、レノはこの先惑星リースでリンと二人で暮らしていく為の手続きなどに追われた。細かい複雑な手続きを終え、レノとリンはリース国民として受け入れられたのはリースに着いて六日後のことであった。レノは国民となったその日のうちに自分達が住む町、家を決めると翌日リンを迎えに病院にやってきていた。

「イオはとても寒い町だ、零下二十度近くまで気温が下がることもある。今はこの服装でいいが、あちらに到着したらこの防寒着を着なければならない。町に着いたら車で三十分ほど行けばこれから私達の住む家に着く。小さな一戸建ての家だが、二人で暮らすには充分な広さだ。環境も良さそうなところだから、ゆっくり治して行こう」
「……」

 レノのされるがままに外出用の服を着せられていたリンは、レノの話しかけに一切反応せず、ただ黙り、感情を失った顔は無表情だった。

 今度はどこに行くんだろう。前にも同じことがあった…、あのときもレノが僕をどこかに連れて行った。……どこでもいい、僕はもうどこでもいい。……ここに僕はいないから。

 リンの着替えが終わった頃、先ほどまでリンの様子をみていた医師が再び病室に現れた。

「退院の手続きが終わりました。あと薬を処方しておいたので、帰りに院内の薬局で忘れずに受け取ってください」
「ありがとう、それでは仕度も終わったのでこのままリンを連れて帰ります」
「ファレンズさん。本当にこのまま退院させてよろしかったのですか? もう一度よく考えたほうが…」

 医師の退院を引きとめようとする言葉で、リンを抱えようとしていたレノの動きがピタリと止まった。けれど、すぐにリンをそっと抱きかかえると医師の方に顔を向けた。

「私には医療の知識もある、知識や技術では人間を圧倒するほどに。それにあともうひとつ、リンは私の全てなんです。ですから、私がリンを全ての事から守る」
「全て…ですか。よく分かりました、もう何も言いません。確かにあなたは人間よりも遥かに優れた頭脳と技術をお持ちだ。病院に頼らなくても、一人で簡単に治すことができるでしょう。心のほうも、あなたの熱意があればいずれ良くなるかもしれませんね」
「お世話になりました」

 レノは医師に軽く頭を下げると、リンを抱えたまま病院を後にした。既に病院の前に到着していたオートで動くエアカーに二人は乗り込むと真っ直ぐ飛行場に向かって出発した。ビルが立ち並ぶ区画を抜けて十分程走ると、ローカル線専用の小さな飛行場にエアカーは辿り着いた。

「リン、寒くないか?」
「……」

 小さくて軽いリンを両腕で抱きかかえながらレノは話しかけた。だがリンは黙ったままで話しかけても一切反応しない。そのことに一瞬悲しそうな顔を浮かべたレノは、リンの頭に顔を近づけた。

「リン…」

 名前を呼ぶ声がなんだか悲しそうだった。どうしてそんなに悲しそうなの? 何か嫌なことでもあったのかな。僕が言葉を返さないから……? レノ…できないんだ、もうできないんだ。ここに僕はいるけど、いないから。何も考えたくないんだ、何も。

 飛行場のロビーは閑散としており、ここにいる人は一番窓際に座っていたレノとリン以外に親子と老人の男性が一人、あとは中年の女性しかおらずロビーはとても静かだった。飛行船の到着までロビーにある黄色の冷たい長椅子に座っていたリンは待っている間ずっとレノに腕をまわされて、しっかりとレノの身体にもたれかかるように支えられていた。

「あと五分程で搭乗アナウンスが流れる。アナウンスが流れたら搭乗口に移動しよう」

 レノは隣にいるリンにやさしく耳元で伝えた。その時ロビーの反対側で子供の笑い声が聞こえてきた。売店で何か親に買ってもらったらしく、その子は嬉しそうな声を上げながら売店の前からレノ達の近くまで走ってきた。五歳位の男の子は手に宇宙船のおもちゃを持ち、一人楽しそうにおもちゃの宇宙船を飛ばしているようだった。子供はおもちゃに夢中になっており、近くにいるレノ達には全く気づいていない様子で無邪気に走り回り、長椅子に座っているレノ達の目の前を通り過ぎようとした時だった。

「わっ!」
「危ない!」

 男の子はレノの足に躓き勢いよく前に転びそうになった。だがレノは咄嗟に右手を出し、その子の身体を支えた。

「アル! 何してるの、危ないでしょう」
「びっくりしたぁ~」
「すみません、ご迷惑をおかけしました。ほらっ、謝りなさい!」
「ごめんなさい」

 転びそうになった子供に慌てて駆け寄ってきた母親と思われる女性は、男の子を叱るとレノに謝るよう強い口調で言った。

「謝らなくていいですよ、それより怪我はないですか?」
「アル、どこか痛いところある?」
「ないよ、どこも痛くない」
「全く、あんたはいつもすぐ走り回るんだから。もっと大人しくしていないって言っているでしょう? 本当にすみません。あっ、あの、怪我はありませんか?」
「いえ、私は全く大丈夫ですよ」
「そちらの方は大丈夫ですか? 顔色が良くないみたいですけど…」

 男の子の母親は心配そうに、リンにも向かって怪我はないか確認してきた。だが反応ないリンを見て困った様子でレノ達の前で立ちすくんでいる。

「大丈夫ですよ、彼にはその子はぶつかっていませんから」
「そうですか、それなら安心だけど。ほら、アル! もう一度謝りなさい!」
「えぇ~、ごめんなさい…」
「本当にすみませんでした」
「いえいえ、本当に大丈夫です。それよりお子さんに怪我がなくてよかった」

 その時ロビー内にアナウンスが流れるときのチャイム音が響き渡った。
 
《午後十三時発、イオ行きが到着いたしました。搭乗券をお持ちの方は一番搭乗口までいらしてください》

「それでは私達は搭乗口に移動しますので」
「あら、一緒ですね。私達もイオに向かうんです。旅行ですか? この季節イオはとても寒いですよ、夏もあまり気温が上がらないけど」
「旅行ではありません、今日からイオに移り住むんです」
「あら、そうなんですか。私達は実家がイオにあるので、年末はいつも実家で過ごしているんです。よろしかったら一緒に行きませんか?」
「えぇ、私はレノ・ファレンズ。この子はリンです」
「私はデュリィ、マリー・デュリィよ。そして息子のアルヴィ、よろしく」

 レノは大きめのショルダーバッグを右肩にかけると、リンを両手で抱きかかえ立ち上がった。

「ご病気なんですか?」
「今日退院したばかりで、まだ一人では歩けないんです」
「退院してすぐに四時間もかかるイオまで行かれるんですか!? それは大変ですね。イオへは仕事の都合で引っ越されるんですか?」
「えぇ、出来ればあまり長い距離を移動させたくなかったんですが、事情がありまして」
「何かあったら私に言ってください。私これでも看護士なの」
「それは心強い、何かあったときはよろしくお願いします」
「任せて! さぁ行きましょうか」

 マリーは明るく物怖じしない性格のようで、出会ったばかりのレノに対し親しげにそう言った。レノとリン、マリーとアルは一番搭乗口のある二階へと向かい、搭乗券を機械に通すとイオ行きの飛行船に乗り込んだ。乗客席の中央の窓際のシートにリンを座らせると、シートの脇についているレバーで背もたれを最後まで倒し、少しでも楽な姿勢になれるようにした。

「リン、これから到着まで四時間程かかるが途中具合が悪くなったりしたら教えて欲しい。私はずっと隣の席にいる、声に出せなくても手で私の手や服を引っ張れるか?リン、やってみてくれ」
「……」
「手は動かせるか?」

 レノはリンの手を掴んで、動かすように伝えた。だけれどリンの手は指すらも動かず、腕自体に力が入っていない様子だった。

「手に感覚は? 感じるか?」
「……」

 リンの両腕は元通りになっているはずだった。惑星リースに向かう途中、小型宇宙船内で両腕を身体に繋げる手術は成功し、その後の経過も良好であった。リースに来てこちらの病院に入院しているときも両腕に何も問題はなかった。神経はきちんと繋がっており、触覚や痛覚も正常であった。だが、今レノがリンの手や腕を触っても両腕は脱力したままだらんとしているだけであった。

「苦しくなったりしたらどこでもいいから身体を動かして教えて欲しい。リンの身体の状態を見逃すことはないと思うが、何かあった時は我慢しないで知らせなさい」

 力なく置かれたリンの両腕をおなかの上に交差させて静かに置くと、目にかかっていた黒く長い前髪をそっとかき分けた。レノ達を乗せた飛行船は予定通り午後十三時、惑星リースの中でも一番気温の低いイオという小さな町に向かって飛び立った。
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