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シャビー・バディ~よれよれの相棒~
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「シャビー・バディ~よれよれの相棒~」
右京之介
ネット通販で注文したパンスト三十足組が届いた。静電気防止加工がされ、よく伸びて、通気性もよく、肌触りもいい優れものだ。いろいろ試してみたがこれが一番フィットする。何といっても安くて丈夫なのがいい。お気に入りの逸品だ。
俺は黒っぽいスーツに着替えて、ショルダーバッグを肩から斜めにかけると、封を切ったばかりのパンストを一足、ポケットに捻じ込んだ。
カレンダーを見ると今日は木曜日だ。間違いなく燃えるゴミの日だ。
俺はオンボロの自転車にまたがり、家を出た。午前一時前のことだった。
俺の名前はBだ。
昨日までキーコキーコと鳴っていたボロ自転車だったが、さっき油を差したので静かで快適だ。家々の電気は消え、人々は寝静まり、小さな街灯だけが続く道を隣の街まで走る。
やがて町工場が並ぶ地域に差しかかった。その中の一軒は先日営業で訪れたばかりの金属精錬加工をやっている工場だ。年老いたオヤジが一人でやっている。いい機械を揃えていて、オヤジの腕もいいのだが、不景気とオヤジの頑固な性格が災いしてか、最近はほとんど注文が入らず、近々閉鎖することが決まっていた。
静寂を破って暴走族の集団が通り過ぎて行った。やっかいな連中だ。この俺よりも。
俺はその工場の脇の空き地に自転車を倒した。自転車は背の高い雑草で隠れた。
俺が住んでる街には平和が訪れた。かつてはコソ泥やチンピラによるカツアゲなどが横行し、汚く荒れていた街だったのだが、俺の活躍で悪党が一掃されたからだ。
今度は隣にあるこの街を平和にするのが俺の使命だ。
そう、俺は街を守るヒーローなんだ。
そして、今夜もこの街をパトロールするために、オンボロ自転車でやって来たわけだ。
すっかり寝静まった古くからの住宅街をしばらく歩くと、電信柱の下にヒョロヒョロの男が立っていた。電信柱が二本立っているようなものだ。俺と同じく目立たないように黒っぽいスーツを着て、小さなショルダーバッグを斜めにかけている。
――俺の仲間だ。この男はヒョロヒョロなのに力がある。柔道三段だ。現役を引退したら痩せたらしいのだが、その技は健在で、悪党をビュンビュン投げ飛ばす。俺はというと小太りだ。だが、元陸上部で見かけによらず足が速い。俺の場合は引退したら太り出した。これが普通だ。
男が軽く手を振って来た。この男との出会いは三か月前にさかのぼる。
子供の頃からヒーローに憧れていた俺は、夜な夜な街に出ては悪党を退治してきた。憧れのヒーローはやっぱり仮面ライダーだ。ウルトラマンはデカすぎるし、アントマンは小さすぎる。アイアンマンになれるほど金持ちではないし、セーラームーンは女子だ。俺には仮面ライダーが似合う。もちろん、平成ライダーではなく昭和ライダーだ。昼間はしがないサラリーマン。夜になるとカッコいいヒーロー。いいではないか。
最初はヒーローのような派手な格好にしようと思っていたのだが、逆に怪しまれそうなので、目立たないスーツ姿にした。といっても生地は軽くて、伸びやすく、破れにくい、撥水効果もあるという特注品だ。悪党退治といっても、この特注スーツを着てパトロールをし、夜中に悪事を働いている奴を見つけると、一発ぶん殴るか蹴飛ばすかして、さっさと逃げるだけだ。小太りだが、足には自信がある。箱根駅伝経験者クラスじゃないと俺には追いつけない。殴られた奴は痴漢なり、盗みなりをしていたのだから、警察に被害届を出すことはない。だから、俺は今まで捕まったことはない。また、こちらから奴らを警察に突き出すこともない。これに懲りて、二度と悪事を働かなければいい。俺は寛大だ。そいつの良心を信じて見逃してやってるのだから。
ただ、俺のヒーロー行為に何も見返りはない。仮面ライダーのように怪人をやっつけたからといって、子供たちやおやっさんに感謝されることもない。自己満足だ。だが、それでいい。誰も見ていないところで悪と戦っている。ヒーローには孤独が付き物なんだ。
そうやって何人もの悪党をとっちめているとき、不思議なことが起きだした。俺がやっつける前に悪党が倒れているんだ。その場からは決まってヒョロ長い男が去って行くのが見えた。向こうもこちらの存在に気づいたようで、ある夜、俺に声をかけてきた。
「いや、どうもどうも。毎晩、お疲れ様でございます」
彼はAと名乗った。永さんなのか、英さんなのか、、栄さんなのか分からないが、Aと名乗られたからには、俺はBと名乗ることにした。いつしか、AとBのコンビで、この街の浄化に奔走することになるのだが、この日はお互いのAとBという名前の紹介だけで終わった。
ある日、風体のよくない男が帰宅途中の女性にちょっかいを出している場面に遭遇した。さっそく俺は二人の間に立ちはだかって、女性をすぐに逃してやった。
獲物に逃げられた男は当然逆上してきた。
「何だ、てめえは!?」
「Bだ」と俺は言った。
「はあ? 何だって?」
聞き取りにくいのは当然だ。人相が分からないように頭からネット通販で買った格安パンストをかぶっているのだから、声がくぐもってしまう。
「アルファベットの……Bだ」もう一度、ゆっくりと言ってやった。
「なんだ、そりゃ?」
男が寄ってきて、俺の胸倉をつかもうとしたとき、「あっ!」と言って後ろを指差してやった。男は警官でも来たのかと思ったのだろう。あわてて振り向いたのだが、逆に胸倉をつかまえて投げ飛ばされてしまった。後ろに立っていたのは柔道三段のAさんだった。
「Bが存在するということは、Aも存在するということだ。アルファベットの配列くらい覚えておけ、この痴漢未遂野郎!」
俺は吠えてやった。近所に聞こえないように小さな声で。
投げ飛ばしたAさんは平然としている。
「いやいや、Bさん、今夜も会いましたねえ」Aさんはうれしそうに言い、とんでもない提案をしてきた。「私と組みませんか?」
Aさんは食品関係の営業マンをしているらしい。それは物腰で分かった。俺も機械関係の営業マンをしていて、営業マン同志同じニオイがするからだ。
Aさんは子供の頃からヒーローになりたくて、やっと今になって願いが叶ったと自己紹介してくる。実は俺もそうで、自分の街をキレイにしたから、今度はこの街をキレイにするために遠征して来ているのだと説明した。
「いやいや、そうでしたか。私の街のためにありがとうございます」
Aさんは俺に向かって深々と頭を下げる。頭を下げたAさんの目線の先には、さっき投げ飛ばした男が伸びていた。打ち所が悪かったのだろう、男は起き上がってこない。
こうして俺はAさんと一緒に組んで、この街の悪を退治することにした。Aさんは腰が低く、言葉遣いも丁寧で、穏やかで、笑うと目が垂れてしまう。黒縁眼鏡をかけて、髪型は今どき珍しく七三分けで、どこから見ても善人のようであったが、とんでもなく手癖が悪かった。投げ飛ばした奴らから現金を盗んでしまうのだ。それも、ちゃっかりとお札だけを抜き取り、財布はそのまま返却していた。そして、その窃盗という犯罪行為に対して、何ら罪悪感はなさそうだった。
Aさんは、今、足元に伸びている男のズボンのポケットから長財布を取り出し、お札だけを抜き取った。クレジットカードやキャッシュカードには触らない。使ったときに店や銀行などの防犯カメラに撮られるからだろう。Aさんは俺の方を向くと、抜き取った一万円札五枚を扇形に広げて、ニヤッと笑った。
「最近はキャッシュレスが増えて、現金の持ち合わせが少ないんですよねえ。今日は多い方ですよ。さあ、Bさん、これを山分けしましょう」
「いや、俺はいい。Aさん取っといてよ」
「そうですか。すいませんね。今度、何かをおごりますからね」
Aさんはスーツの内ポケットに五万円を躊躇なく入れた。
午前二時になっていた。
俺たちの浄化作業には時間制限を設けていた。午前一時から午前二時までだ。だらだらやっていると、すぐに夜が明けてしまうからだ。朝からはお互い仕事がある。仕事に支障が出ないように、きっちり午前二時に終わるようにしていた。このあたりのケジメはサラリーマンの悲しき性であった。本業はあくまでもサラリーマンである。街の悪党をやっつけても一円にもならない。仕事が疎かになってリストラでもされたら収入はなくなる。本末転倒である。
いつもはこのあたりで解散するところだった。
しかし、俺はその夜、Aさんの跡をつけることにした。何も悪気はない。Aと名乗っているが、本名は知らないし、仕事は営業マンというだけで、会社名も知らない。年齢は同じくらいだろう。夜中にウロウロできるのだから、俺と同じく独身で一人暮らしなのだろう。しかし、温厚そうな見かけと、やってることがあまりにも違い過ぎるので、どんな生活を送っているのか、単純に興味がわいたからだ。
Aさんは「では、今夜のところはこれで失礼いたします」と丁寧にお辞儀をすると、街の郊外に向けて歩き出した。俺はかぶっていたパンストを脱いで、ゴミ置き場にある他人が置いたゴミ袋の口を開けて捻じ込んだ。今日は燃えるゴミの日だから、パンストを捨てても大丈夫なんだ。燃えるゴミの日じゃなければ、そのまま持ち帰る。ヒーローがゴミのポイ捨てをしてはいけない。当たり前ではないか。
暑苦しかった夏が終わり、今は涼しい秋だ。パンストをかぶるには絶好の季節になった。このパンストマスクはAさんにも好評で、俺の使っているパンストメーカーを教えてあげたところ、さっそくネットで手に入れて、マネを始めた。それまでは顔をさらして悪党と戦っていたのだから恐れ入る。
素顔に戻った俺は自転車をそのままにして、歩きながら尾行を開始した。Aさんは振り返ることなく、まっすぐ歩いて行く。俺は電信柱から電信柱へと移動しながら、キチッとスーツを着こなしたAさんの跡をつけていく。
やがてAさんはこの街に一つだけある神社に入って行った。
俺も入ったことがあって知っているのだが、かなり古くて由緒ある神社だ。境内の清掃はちゃんとされていて、樹木の手入れもなされているが、神社の古さは隠せない。大きな鳥居が立っているのだが、ところどころに赤い塗装が剥げて木肌が見えていた。
Aさんは短い石段を上がると、石畳を進み、拝殿の前に立った。俺は灯篭の後ろにさっと身を隠す。小太りだが素早いんだ。
夜中にもかかわらず、あちこちに電灯が設置されていて、ヒョロ長いAさんの姿は良く見える。設備の行き届いた良い神社だ。
Aさんはスーツの内ポケットから先ほど奪ったお金を取り出すと、賽銭箱に投げ入れた。その後、手を合わせて長い間、何かのお祈りを始めたので、俺は神社を後にした。
何だ、あの人は?
盗んだお金を賽銭箱に入れている。
いったい、悪人なのか? 善人なのか?
こんなこともあった。
「Aさん、ちょっと前のことなんだけどな」
俺がまだAさんとコンビを組む前の話だ。
「この街の無向湖にボートが漂っていた事件があったのは知ってるかい?」
俺が守っているこの街に起きた奇妙な事件のことを聞いてみた。もしかしたら、何らかの犯罪が関わっているのでないかと睨んでいたからだ。
「はい、知ってますよ。早朝、一人の男が湖の真ん中で漂流しているボートの中から手を振って助けを求めていた事件ですよね。あの男は窃盗の常習犯だったのですよ」
「そうなのか!?」驚いてAさんの顔を見る。いつものように平然としている。「よく知ってるな。だが、湖の真ん中で二時間も手を振っていたのに誰も助けに行ったり、通報したりした人がいなかったというのはおかしいよな」
「それは、その男が全裸だったからですよ」
「そうなのか!?」
「はい。全裸で手を振ってる変質者だと思われて、道行く人たちは見て見ぬフリをしていたのでしょう」
「Aさん、よく知ってるな」
「はい。民家に侵入しようとしていたところを、私が捕まえたのです」
「そうなのか!?」
「はい。暴れたものですから、シメてやって、身ぐるみ剥がして、湖のほとりに係留してあったボートに寝かせて、オールを外して、力一杯、沖に向けて押しやったのですよ。まさか、湖の真ん中にまで到達するとは思ってませんでした。あの日は風が強かったから、流されたのでしょうねえ。しかし、真ん中あたりに着いたとたん、風が止んだのでしょう。運の悪い男ですよ」日記を読むようにスラスラと説明する。罪悪感はないようだ。
「Aさん、よくやるな。そいつからもいただいたのかい?」
俺は指で丸を作って見せる。
「はい、もちろんです」うれしそうだ。「コソ泥なのに十万円も持ってました。その前に、どこかで盗んで来たのでしょうねえ。十万円だけで止めておけばよかったのに」
Aさんはまるでハイエナのような人だった。笑うハイエナだった。
「しかし、剥がした服一式は湖のほとりにちゃんと畳んで置いておきましたよ」
それでも良い人とは思えないのだが。
俺たちABコンビはその後も街の悪党をつぎつぎに成敗し、Aさんは抜き取ったお金をつぎつぎにあの古びた神社へ喜捨していた。何度か尾行したのだが、その習慣は変わらなかった。
俺は相変わらずオンボロ自転車に乗ってこの街にやって来ては、金属精錬加工工場の脇の空き地に寝かせたまま、ヒーローゴッコを続けていた。
Aさんは俺の自転車通勤を知って、いつしか一緒に帰るようになった。途中までは帰り道が同じだったからだ。その頃、すでに尾行はやめていた。Aさんの行動は判で押したように同じで、何も変化がなかったからだ。ちゃんと定時にタイムカードを押す地方公務員のようなAさんだった。
ある夜、前から二人の警官が歩いて来た。俺は自転車を押していて、Aさんは並んで歩いていた。俺は手ぶらだったが、Aさんはさっき盗みを働こうとしていた男を投げ飛ばして、ポケットから五千円を抜き取っていた。この時間に警官と会うのは初めてだったため、ヤバいかもしれないと思ったのだが、Aさんはいつもの営業マン丸出しの口調で警官に挨拶をした。
「こりゃどうも、おまわりさん。遅くまでお疲れ様でございます」
満面の笑顔を向けた上に丁寧な口調だ。おまけに身なりはちゃんとしたスーツ姿だ。疑われる理由は何もない。話しかけられた二人の警官は、飲み会帰りのしがないサラリーマンと思ったらしく、軽く会釈をしたまま行ってしまった。
俺たちの最大の武器はこれだ。どう見ても悪党ではなく、ヒョロヒョロと小太りの哀愁が漂うサラリーマンにしか見えないということだ。シルエットを見ると、まるでスターウォーズのロボットコンビだ。
実際、毎日せっせと会社に通っているサラリーマンであり、職務質問を受けて、持ち物検査をされたとしても、出てくるのは本物の社員証であり、いつも営業で使っている本物の名刺である。こんなときのために、スーツを着て、身分証も携帯しているのである。覆面用のパンストを見られたらマズイが、キャバ嬢にプレゼントするとか何とか言ってごまかせばいい。
おそらく、Aさんも同じだろう。悪党から抜き取った金といっても、名前が書いてあるわけではないし、財布までは盗んでないのだから、バレることはない。盗みに入ろうとして、逆にお金を盗まれた悪党も警察には届けてないだろう。俺に蹴飛ばされた尻と、Aさんに投げ飛ばされた腰を押さえながら、ヨロヨロと歩いているはずだ。
パトロール中の警官と出くわしても、盗みを見つかって、やっつけられたとは恥ずかしくて言えないだろう。
「では、わたしはここに用事がありますから失礼します」
Aさんは神社の中に入って行った。あの五千円を賽銭箱に入れに行ったのだろう。俺は自転車にまたがると、俺の街にむけて漕ぎ出した。今日も悪党を一匹退治できて良かった。しょぼい小悪党であったが、空から俺たちを見下ろしているお月さんも喜んでくれていることだろう。
遠くで暴走族が走り回る爆音が聞こえてきた。あいつらを何とかしたいのだが、名案は浮かばない。この自転車では立ち漕ぎしても追い付かないだろうから。
俺たちヒーローのパトロールは毎夜続いた。
近くで消防車のサイレンの音が聞こえる。今日はサイレンがよく鳴っている。
「最近、この街でボヤ騒ぎが続いてますね」Aさんが言う。
誰かが火をつけて回っているのではないかとウワサされていた。だが、俺たちのアンテナには引っかかってこない。平和な街にするためには、何としても捕まえたい。放火魔なんだから、一発ぶん殴って放置というわけにはいかない。重犯は警察に突き出す必要がある。
今日は手分けして街を巡回しますかと話し合っていたところ、突然路地から若い女が飛び出して来た。ぶつかりそうになった俺たちはあわてて避けたのだが、Aさんは、その女性を捕まえてくださいと叫んだ。
なんだ? と思ったのだが、俺は追いかけた。若い女でも俺の方が断然速い。女だから箱根駅伝経験者ではないはずだ。たちまち追いつくと、女の前に周り込み、距離を空けたまま、両手を広げて通せんぼをした。腕や肩を触ったりすると痴漢扱いされるかもしれないからだ。
「警察の方ですか?」立ち止まった女はおびえた声で訊いてきた。
「……まあ、そんなもんだ」適当に返事をする。私服警官に見えたのだろう。
後ろからAさんが走って来た。
「この人は俺の同僚だ」また適当なことを言う。
「すいません」挟み撃ちにされた女は、その場にヘナヘナと座り込んだ。
続いて二人の本物の制服警官が走って来た。
「どうもご苦労さんです!」
警官は俺たちにお礼を言って、女を連行して行った。
「Aさん、なんであの女が放火犯だと分かったんだい?」
「体から焦げ臭いニオイがしましたから」
Aさんは平然と言った。
「あの女、俺たちを警官と間違えたな」
「暗がりでしたから、そう見えたのですかねえ」
俺たちは歩きながら、お互いを見渡した。
警官には見えなかった。かといって、悪党にも見えなかった。
どう見ても、くたびれたサラリーマンであった。
「しかし、一円にもなりませんでしたねえ」
Aさんは放火犯からも金を奪うつもりだったらしい。
とんでもない人だった。
俺は以前から気になっていた暴走族のことでAさんに相談をした。何とか二人で協力して、やっつけられないものか。
「Bさん、暴走族を相手にするのは分が悪いですよ」
「やっぱりそうかい」
「人数が多いですし、バイクが相手では、いくらBさんの足が速いといっても追いつけません。せめて、Bさんの自転車が電動アシスト自転車に代わればいいのですが」
「やっぱり警察に任せるしかないな」
「実はすでに手を打ちました」
Aさんはスーツの内ポケットに手を入れた。
まさか、拳銃か? 撃ち殺すというのか?
Aさんならやりかねないが、俺はそこまで関知したくないぞ。
「これを見てください」
Aさんが出してきたのは、一枚のレシートだった。
見てみると、ドラッグストアのレシートだ。
栄養ドリンクを五十本購入?
「はい。これを警察署に匿名で差し入れしておきました。これを飲んで、力を付けて、暴走族を捕まえてくださいという手紙を添えておきました」
Aさんは善人なのか悪人なのか、ますます分からなくなった。
だが、数日後、この街から暴走族が出す騒音が消えたことは確かだった。
栄養ドリンクが効いたのか、差し入れをもらって警察が奮起したのかは分からない。
翌日は平和な一時間だった。Aさんと手分けして街の見回りをしたのだが、怪しい人物には遭遇しなかった。そろそろこの街にも平和が訪れようとしているのかもしれない。待ち合わせ場所に決めていた雑貨屋の前でAさんと合流し、神社方面に歩き出した。お互いの営業についての当たり障りのない話をする。どう見ても仕事帰りのサラリーマンだ。
一軒の古い平屋建ての家にさしかかったとき、庭の隅で何かが動く姿が見えた。Aさんも気づいたようで、両端から挟み撃ちにすることにした。お互い、すばやくパンストをかぶる。
一人の男が庭に干してある洗濯物を盗もうと手を伸ばしていた。
いきなり現れた俺とAさんに、男はびっくりしていた。
スーツを着て、ショルダーバッグを下げ、パンストで覆面をしているのだから、昼間に出会っても不気味だ。見方によっては、一人の変質者が二人の変質者に出くわしたようなものだ。――真夜中、見知らぬ家の庭に変質者が三人。
驚いた男は物干し竿に干してあるブラジャーに手をかけたまま硬直した。Aさんはすばやく歩み寄ると、足をかけて男を倒した。俺は倒れた男のケツに一発、サッカーボールキックをお見舞いしてやった。いつもなら、このまま引き上げるのだが、Aさんが面白いことを言いだした。
「こいつを縛って、転がしておきましょう」
なるほど。この庭先には女性の下着が、まるで見本市のようにたくさん干してある。
Aさんが男を柔道技で押さえ込んでいる間、俺は男の両手両足をブラジャーで縛り、そんな下着が好きなら、これでも喰らえとばかりに、猿ぐつわもブラジャーでしてやり、おまけに頭からパンティをかぶせてやった。リアル変態仮面の出来上がりだ。このままイモムシのように這って逃げないように、両足と物干しのコンクリート台とを、これまたブラジャーで結び付けてやった。これで変質者は下着三昧となった。
翌朝、庭に出た家人はパンティをかぶった、ブラジャーづくしの変質者に驚いて通報するはずだった。
これで俺たちヒーロー二人組は下着泥棒を一人、成敗してやることに成功した。小悪党だがうれしい。もちろん、Aさんはこの男のポケットから容赦なく、二万円を抜き取っていた。まるで、死骸に喰いつくピラニアのようであったが、本人は相変わらず、何も気にしていない様子だった。
俺はかぶっていたパンストを脱いでショルダーバッグに入れた。今日は燃えるゴミの日ではないため、このまま家に持ち帰るのだ。
ゴミの分別はしっかり行う。ヒーローとしては当然の行いだった。
せっかく平和が訪れようとしていると思っていたこの街だったが、昨日の下着泥棒に続いて、今夜は宝石泥棒に出くわした。いつもの小悪党と違って、中悪党だ。この街に一軒だけある宝石店のシャッターへ軽自動車がバックで突っ込もうとしているところに、パトロール中の俺とAさんが偶然に遭遇したのだ。おそらく車は盗難車であろう。犯人は二人組のようだった。
「Bさん、警察に連絡してもらえますか」Aさんが小声で言ってきた。
さすがに俺たちだけではやっつけられないと判断したのだろう。
俺はスーツからスマホを取り出そうとしたが、
「あそこにありますよ」Aさんが公衆電話を指差す。「私はこれで何とかしますから」石ころを二個、拾い上げた。
まさか、石を投げつけて犯行を止めるのか?
俺は犯人に見つからないように腰をかがめて電話ボックスへ急いだ。
あの中なら多少大きな声を出しても聞こえない。
ボックスの中から警察に電話をかけながらAさんを見ると、電信柱の陰から軽自動車に向かって、本当に石を投げていた。車はシャッターに狙いを定めて、バックで動き出したところだ。
Aさんは長身で力があるのだからピッチングには持って来いだ。運転席側のサイドガラスに当たり、ヒビが入るのが見えた。運転手はあわてて車を止める。目出し帽をかぶっているので表情までは分からないが、急に大きな音がして、ヒビが入ったので、驚いているに違いない。
Aさんはすかさず、もう一個の石を宝石店の二階に向かって投げた。
えっ、何をするんだ?
二階は住居になっているようで、カーテンが見える。店の家族が住んでいるのだろう。派手な音を立ててガラス窓が割れた。
夜中の一時過ぎ。静かな街にガラスが割れる音が響き渡った。軽自動車の犯人にもその音が聞こえたのだろう。ハンドルを切ると、あわてて逃げ出した。シャッターは無事だった。
俺は急いで警察に軽自動車の車種とナンバーを告げて、そのまま電話を切った。
街灯しかない夜とはいえ、俺はアフリカ人並みに視力がいい。
白い排気ガスが漂う中をAさんは走ってくると、電話ボックスの扉から顔だけ出している俺に向かって、「Bさん、私たちも逃げましょう!」と声をかけて通り過ぎて行く。
俺は急いでAさんの後を追って走り出した。家の窓ガラスを割ったのだから、器物破損の現行犯になってしまう。犯行を阻止するためといえ、とんでもない作戦ではないか。
毒をもって毒を制するとはこのことか? いや、違うか? まあいい。
俺はAさんを全力で追い掛ける。
「おいおい、俺より速いって、どういうことだ?」
二人のしがない中年サラリーマンは必死になって、その場から逃げ出した。
まだまだ平和が訪れようとしないこの街だったが、放火犯、下着泥棒、宝石泥棒に続いて、またもや事件が起きた。三度あることは四度あるのだが、今度は小悪党でも中悪党でもなく、正真正銘、本物の大悪党であった。
その夜、待ち合わせ場所の電信柱の下にいたAさんに声をかけたとたん、近くで銃声らしき音が二発聞こえた。“らしき音”というのは実際の銃声を聞いたことがないからだ。テレビや映画で“バキューン”という銃声を聞くが、あれはカッコよくデフォルメされた音だろう。今の音は乾いた音だ。乾いた音がしたという表現は報道でよく使われている。では、逆に濡れた音というのはどんな音かと聞かれても困るのだが。
俺はAさんと目を合わせた。お互いパンストをかぶる前だから表情がよく見える。Aさんも驚いているが、「Bさん、見に行きましょう」と冷静に言われた。
小さな交差点を曲がったところに、二人の男が向かい合った状態で、うつ伏せになって倒れていた。俺は手前の男の元にしゃがみ込んで様子を見る。「おい!」と声をかけてみるが、ピクリとも動かない。やがて、胸の下から血が流れ出てきた。
ああ、これじゃダメだ。これだけの出血量じゃ助からないだろう。
Aさんは五メートルくらい先に倒れている男のそばに立っていた。向こうの男も動かないようだ。Aさんはこちらに歩いて来た。
「向こうは頭を撃たれてました。こちらは胸を撃たれてますね。相撃ちですね」
「相撃ちって、西部劇じゃあるまいし、そんなことがあるのか?」
「どうなんでしょうかねえ」Aさんはそう言いながら、男のポケットをまさぐる。
まさか、こんなときでも財布を探しているのか?
「ああ、ありました」
Aさんは男のスマホを見つけ出すと、一一九番通報して、ケガ人が二名発生したことを伝えた。自分のスマホを使いたくなかったようだ。
「Bさん、行きましょう」
Aさんはさっさと歩き出したのだが、右手に紙袋を下げている。
俺は後ろから早足で追い掛けながら訊く。
「Aさん、それは何ですか?」
「さっきの男の脇に転がってたので、いただいてきました。しかし、なんだか重いんですよ、これ。よく紙袋が破れないなあ」変なところに感心している。
死体からも何かを盗んでくるとは、Aさんはまるでハゲタカのような人であった。
これで、Aさんを例える生き物が、ハイエナ、ピラニア、ハゲタカと三匹揃った。陸海空を制覇したということだ。もっとも、ピラニアは海じゃなくて、川に住んでるのだけどな。
やがて、俺の自転車を隠している工場の脇の空き地に着いた。ここに座り込んだら、背の高い雑草に隠れて周りからは見られない。Aさんはスマホのライトを点けて、戦利品である、かっぱらった紙袋の中身を確認しはじめた。二つの物体が新聞紙に包まれて入っていた。
「Aさん、その形は…?」
「どう見ても鉄アレイですよねえ。道理で重たいと思いましたよ」
新聞紙を剥がすと、はたして、紺色をした五キロの鉄アレイだった。二つで十キロ。これを持って早足で歩いていたのだから重いはずだ。
「なんで、鉄アレイなんだ?」
「さあ、何ででしょうかねえ。しかし、あの二人は風体からしてヤクザもんですよね。この鉄アレイを巡って殺し合ったようですから、何らかの価値があるのではないでしょうか。これは私が預かっていてもいいですか?」
「ああ、もちろん」そんな不気味な物を持って帰りたくないし、筋トレの趣味はない。
「朝のニュース報道で明らかになればいいんですけどねえ」Aさんがしみじみと言う。
さすがに、神社へ鉄アレイを奉納するのではなく、自分で自宅に保管するのだろう。
遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
深夜の殺し合いは新聞の朝刊に間に合わなかったようが、テレビやネットで報道されていた。俺は会社でその日の営業に使う資料をプリントアウトしながら、机の下で自分のスマホを使ってニュースをチェックしていた。
殺し合ったのは、やはりヤクザもんで、それぞれ欧坂組と東凶組の組員だった。抗争事件のようだ。先日より密輸した金塊の取り分を巡って対立をしていたらしい。
「金塊かよ!」俺は思わず大声を上げた。
周りの社員の冷たい視線が飛んで来る。
「いや、何でもない」
ネットニュースには続けてこう報道されていた。
密輸されていたのはインゴットという金の延べ棒で、見つからないように、いったん溶かして違う形のものに成型するらしい。
「溶かして違う形の物に…? あの鉄アレイだ…」
俺はすぐに金相場を調べてみた。最近は金が高騰していて、一キロ七百万円は越えているらしい。つまり、あの五キロの鉄アレイが二つで十キロ。つまり、七千万円を越える価値があるわけだ。
「七千万かよ!」
また、周りの社員の冷たい視線が突き刺さる。
「いや、独り言だ」
Aさんの顔が浮かんだが、お互いの連絡先は知らない。
今晩、また会うことになってるのだが、Aさんはこのことを知っているのだろうか?
その夜。俺はAさんがニュースを見てから、鉄アレイを持ってどこかへ逃げてしまったのではと思ったのだが、電信柱の下にヒョロヒョロの姿を見つけたとき、疑って申し訳ないと心の中で謝った。Aさんはちゃんと来ていたのだが、なぜか、手には例の紙袋を下げていた。
「Aさん、ニュースを見たかい?」
「はい。金塊と知って驚きました。鉄アレイを少し削ってみたのですが、塗装の下からは金が出てきました」
「やっぱり本物だったのか。今の相場じゃ、十キロで七千万円以上になるらしいぞ」
「はい。そのようですね。しかし、私はすぐに売却するのではなく、もう少し有意義に使ってみたいのです。そのことでBさんの許可を得ようかと思いまして」
「Aさんが持って来たのだから、自由にすればいいよ」と言ってみたのだが、俺も大金は欲しい。だが、鉄アレイはAさんが死人から奪い取って来たものだ。できれば、そんな気味の悪いことには関わりたくない。タタリがあったらどうする。揺れ動く中年心だ。
「有意義な使い方というのは何だい?」
「はい。そのことで、Bさんにお願いしたいことがあります。紙袋を二つ、持ってきました。それぞれに鉄アレイが一つずつ、入ってます。これを手分けして、欧坂組と東凶組の事務所の前に置いて来たいのです」
「えっ、返すというのか?」
「いえ。これはすり替えた本物の鉄アレイです」
俺は欧坂組の事務所のそばにいた。Aさんによると抗争事件が起きて以来、警官が二つの組の本部前に張り付いているらしい。だが、いくつかある事務所前には警官の姿はなく、作戦は決行できるという。
作戦というのは事務所前に鉄アレイが入った紙袋を置いて、ピンポンダッシュで逃げるというものだ。まるで小学生がやるようなイタズラをして何が面白いのか?
だが、引き受けた以上はやることにする。もう一方の東凶組の事務所前にはAさんが向かっているのだ。俺が断ったら、Aさんは両方の事務所に行きそうだったので、引き受けることにした。今までいろいろと世話になってるからだ。
こういう事務所前には必ず、防犯カメラが設置してある。抗争の最中だから夜中でも見張っているだろう。俺はパンストをかぶり、手袋をすると、横目でカメラを睨みながら、紙袋を置くと、呼び鈴をピンポンピンポンピンポン…と連打してから、全力で走り出した。
走りながら頭からパンストをはずす。かぶったままだと、善良な市民にパンストをかぶって全力疾走する変質者と間違われる。新たな都市伝説になってしまう。
「誰やねん、こんな夜中に!」
欧坂組の事務所内で一人の若手組員が叫んだ。呼び鈴を何度も押されたからだ。もう一人の当直当番で仮眠中だったアニキ分の男を叩き起こすと、寝覚めが悪かったらしく、うるせえと一発殴られた。頬を押さえながら玄関を見に行ったが、怪しい人影は見当たらない。だが、怪しい紙袋が置いてあった。中には新聞紙に包まれた重い物が入っている。どうやら爆弾ではなさそうなので事務所に持って帰った。包みをほどくと鉄アレイが出てきた。
「アニキ、これは…?」
「おお、これは昨日、東凶組に盗まれた鉄アレイやんけ!」
昨夜、取引に使われた金の鉄アレイであったが、その場からなくなっていたため、お互いが敵対する組に盗まれたと思い込んでいたのだ。
「アニキ、紙が入ってます!」
鉄アレイには紙切れが添えてあった。
広げてみると、一言“バカ”と書いてあった。
この一言で当直組員の頭へ血管が暴発するくらいに血が上った。
関西人はアホと言われても平気だが、バカと言われると無性に腹が立つのだ。
「おい、朝一でたこ焼きを買うて来い!」
「何をするんでっか?」
「東凶組を叩きつぶすために、タコ焼きを食べて景気付けをするんじゃ!」
「朝っぱらから店なんか開いてまへんで」
「アホンダラ! 脅してでも開けさせろ! ほんで、コロコロっと焼いてもらえ!」
同じ頃、Aが鉄アレイを置いてピンポンダッシュで逃げた東凶組の事務所内も荒れていた。見習いの組員が玄関から持って来た紙袋の中をアニキ分が見る。
「これは昨日、欧坂組に盗まれた鉄アレイじゃねえのかよ! おい、もう一つあっただろう」
「えっ? 最初から一つだけでしたよ。自分は触ってませんよ」
「金の鉄アレイは二つあったはずなんだ。欧坂組め、どういうつもりだ。とりあえず、本部に連絡してくれ!」
見習いの組員は電話をしながら何度か頷くと、深々と頭を下げながら切った。
「アニキ! すぐにその鉄アレイを本部まで持ってくるように言われました。それと、今夜中に兵隊を集めろと言われました」
「何! カチコミかよ!」
東凶組は欧坂組に殴り込みをかけることに決めたらしい。
「よーし。やってやろうじゃないか!」
アニキは気合を入れると、興奮して床に転がっていた紙袋を蹴飛ばした。
鈍い音がして、転がっていた紙袋の横にアニキも転がった。鉄アレイを裸足で蹴飛ばしたからだ。そのとき、紙袋の中から紙切れが出てきた。見習いの組員が広げてみると、一言“アホ”と書いてあった。
「アニキ、アホと書いてあります!」
「何! 欧坂組の野郎、覚えてやがれ!」アニキは転がったまま、つま先を押さえて吠えた。
関東人はバカと言われても平気だが、アホと言われると無性に腹が立つのだ。
「おい、ひよこ饅頭を買って来い!」
「何をするのですか?」
「東京名物ひよこ饅頭を食べて景気付けするんだよ!」
「朝から店は開いてませんよ」
「バカ野郎! 饅頭を作ってる工場へ行って、ベルトコンベアを動かしてもらえ!」
AとBはまんまと作戦に成功すると、この夜はこのまま帰宅することにした。
二人はBの自転車を隠している空き地まで並んで歩く。
「いったい何を企んでるんだい?」
俺は隣を歩いているAさんを見上げながら訊いた。
Aさんは俺を見下ろしながら答えた。
「今頃、双方の組はあの鉄アレイを見つけて、大騒ぎをしているはずです。そして、すぐにあの鉄アレイは金ではなく鉄だと気づくはずです。まさか、私たちが仕掛けたなんて思わないでしょう。お互いの組がお互いを騙して、からかったと思うはずです。つまり、もともと仲が悪かった二つの組を対立させて、相撃ちにさせようと思います」
「また、相撃ちか? そんな西部劇みたいにうまくいくかい?」
「わざと怒らすような紙切れも入れておきましたから、騙されてくれませんかねえ。うまくいけば、二つの組が消滅して、この街にも平和が訪れるのですけどねえ」
どこまで本気か分からないAさんであった。
しかし、事態はAさんの思惑通りに進んだ。
東凶組のカチコミを皮切りに、欧坂組と東凶組の抗争が激化していったのだ。
・欧坂組の死者二名。東凶組の死者三名。
俺とAさんのヒーローゴッコは一時中止にすることになった。抗争のおかげで、昼夜問わず、街のあちこちに警官の姿が見られるようになったからだ。
・欧坂組の死者五名。東凶組の死者七名。
俺はそれでもいいと思っている。Aさんの作戦がうまくいったということだからだ。あれから、Aさんとは連絡は取っていないが、Aさんも喜んでいることだろう。
・欧坂組の死者八名。東凶組の死者十一名。
これで二つの反社勢力がなくなるとこの街も静かになる。そのときは、また違う街に行って、悪党を退治するだけのことだ。
・欧坂組の死者十二名。東凶組の死者十四名。
俺が違う街に行ったら、はたしてAさんも来るのだろうか。また二人で暴れたいものだが、
Aさんは何を考えているのか分からない人なので、俺には何とも言えない。
・欧坂組の死者二十名。東凶組の死者二十名。
二つの組の死者数が同じく二十名になったところで、抗争はピタリと止んだ。しばらく様子を見ていたのだが、それ以来、抗争は起きず、新聞発表の死者数も変わらない。大きな勢力とはいえ、これだけの死者が出れば、メンツがあるとはいえ、お互い疲弊するだろう。軍資金もかかるし、何人かの幹部クラスの組員も亡くなっている。組の運営にも影響が出始めていたのかもしれない。
俺は久しぶりにオンボロ自転車をこいで、この街にやって来た。うれしいことに電信柱の下にはAさんがいた。
「Aさん、久しぶり」
「いやあ、Bさん、お元気でしたか?」
俺はふと本物の鉄アレイはどうなっているのかが気になったのだが、Aさんはそれを察したのか、自分から話してくる。さすがAさんといったところだ。
「あの七千万円以上の鉄アレイですが、ちゃんと保管してありますので、ご安心ください」
「いや、心配はしてないよ」と言っておく。実は気になっていたのだが。「もともとAさんがかっぱらった物だからな」
「あれをどうするかは、考えているところです。それにしても、抗争が止んだのは残念ですね」
「そうだな。なぜ、止んだかはニュースでもやってないな」
「そこで、なんですけど」
「なんだ、また何かをやらかそうとしているのかい?」
「はい、その通りです。もう一度、ピンポンダッシュ作戦をやりませんか?」
Aさんは手に二つの紙袋を下げていた。また本物の鉄アレイを用意してきたらしい。
「せっかく燃え上がった炎が小さくなりました。だから、息を吹きかけて、火種をまた大きくするのです。二つの組織を完全に壊滅するのです」
Aさんが用意した金ではなく鉄のアレイを一つずつ持った俺たちは、ふたたび欧坂組と東凶組の事務所に向かい、呼び鈴をピンポンピンポンピンポン…と連打して帰って来た。抗争が止んでからは、街中のあちこちにいた警官の姿はなく、すんなりと鉄アレイ入りの紙袋を置いてくる作戦に成功した。
さらに、今回、Aさんは空薬きょうを用意していた。
「Bさん、これをバラ撒いてきてください」
俺は五個の空薬きょうを渡された。
「事務所前に空薬きょうが落ちていたら、銃弾を発射されたと思うじゃないですか」
「そんな子供騙しが通用するか?」
「やってみないと分かりませんよ。前回も連中はまんまと騙されて抗争が始まったじゃないですか」
「まあ、そうだけどな」
Aさんは双方の組から四十人もの死者が出たことを何とも思ってないようだ。それどころか、また仕掛けようとしている。
「この空薬きょうはどこで手に入れたんだ?」
「ネット通販で買いました。ちょうど十個セットがありました」
「こんな物を売ってるのか…」
そして、今回もAさんは紙袋に紙切れを入れていた。
それぞれ、“おじけづいたかバカども”と“おじけづいたかアホども”と書いてあった。
これでまた関西の組と関東の組とが対立するはずであった。
事態はAさんの思惑通りに進んだ。いや、それ以上の激しさで進んだ。
双方の組が全総力を挙げて抗争を再開したのだ。
前回の抗争の停止には理由があった。
長引く抗争に第三の勢力である盗壊組の組長が間に入り、手打ちをしたのである。
AとBのヒーローコンビはこのことを知らなかった。手打ちは秘密裏に行われたため、どこにも報道されていなかったからである。そうとも知らずにピンポンダッシュ作戦を決行してしまったのだから、双方の組は大騒ぎになった。
――手打ちが済んだのにどういうことだ!
お互いの組が疑心暗鬼に陥り、罵り合い、ふたたび抗争が勃発した。また相手が仕掛けてきたということは、手打ちの儀式を反故にしたことになり、間に入って治めてくれた盗壊組の組長の顔に泥を塗ったことになる。
まさか、見知らぬサラリーマンであるAとBが仕掛けたとは思っていない。
欧坂組と東凶組はお互いに相手を完膚無きまで叩き潰し、あわよくば組を統一してやろうとまで心に決めて、立ち向かって行った。
その結果、今回の抗争では、空薬きょうだけではなく、銃弾が飛び交い、日本刀が交じり合い、爆弾を搭載したドローンが襲撃し、互いの本部には手榴弾まで投げ込まれた結果、幹部の犠牲が相次ぎ、近隣住民が避難するまでになってしまった。
反社の抗争がカタギに迷惑をかける事態にまで発展したことで、世論は大きく動き、警察も総力を結集したところ、組の統一どころか、ついに双方の組は解散することになったのである。
西部劇みたいなことが本当に起きたのだ。
こうして、この街にも平和が訪れた。
抗争終了から数日後、俺たちは深夜の見回りを再開した。もちろん、組の抗争のきっかけが俺たちの仕業だなんて、どこにもバレていない。俺たちはまた、日常の生活に戻っただけだ。二度の抗争でたくさんの犠牲者が出たようだが、街が浄化できたのだから、いいだろう。
と言うものの、実はそのことで、俺は少しばかりやり過ぎたかなと思って、少しばかり反省していたのだが、Aさんと会ってみたら、あっけらかんとした、平気の平左で、「ショッカーの首領が死んだからといって、仮面ライダーが悲しまないのと一緒ですよ」と笑っているではないか。とことん、分からない人物である。
Aさんはその夜、鉄アレイから紺色の塗装を剥がした金ピカの金アレイ二個を紙袋に入れて持って来ていた。
「Bさん、このアレイを売却したいのですが、このままでは売れないと思うのですよ。何かいいアイデアはありませんか?」
「そうだな。溶かして鉄アレイの形にしたのだから、もう一回溶かして元に戻したらどうだい?」
「ああ、それはいい考えですね。しかし、どうやって溶かすのですか?」
「俺に心当たりがあるよ。これでも機械関係のセールスマンなんだ。明日の昼間に会えるかい?」
翌日の昼間、俺たちは閉鎖が決まっている金属精錬加工工場に来ていた。
「オヤジさん、ご無沙汰しております」営業マンの俺は経営者に頭を下げる。
「ああ、アンタか。もうここは閉めるって、言ってあるだろ」
「はい、それは私も聞いております。今日はセールスに来たのではありません。いくつもの装置が引き取り手もなく、まだ置いてありますよね。そこでオヤジさん、相談なんですが、デジタル金属溶融炉を譲ってくれませんか」
俺は営業の際には“俺”ではなく、“私”を使うし、言葉遣いは丁寧になる。敬語なんてペラペラだし、米つきバッタのように頭を下げる。
なんといっても、夜はヒーローになるが、昼間は普通のサラリーマンだからだ。このギャップがたまらないと自分でも陶酔するくらいだ。
デジタル金属溶融炉は金属を溶かす装置だ。溶融量は三キロ。十五分もあれば溶かすことができる。これで金アレイを溶かそうというわけだ。俺の会社では扱ってないから、中古品を買い取ることにしたのだ。
オヤジさんは工場の隅に置いてある溶融炉に歩み寄った。
「これは高かったんだ。十二万円かな」
「では、十万円でどうですか?」
「おっ、いいのかい? これは年季が入ってるから二束三文だ。転売しても儲からんぞ」
「いいですよ」俺は営業カバンから十万円を取り出して、オヤジの目の前に差し出した。現金の力は大きい。オヤジの目の色が変わった。
「いや、悪いねえ」遠慮なく十万円を掴み取る。「受け取りのサインはいらないのか?」
「いいえ、これは私個人が購入するものですから結構です」
「訳アリという奴か。だったら、黒鉛るつぼインゴット鋳型も付けてやるよ」
「そうですか。それはありがたいです」
金アレイを溶かしてこのインゴット鋳型に入れて固めると、四角い形になるというわけだ。
「ついでに、ゴーグルと手袋も付けてやるよ」
「ありがとうございます」俺は深々と頭を下げる。
これは作業をするときに必要なんだ。
現金をもらったオヤジは気前がいい。
「ところで、アンタ、何かを溶かすのか?」
「いいえ、私にそんな趣味はありませんよ」
「俺は嫌な過去を溶かしたいなあ」
「そうですか。ははは」
くだらないジョークも笑ってあげるのが優秀な営業マンだ。俺の笑顔は魅力的なんだ。
俺はデジタル金属溶融炉を片手で持ち上げた。重量は五キロしかない。軽いものだ。
オヤジに一礼して、もう二度と来ないであろう工場を出た。
外ではAさんがニコニコしながら待っていた。
俺たちの十キロの丸い金アレイは二十枚の四角い金塊に変わった。
いびつな形だったが正真正銘の金だ。貴金属店で鑑定してもらい、正式に買い取ってくれた。金塊を売却して得た金はAさんと二等分した。一人三千万円超になった。
大金を手に入れたが、俺は会社を辞めず、優秀な営業マンを続けている。辞めたところで、何もすることがない哀しきサラリーマンだからだ。その金で俺はオンボロ自転車を買い替えた。小太りの中年男にはうれしい電動アシスト自転車だ。
翌日、電動アシスト自転車を試運転してみた。この電動自転車と俺の脚力があれば暴走族にも追いついたのだが、警察の尽力もあってか、もうあの連中は見かけない。反社の二大勢力も解散した。放火犯も、下着泥棒も、宝石泥棒も影を潜めた。この街にも平和が訪れた。もうこの街をパトロールしなくてもいいのかもしれない。自宅から自転車で行ける街はまだまだある。ヒーローを必要としている街がある。覆面用のパンストのストックはまだたくさんあるから大丈夫だ。この街はAさんだけに任せればいいだろう。コンビは解消だ。だが、もう少し一緒に戦いましょうとAさんに言われたら、やるかもしれない。揺れ動く中年心だ。
電動アシスト自転車は快調だ。相手は反社だとはいえ、盗んだ金で買ったことには違いない。Aさんのことをハイエナとか、ハゲタカとか言っていたが、いつしか俺もその仲間入りをしてしまった。何も罪悪感を抱かない。それどころか、自転車が新調できてうれしい。
こんなヒーローはいない。腹黒い仮面ライダーなんかいない。仮面ライダーブラックはそういう意味のライダーではない。Aさんと組んだことで、仮面ライダーというよりもショッカー寄りになってしまった。おやっさんに怒られるに違いない。
俺はこんなことでいいのか? ヒーローのあるべき姿とかけ離れているじゃないか。
そんなことを考えながら走っていると、いつしかAさんが賽銭を入れていた古びた神社の前に差しかかった。
Aさんはあの大金を何に使ったのかなあ。まさか、全額をこの神社の賽銭箱に押し込んでないだろうな。だが、Aさんならやりそうな気がして怖いな。
そう思いながら、神社の入口を見てみると、木肌が見えてボロボロだった鳥居が新調されて、真っ赤に輝き、大きくそそり立っていた。
まさか、あの大金でこれを寄贈したのか!?
寄贈者の名前が書いてあったが、よく考えたら、俺はAさんの本名を知らない。
俺は自転車を止めて、ピカピカの大鳥居を仰ぎ見た。
しばらく眺めていると、神社の奥から、ここの神主らしき老人が神主衣装を着て歩いて来た。隣には、なぜかいつものスーツ姿のAさんがいる。
「ああ、これは、これは」
Aさんは鳥居の下にいる俺を見つけると、うれしそうに手を振った。
そして、隣を歩いている神主に言った。
「お父さん、自転車にまたがってるのは、営業でお世話になってる方ですよ」
お父さんと呼ばれた老人が俺に会釈をした。
俺はびっくりした。
お父さんて何だよ。Aさんはここの息子か!?
だから、賽銭箱にお金を入れていたのか!?
だから、鳥居を寄贈したのか!?
神主は感慨深そうに新しい鳥居を見上げている。
Aさんがゆっくり近づいて来た。
「Bさん、私は会社を辞めることにしました」
俺は自転車にまたがったまま訊く。
「ほう、あの金を元手に事業でも始めるのかい?」
「いいえ、父もあの通り、年なもので、私がこの神社の後を継ぐことにしました」
「ええーっ! Aさんが神の道を歩むのか!?」
俺は驚いて電動自転車ごと仰向けに倒れた。
見上げた鳥居の赤と秋空の青のコントラストがとてもキレイだった。
(了)
右京之介
ネット通販で注文したパンスト三十足組が届いた。静電気防止加工がされ、よく伸びて、通気性もよく、肌触りもいい優れものだ。いろいろ試してみたがこれが一番フィットする。何といっても安くて丈夫なのがいい。お気に入りの逸品だ。
俺は黒っぽいスーツに着替えて、ショルダーバッグを肩から斜めにかけると、封を切ったばかりのパンストを一足、ポケットに捻じ込んだ。
カレンダーを見ると今日は木曜日だ。間違いなく燃えるゴミの日だ。
俺はオンボロの自転車にまたがり、家を出た。午前一時前のことだった。
俺の名前はBだ。
昨日までキーコキーコと鳴っていたボロ自転車だったが、さっき油を差したので静かで快適だ。家々の電気は消え、人々は寝静まり、小さな街灯だけが続く道を隣の街まで走る。
やがて町工場が並ぶ地域に差しかかった。その中の一軒は先日営業で訪れたばかりの金属精錬加工をやっている工場だ。年老いたオヤジが一人でやっている。いい機械を揃えていて、オヤジの腕もいいのだが、不景気とオヤジの頑固な性格が災いしてか、最近はほとんど注文が入らず、近々閉鎖することが決まっていた。
静寂を破って暴走族の集団が通り過ぎて行った。やっかいな連中だ。この俺よりも。
俺はその工場の脇の空き地に自転車を倒した。自転車は背の高い雑草で隠れた。
俺が住んでる街には平和が訪れた。かつてはコソ泥やチンピラによるカツアゲなどが横行し、汚く荒れていた街だったのだが、俺の活躍で悪党が一掃されたからだ。
今度は隣にあるこの街を平和にするのが俺の使命だ。
そう、俺は街を守るヒーローなんだ。
そして、今夜もこの街をパトロールするために、オンボロ自転車でやって来たわけだ。
すっかり寝静まった古くからの住宅街をしばらく歩くと、電信柱の下にヒョロヒョロの男が立っていた。電信柱が二本立っているようなものだ。俺と同じく目立たないように黒っぽいスーツを着て、小さなショルダーバッグを斜めにかけている。
――俺の仲間だ。この男はヒョロヒョロなのに力がある。柔道三段だ。現役を引退したら痩せたらしいのだが、その技は健在で、悪党をビュンビュン投げ飛ばす。俺はというと小太りだ。だが、元陸上部で見かけによらず足が速い。俺の場合は引退したら太り出した。これが普通だ。
男が軽く手を振って来た。この男との出会いは三か月前にさかのぼる。
子供の頃からヒーローに憧れていた俺は、夜な夜な街に出ては悪党を退治してきた。憧れのヒーローはやっぱり仮面ライダーだ。ウルトラマンはデカすぎるし、アントマンは小さすぎる。アイアンマンになれるほど金持ちではないし、セーラームーンは女子だ。俺には仮面ライダーが似合う。もちろん、平成ライダーではなく昭和ライダーだ。昼間はしがないサラリーマン。夜になるとカッコいいヒーロー。いいではないか。
最初はヒーローのような派手な格好にしようと思っていたのだが、逆に怪しまれそうなので、目立たないスーツ姿にした。といっても生地は軽くて、伸びやすく、破れにくい、撥水効果もあるという特注品だ。悪党退治といっても、この特注スーツを着てパトロールをし、夜中に悪事を働いている奴を見つけると、一発ぶん殴るか蹴飛ばすかして、さっさと逃げるだけだ。小太りだが、足には自信がある。箱根駅伝経験者クラスじゃないと俺には追いつけない。殴られた奴は痴漢なり、盗みなりをしていたのだから、警察に被害届を出すことはない。だから、俺は今まで捕まったことはない。また、こちらから奴らを警察に突き出すこともない。これに懲りて、二度と悪事を働かなければいい。俺は寛大だ。そいつの良心を信じて見逃してやってるのだから。
ただ、俺のヒーロー行為に何も見返りはない。仮面ライダーのように怪人をやっつけたからといって、子供たちやおやっさんに感謝されることもない。自己満足だ。だが、それでいい。誰も見ていないところで悪と戦っている。ヒーローには孤独が付き物なんだ。
そうやって何人もの悪党をとっちめているとき、不思議なことが起きだした。俺がやっつける前に悪党が倒れているんだ。その場からは決まってヒョロ長い男が去って行くのが見えた。向こうもこちらの存在に気づいたようで、ある夜、俺に声をかけてきた。
「いや、どうもどうも。毎晩、お疲れ様でございます」
彼はAと名乗った。永さんなのか、英さんなのか、、栄さんなのか分からないが、Aと名乗られたからには、俺はBと名乗ることにした。いつしか、AとBのコンビで、この街の浄化に奔走することになるのだが、この日はお互いのAとBという名前の紹介だけで終わった。
ある日、風体のよくない男が帰宅途中の女性にちょっかいを出している場面に遭遇した。さっそく俺は二人の間に立ちはだかって、女性をすぐに逃してやった。
獲物に逃げられた男は当然逆上してきた。
「何だ、てめえは!?」
「Bだ」と俺は言った。
「はあ? 何だって?」
聞き取りにくいのは当然だ。人相が分からないように頭からネット通販で買った格安パンストをかぶっているのだから、声がくぐもってしまう。
「アルファベットの……Bだ」もう一度、ゆっくりと言ってやった。
「なんだ、そりゃ?」
男が寄ってきて、俺の胸倉をつかもうとしたとき、「あっ!」と言って後ろを指差してやった。男は警官でも来たのかと思ったのだろう。あわてて振り向いたのだが、逆に胸倉をつかまえて投げ飛ばされてしまった。後ろに立っていたのは柔道三段のAさんだった。
「Bが存在するということは、Aも存在するということだ。アルファベットの配列くらい覚えておけ、この痴漢未遂野郎!」
俺は吠えてやった。近所に聞こえないように小さな声で。
投げ飛ばしたAさんは平然としている。
「いやいや、Bさん、今夜も会いましたねえ」Aさんはうれしそうに言い、とんでもない提案をしてきた。「私と組みませんか?」
Aさんは食品関係の営業マンをしているらしい。それは物腰で分かった。俺も機械関係の営業マンをしていて、営業マン同志同じニオイがするからだ。
Aさんは子供の頃からヒーローになりたくて、やっと今になって願いが叶ったと自己紹介してくる。実は俺もそうで、自分の街をキレイにしたから、今度はこの街をキレイにするために遠征して来ているのだと説明した。
「いやいや、そうでしたか。私の街のためにありがとうございます」
Aさんは俺に向かって深々と頭を下げる。頭を下げたAさんの目線の先には、さっき投げ飛ばした男が伸びていた。打ち所が悪かったのだろう、男は起き上がってこない。
こうして俺はAさんと一緒に組んで、この街の悪を退治することにした。Aさんは腰が低く、言葉遣いも丁寧で、穏やかで、笑うと目が垂れてしまう。黒縁眼鏡をかけて、髪型は今どき珍しく七三分けで、どこから見ても善人のようであったが、とんでもなく手癖が悪かった。投げ飛ばした奴らから現金を盗んでしまうのだ。それも、ちゃっかりとお札だけを抜き取り、財布はそのまま返却していた。そして、その窃盗という犯罪行為に対して、何ら罪悪感はなさそうだった。
Aさんは、今、足元に伸びている男のズボンのポケットから長財布を取り出し、お札だけを抜き取った。クレジットカードやキャッシュカードには触らない。使ったときに店や銀行などの防犯カメラに撮られるからだろう。Aさんは俺の方を向くと、抜き取った一万円札五枚を扇形に広げて、ニヤッと笑った。
「最近はキャッシュレスが増えて、現金の持ち合わせが少ないんですよねえ。今日は多い方ですよ。さあ、Bさん、これを山分けしましょう」
「いや、俺はいい。Aさん取っといてよ」
「そうですか。すいませんね。今度、何かをおごりますからね」
Aさんはスーツの内ポケットに五万円を躊躇なく入れた。
午前二時になっていた。
俺たちの浄化作業には時間制限を設けていた。午前一時から午前二時までだ。だらだらやっていると、すぐに夜が明けてしまうからだ。朝からはお互い仕事がある。仕事に支障が出ないように、きっちり午前二時に終わるようにしていた。このあたりのケジメはサラリーマンの悲しき性であった。本業はあくまでもサラリーマンである。街の悪党をやっつけても一円にもならない。仕事が疎かになってリストラでもされたら収入はなくなる。本末転倒である。
いつもはこのあたりで解散するところだった。
しかし、俺はその夜、Aさんの跡をつけることにした。何も悪気はない。Aと名乗っているが、本名は知らないし、仕事は営業マンというだけで、会社名も知らない。年齢は同じくらいだろう。夜中にウロウロできるのだから、俺と同じく独身で一人暮らしなのだろう。しかし、温厚そうな見かけと、やってることがあまりにも違い過ぎるので、どんな生活を送っているのか、単純に興味がわいたからだ。
Aさんは「では、今夜のところはこれで失礼いたします」と丁寧にお辞儀をすると、街の郊外に向けて歩き出した。俺はかぶっていたパンストを脱いで、ゴミ置き場にある他人が置いたゴミ袋の口を開けて捻じ込んだ。今日は燃えるゴミの日だから、パンストを捨てても大丈夫なんだ。燃えるゴミの日じゃなければ、そのまま持ち帰る。ヒーローがゴミのポイ捨てをしてはいけない。当たり前ではないか。
暑苦しかった夏が終わり、今は涼しい秋だ。パンストをかぶるには絶好の季節になった。このパンストマスクはAさんにも好評で、俺の使っているパンストメーカーを教えてあげたところ、さっそくネットで手に入れて、マネを始めた。それまでは顔をさらして悪党と戦っていたのだから恐れ入る。
素顔に戻った俺は自転車をそのままにして、歩きながら尾行を開始した。Aさんは振り返ることなく、まっすぐ歩いて行く。俺は電信柱から電信柱へと移動しながら、キチッとスーツを着こなしたAさんの跡をつけていく。
やがてAさんはこの街に一つだけある神社に入って行った。
俺も入ったことがあって知っているのだが、かなり古くて由緒ある神社だ。境内の清掃はちゃんとされていて、樹木の手入れもなされているが、神社の古さは隠せない。大きな鳥居が立っているのだが、ところどころに赤い塗装が剥げて木肌が見えていた。
Aさんは短い石段を上がると、石畳を進み、拝殿の前に立った。俺は灯篭の後ろにさっと身を隠す。小太りだが素早いんだ。
夜中にもかかわらず、あちこちに電灯が設置されていて、ヒョロ長いAさんの姿は良く見える。設備の行き届いた良い神社だ。
Aさんはスーツの内ポケットから先ほど奪ったお金を取り出すと、賽銭箱に投げ入れた。その後、手を合わせて長い間、何かのお祈りを始めたので、俺は神社を後にした。
何だ、あの人は?
盗んだお金を賽銭箱に入れている。
いったい、悪人なのか? 善人なのか?
こんなこともあった。
「Aさん、ちょっと前のことなんだけどな」
俺がまだAさんとコンビを組む前の話だ。
「この街の無向湖にボートが漂っていた事件があったのは知ってるかい?」
俺が守っているこの街に起きた奇妙な事件のことを聞いてみた。もしかしたら、何らかの犯罪が関わっているのでないかと睨んでいたからだ。
「はい、知ってますよ。早朝、一人の男が湖の真ん中で漂流しているボートの中から手を振って助けを求めていた事件ですよね。あの男は窃盗の常習犯だったのですよ」
「そうなのか!?」驚いてAさんの顔を見る。いつものように平然としている。「よく知ってるな。だが、湖の真ん中で二時間も手を振っていたのに誰も助けに行ったり、通報したりした人がいなかったというのはおかしいよな」
「それは、その男が全裸だったからですよ」
「そうなのか!?」
「はい。全裸で手を振ってる変質者だと思われて、道行く人たちは見て見ぬフリをしていたのでしょう」
「Aさん、よく知ってるな」
「はい。民家に侵入しようとしていたところを、私が捕まえたのです」
「そうなのか!?」
「はい。暴れたものですから、シメてやって、身ぐるみ剥がして、湖のほとりに係留してあったボートに寝かせて、オールを外して、力一杯、沖に向けて押しやったのですよ。まさか、湖の真ん中にまで到達するとは思ってませんでした。あの日は風が強かったから、流されたのでしょうねえ。しかし、真ん中あたりに着いたとたん、風が止んだのでしょう。運の悪い男ですよ」日記を読むようにスラスラと説明する。罪悪感はないようだ。
「Aさん、よくやるな。そいつからもいただいたのかい?」
俺は指で丸を作って見せる。
「はい、もちろんです」うれしそうだ。「コソ泥なのに十万円も持ってました。その前に、どこかで盗んで来たのでしょうねえ。十万円だけで止めておけばよかったのに」
Aさんはまるでハイエナのような人だった。笑うハイエナだった。
「しかし、剥がした服一式は湖のほとりにちゃんと畳んで置いておきましたよ」
それでも良い人とは思えないのだが。
俺たちABコンビはその後も街の悪党をつぎつぎに成敗し、Aさんは抜き取ったお金をつぎつぎにあの古びた神社へ喜捨していた。何度か尾行したのだが、その習慣は変わらなかった。
俺は相変わらずオンボロ自転車に乗ってこの街にやって来ては、金属精錬加工工場の脇の空き地に寝かせたまま、ヒーローゴッコを続けていた。
Aさんは俺の自転車通勤を知って、いつしか一緒に帰るようになった。途中までは帰り道が同じだったからだ。その頃、すでに尾行はやめていた。Aさんの行動は判で押したように同じで、何も変化がなかったからだ。ちゃんと定時にタイムカードを押す地方公務員のようなAさんだった。
ある夜、前から二人の警官が歩いて来た。俺は自転車を押していて、Aさんは並んで歩いていた。俺は手ぶらだったが、Aさんはさっき盗みを働こうとしていた男を投げ飛ばして、ポケットから五千円を抜き取っていた。この時間に警官と会うのは初めてだったため、ヤバいかもしれないと思ったのだが、Aさんはいつもの営業マン丸出しの口調で警官に挨拶をした。
「こりゃどうも、おまわりさん。遅くまでお疲れ様でございます」
満面の笑顔を向けた上に丁寧な口調だ。おまけに身なりはちゃんとしたスーツ姿だ。疑われる理由は何もない。話しかけられた二人の警官は、飲み会帰りのしがないサラリーマンと思ったらしく、軽く会釈をしたまま行ってしまった。
俺たちの最大の武器はこれだ。どう見ても悪党ではなく、ヒョロヒョロと小太りの哀愁が漂うサラリーマンにしか見えないということだ。シルエットを見ると、まるでスターウォーズのロボットコンビだ。
実際、毎日せっせと会社に通っているサラリーマンであり、職務質問を受けて、持ち物検査をされたとしても、出てくるのは本物の社員証であり、いつも営業で使っている本物の名刺である。こんなときのために、スーツを着て、身分証も携帯しているのである。覆面用のパンストを見られたらマズイが、キャバ嬢にプレゼントするとか何とか言ってごまかせばいい。
おそらく、Aさんも同じだろう。悪党から抜き取った金といっても、名前が書いてあるわけではないし、財布までは盗んでないのだから、バレることはない。盗みに入ろうとして、逆にお金を盗まれた悪党も警察には届けてないだろう。俺に蹴飛ばされた尻と、Aさんに投げ飛ばされた腰を押さえながら、ヨロヨロと歩いているはずだ。
パトロール中の警官と出くわしても、盗みを見つかって、やっつけられたとは恥ずかしくて言えないだろう。
「では、わたしはここに用事がありますから失礼します」
Aさんは神社の中に入って行った。あの五千円を賽銭箱に入れに行ったのだろう。俺は自転車にまたがると、俺の街にむけて漕ぎ出した。今日も悪党を一匹退治できて良かった。しょぼい小悪党であったが、空から俺たちを見下ろしているお月さんも喜んでくれていることだろう。
遠くで暴走族が走り回る爆音が聞こえてきた。あいつらを何とかしたいのだが、名案は浮かばない。この自転車では立ち漕ぎしても追い付かないだろうから。
俺たちヒーローのパトロールは毎夜続いた。
近くで消防車のサイレンの音が聞こえる。今日はサイレンがよく鳴っている。
「最近、この街でボヤ騒ぎが続いてますね」Aさんが言う。
誰かが火をつけて回っているのではないかとウワサされていた。だが、俺たちのアンテナには引っかかってこない。平和な街にするためには、何としても捕まえたい。放火魔なんだから、一発ぶん殴って放置というわけにはいかない。重犯は警察に突き出す必要がある。
今日は手分けして街を巡回しますかと話し合っていたところ、突然路地から若い女が飛び出して来た。ぶつかりそうになった俺たちはあわてて避けたのだが、Aさんは、その女性を捕まえてくださいと叫んだ。
なんだ? と思ったのだが、俺は追いかけた。若い女でも俺の方が断然速い。女だから箱根駅伝経験者ではないはずだ。たちまち追いつくと、女の前に周り込み、距離を空けたまま、両手を広げて通せんぼをした。腕や肩を触ったりすると痴漢扱いされるかもしれないからだ。
「警察の方ですか?」立ち止まった女はおびえた声で訊いてきた。
「……まあ、そんなもんだ」適当に返事をする。私服警官に見えたのだろう。
後ろからAさんが走って来た。
「この人は俺の同僚だ」また適当なことを言う。
「すいません」挟み撃ちにされた女は、その場にヘナヘナと座り込んだ。
続いて二人の本物の制服警官が走って来た。
「どうもご苦労さんです!」
警官は俺たちにお礼を言って、女を連行して行った。
「Aさん、なんであの女が放火犯だと分かったんだい?」
「体から焦げ臭いニオイがしましたから」
Aさんは平然と言った。
「あの女、俺たちを警官と間違えたな」
「暗がりでしたから、そう見えたのですかねえ」
俺たちは歩きながら、お互いを見渡した。
警官には見えなかった。かといって、悪党にも見えなかった。
どう見ても、くたびれたサラリーマンであった。
「しかし、一円にもなりませんでしたねえ」
Aさんは放火犯からも金を奪うつもりだったらしい。
とんでもない人だった。
俺は以前から気になっていた暴走族のことでAさんに相談をした。何とか二人で協力して、やっつけられないものか。
「Bさん、暴走族を相手にするのは分が悪いですよ」
「やっぱりそうかい」
「人数が多いですし、バイクが相手では、いくらBさんの足が速いといっても追いつけません。せめて、Bさんの自転車が電動アシスト自転車に代わればいいのですが」
「やっぱり警察に任せるしかないな」
「実はすでに手を打ちました」
Aさんはスーツの内ポケットに手を入れた。
まさか、拳銃か? 撃ち殺すというのか?
Aさんならやりかねないが、俺はそこまで関知したくないぞ。
「これを見てください」
Aさんが出してきたのは、一枚のレシートだった。
見てみると、ドラッグストアのレシートだ。
栄養ドリンクを五十本購入?
「はい。これを警察署に匿名で差し入れしておきました。これを飲んで、力を付けて、暴走族を捕まえてくださいという手紙を添えておきました」
Aさんは善人なのか悪人なのか、ますます分からなくなった。
だが、数日後、この街から暴走族が出す騒音が消えたことは確かだった。
栄養ドリンクが効いたのか、差し入れをもらって警察が奮起したのかは分からない。
翌日は平和な一時間だった。Aさんと手分けして街の見回りをしたのだが、怪しい人物には遭遇しなかった。そろそろこの街にも平和が訪れようとしているのかもしれない。待ち合わせ場所に決めていた雑貨屋の前でAさんと合流し、神社方面に歩き出した。お互いの営業についての当たり障りのない話をする。どう見ても仕事帰りのサラリーマンだ。
一軒の古い平屋建ての家にさしかかったとき、庭の隅で何かが動く姿が見えた。Aさんも気づいたようで、両端から挟み撃ちにすることにした。お互い、すばやくパンストをかぶる。
一人の男が庭に干してある洗濯物を盗もうと手を伸ばしていた。
いきなり現れた俺とAさんに、男はびっくりしていた。
スーツを着て、ショルダーバッグを下げ、パンストで覆面をしているのだから、昼間に出会っても不気味だ。見方によっては、一人の変質者が二人の変質者に出くわしたようなものだ。――真夜中、見知らぬ家の庭に変質者が三人。
驚いた男は物干し竿に干してあるブラジャーに手をかけたまま硬直した。Aさんはすばやく歩み寄ると、足をかけて男を倒した。俺は倒れた男のケツに一発、サッカーボールキックをお見舞いしてやった。いつもなら、このまま引き上げるのだが、Aさんが面白いことを言いだした。
「こいつを縛って、転がしておきましょう」
なるほど。この庭先には女性の下着が、まるで見本市のようにたくさん干してある。
Aさんが男を柔道技で押さえ込んでいる間、俺は男の両手両足をブラジャーで縛り、そんな下着が好きなら、これでも喰らえとばかりに、猿ぐつわもブラジャーでしてやり、おまけに頭からパンティをかぶせてやった。リアル変態仮面の出来上がりだ。このままイモムシのように這って逃げないように、両足と物干しのコンクリート台とを、これまたブラジャーで結び付けてやった。これで変質者は下着三昧となった。
翌朝、庭に出た家人はパンティをかぶった、ブラジャーづくしの変質者に驚いて通報するはずだった。
これで俺たちヒーロー二人組は下着泥棒を一人、成敗してやることに成功した。小悪党だがうれしい。もちろん、Aさんはこの男のポケットから容赦なく、二万円を抜き取っていた。まるで、死骸に喰いつくピラニアのようであったが、本人は相変わらず、何も気にしていない様子だった。
俺はかぶっていたパンストを脱いでショルダーバッグに入れた。今日は燃えるゴミの日ではないため、このまま家に持ち帰るのだ。
ゴミの分別はしっかり行う。ヒーローとしては当然の行いだった。
せっかく平和が訪れようとしていると思っていたこの街だったが、昨日の下着泥棒に続いて、今夜は宝石泥棒に出くわした。いつもの小悪党と違って、中悪党だ。この街に一軒だけある宝石店のシャッターへ軽自動車がバックで突っ込もうとしているところに、パトロール中の俺とAさんが偶然に遭遇したのだ。おそらく車は盗難車であろう。犯人は二人組のようだった。
「Bさん、警察に連絡してもらえますか」Aさんが小声で言ってきた。
さすがに俺たちだけではやっつけられないと判断したのだろう。
俺はスーツからスマホを取り出そうとしたが、
「あそこにありますよ」Aさんが公衆電話を指差す。「私はこれで何とかしますから」石ころを二個、拾い上げた。
まさか、石を投げつけて犯行を止めるのか?
俺は犯人に見つからないように腰をかがめて電話ボックスへ急いだ。
あの中なら多少大きな声を出しても聞こえない。
ボックスの中から警察に電話をかけながらAさんを見ると、電信柱の陰から軽自動車に向かって、本当に石を投げていた。車はシャッターに狙いを定めて、バックで動き出したところだ。
Aさんは長身で力があるのだからピッチングには持って来いだ。運転席側のサイドガラスに当たり、ヒビが入るのが見えた。運転手はあわてて車を止める。目出し帽をかぶっているので表情までは分からないが、急に大きな音がして、ヒビが入ったので、驚いているに違いない。
Aさんはすかさず、もう一個の石を宝石店の二階に向かって投げた。
えっ、何をするんだ?
二階は住居になっているようで、カーテンが見える。店の家族が住んでいるのだろう。派手な音を立ててガラス窓が割れた。
夜中の一時過ぎ。静かな街にガラスが割れる音が響き渡った。軽自動車の犯人にもその音が聞こえたのだろう。ハンドルを切ると、あわてて逃げ出した。シャッターは無事だった。
俺は急いで警察に軽自動車の車種とナンバーを告げて、そのまま電話を切った。
街灯しかない夜とはいえ、俺はアフリカ人並みに視力がいい。
白い排気ガスが漂う中をAさんは走ってくると、電話ボックスの扉から顔だけ出している俺に向かって、「Bさん、私たちも逃げましょう!」と声をかけて通り過ぎて行く。
俺は急いでAさんの後を追って走り出した。家の窓ガラスを割ったのだから、器物破損の現行犯になってしまう。犯行を阻止するためといえ、とんでもない作戦ではないか。
毒をもって毒を制するとはこのことか? いや、違うか? まあいい。
俺はAさんを全力で追い掛ける。
「おいおい、俺より速いって、どういうことだ?」
二人のしがない中年サラリーマンは必死になって、その場から逃げ出した。
まだまだ平和が訪れようとしないこの街だったが、放火犯、下着泥棒、宝石泥棒に続いて、またもや事件が起きた。三度あることは四度あるのだが、今度は小悪党でも中悪党でもなく、正真正銘、本物の大悪党であった。
その夜、待ち合わせ場所の電信柱の下にいたAさんに声をかけたとたん、近くで銃声らしき音が二発聞こえた。“らしき音”というのは実際の銃声を聞いたことがないからだ。テレビや映画で“バキューン”という銃声を聞くが、あれはカッコよくデフォルメされた音だろう。今の音は乾いた音だ。乾いた音がしたという表現は報道でよく使われている。では、逆に濡れた音というのはどんな音かと聞かれても困るのだが。
俺はAさんと目を合わせた。お互いパンストをかぶる前だから表情がよく見える。Aさんも驚いているが、「Bさん、見に行きましょう」と冷静に言われた。
小さな交差点を曲がったところに、二人の男が向かい合った状態で、うつ伏せになって倒れていた。俺は手前の男の元にしゃがみ込んで様子を見る。「おい!」と声をかけてみるが、ピクリとも動かない。やがて、胸の下から血が流れ出てきた。
ああ、これじゃダメだ。これだけの出血量じゃ助からないだろう。
Aさんは五メートルくらい先に倒れている男のそばに立っていた。向こうの男も動かないようだ。Aさんはこちらに歩いて来た。
「向こうは頭を撃たれてました。こちらは胸を撃たれてますね。相撃ちですね」
「相撃ちって、西部劇じゃあるまいし、そんなことがあるのか?」
「どうなんでしょうかねえ」Aさんはそう言いながら、男のポケットをまさぐる。
まさか、こんなときでも財布を探しているのか?
「ああ、ありました」
Aさんは男のスマホを見つけ出すと、一一九番通報して、ケガ人が二名発生したことを伝えた。自分のスマホを使いたくなかったようだ。
「Bさん、行きましょう」
Aさんはさっさと歩き出したのだが、右手に紙袋を下げている。
俺は後ろから早足で追い掛けながら訊く。
「Aさん、それは何ですか?」
「さっきの男の脇に転がってたので、いただいてきました。しかし、なんだか重いんですよ、これ。よく紙袋が破れないなあ」変なところに感心している。
死体からも何かを盗んでくるとは、Aさんはまるでハゲタカのような人であった。
これで、Aさんを例える生き物が、ハイエナ、ピラニア、ハゲタカと三匹揃った。陸海空を制覇したということだ。もっとも、ピラニアは海じゃなくて、川に住んでるのだけどな。
やがて、俺の自転車を隠している工場の脇の空き地に着いた。ここに座り込んだら、背の高い雑草に隠れて周りからは見られない。Aさんはスマホのライトを点けて、戦利品である、かっぱらった紙袋の中身を確認しはじめた。二つの物体が新聞紙に包まれて入っていた。
「Aさん、その形は…?」
「どう見ても鉄アレイですよねえ。道理で重たいと思いましたよ」
新聞紙を剥がすと、はたして、紺色をした五キロの鉄アレイだった。二つで十キロ。これを持って早足で歩いていたのだから重いはずだ。
「なんで、鉄アレイなんだ?」
「さあ、何ででしょうかねえ。しかし、あの二人は風体からしてヤクザもんですよね。この鉄アレイを巡って殺し合ったようですから、何らかの価値があるのではないでしょうか。これは私が預かっていてもいいですか?」
「ああ、もちろん」そんな不気味な物を持って帰りたくないし、筋トレの趣味はない。
「朝のニュース報道で明らかになればいいんですけどねえ」Aさんがしみじみと言う。
さすがに、神社へ鉄アレイを奉納するのではなく、自分で自宅に保管するのだろう。
遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
深夜の殺し合いは新聞の朝刊に間に合わなかったようが、テレビやネットで報道されていた。俺は会社でその日の営業に使う資料をプリントアウトしながら、机の下で自分のスマホを使ってニュースをチェックしていた。
殺し合ったのは、やはりヤクザもんで、それぞれ欧坂組と東凶組の組員だった。抗争事件のようだ。先日より密輸した金塊の取り分を巡って対立をしていたらしい。
「金塊かよ!」俺は思わず大声を上げた。
周りの社員の冷たい視線が飛んで来る。
「いや、何でもない」
ネットニュースには続けてこう報道されていた。
密輸されていたのはインゴットという金の延べ棒で、見つからないように、いったん溶かして違う形のものに成型するらしい。
「溶かして違う形の物に…? あの鉄アレイだ…」
俺はすぐに金相場を調べてみた。最近は金が高騰していて、一キロ七百万円は越えているらしい。つまり、あの五キロの鉄アレイが二つで十キロ。つまり、七千万円を越える価値があるわけだ。
「七千万かよ!」
また、周りの社員の冷たい視線が突き刺さる。
「いや、独り言だ」
Aさんの顔が浮かんだが、お互いの連絡先は知らない。
今晩、また会うことになってるのだが、Aさんはこのことを知っているのだろうか?
その夜。俺はAさんがニュースを見てから、鉄アレイを持ってどこかへ逃げてしまったのではと思ったのだが、電信柱の下にヒョロヒョロの姿を見つけたとき、疑って申し訳ないと心の中で謝った。Aさんはちゃんと来ていたのだが、なぜか、手には例の紙袋を下げていた。
「Aさん、ニュースを見たかい?」
「はい。金塊と知って驚きました。鉄アレイを少し削ってみたのですが、塗装の下からは金が出てきました」
「やっぱり本物だったのか。今の相場じゃ、十キロで七千万円以上になるらしいぞ」
「はい。そのようですね。しかし、私はすぐに売却するのではなく、もう少し有意義に使ってみたいのです。そのことでBさんの許可を得ようかと思いまして」
「Aさんが持って来たのだから、自由にすればいいよ」と言ってみたのだが、俺も大金は欲しい。だが、鉄アレイはAさんが死人から奪い取って来たものだ。できれば、そんな気味の悪いことには関わりたくない。タタリがあったらどうする。揺れ動く中年心だ。
「有意義な使い方というのは何だい?」
「はい。そのことで、Bさんにお願いしたいことがあります。紙袋を二つ、持ってきました。それぞれに鉄アレイが一つずつ、入ってます。これを手分けして、欧坂組と東凶組の事務所の前に置いて来たいのです」
「えっ、返すというのか?」
「いえ。これはすり替えた本物の鉄アレイです」
俺は欧坂組の事務所のそばにいた。Aさんによると抗争事件が起きて以来、警官が二つの組の本部前に張り付いているらしい。だが、いくつかある事務所前には警官の姿はなく、作戦は決行できるという。
作戦というのは事務所前に鉄アレイが入った紙袋を置いて、ピンポンダッシュで逃げるというものだ。まるで小学生がやるようなイタズラをして何が面白いのか?
だが、引き受けた以上はやることにする。もう一方の東凶組の事務所前にはAさんが向かっているのだ。俺が断ったら、Aさんは両方の事務所に行きそうだったので、引き受けることにした。今までいろいろと世話になってるからだ。
こういう事務所前には必ず、防犯カメラが設置してある。抗争の最中だから夜中でも見張っているだろう。俺はパンストをかぶり、手袋をすると、横目でカメラを睨みながら、紙袋を置くと、呼び鈴をピンポンピンポンピンポン…と連打してから、全力で走り出した。
走りながら頭からパンストをはずす。かぶったままだと、善良な市民にパンストをかぶって全力疾走する変質者と間違われる。新たな都市伝説になってしまう。
「誰やねん、こんな夜中に!」
欧坂組の事務所内で一人の若手組員が叫んだ。呼び鈴を何度も押されたからだ。もう一人の当直当番で仮眠中だったアニキ分の男を叩き起こすと、寝覚めが悪かったらしく、うるせえと一発殴られた。頬を押さえながら玄関を見に行ったが、怪しい人影は見当たらない。だが、怪しい紙袋が置いてあった。中には新聞紙に包まれた重い物が入っている。どうやら爆弾ではなさそうなので事務所に持って帰った。包みをほどくと鉄アレイが出てきた。
「アニキ、これは…?」
「おお、これは昨日、東凶組に盗まれた鉄アレイやんけ!」
昨夜、取引に使われた金の鉄アレイであったが、その場からなくなっていたため、お互いが敵対する組に盗まれたと思い込んでいたのだ。
「アニキ、紙が入ってます!」
鉄アレイには紙切れが添えてあった。
広げてみると、一言“バカ”と書いてあった。
この一言で当直組員の頭へ血管が暴発するくらいに血が上った。
関西人はアホと言われても平気だが、バカと言われると無性に腹が立つのだ。
「おい、朝一でたこ焼きを買うて来い!」
「何をするんでっか?」
「東凶組を叩きつぶすために、タコ焼きを食べて景気付けをするんじゃ!」
「朝っぱらから店なんか開いてまへんで」
「アホンダラ! 脅してでも開けさせろ! ほんで、コロコロっと焼いてもらえ!」
同じ頃、Aが鉄アレイを置いてピンポンダッシュで逃げた東凶組の事務所内も荒れていた。見習いの組員が玄関から持って来た紙袋の中をアニキ分が見る。
「これは昨日、欧坂組に盗まれた鉄アレイじゃねえのかよ! おい、もう一つあっただろう」
「えっ? 最初から一つだけでしたよ。自分は触ってませんよ」
「金の鉄アレイは二つあったはずなんだ。欧坂組め、どういうつもりだ。とりあえず、本部に連絡してくれ!」
見習いの組員は電話をしながら何度か頷くと、深々と頭を下げながら切った。
「アニキ! すぐにその鉄アレイを本部まで持ってくるように言われました。それと、今夜中に兵隊を集めろと言われました」
「何! カチコミかよ!」
東凶組は欧坂組に殴り込みをかけることに決めたらしい。
「よーし。やってやろうじゃないか!」
アニキは気合を入れると、興奮して床に転がっていた紙袋を蹴飛ばした。
鈍い音がして、転がっていた紙袋の横にアニキも転がった。鉄アレイを裸足で蹴飛ばしたからだ。そのとき、紙袋の中から紙切れが出てきた。見習いの組員が広げてみると、一言“アホ”と書いてあった。
「アニキ、アホと書いてあります!」
「何! 欧坂組の野郎、覚えてやがれ!」アニキは転がったまま、つま先を押さえて吠えた。
関東人はバカと言われても平気だが、アホと言われると無性に腹が立つのだ。
「おい、ひよこ饅頭を買って来い!」
「何をするのですか?」
「東京名物ひよこ饅頭を食べて景気付けするんだよ!」
「朝から店は開いてませんよ」
「バカ野郎! 饅頭を作ってる工場へ行って、ベルトコンベアを動かしてもらえ!」
AとBはまんまと作戦に成功すると、この夜はこのまま帰宅することにした。
二人はBの自転車を隠している空き地まで並んで歩く。
「いったい何を企んでるんだい?」
俺は隣を歩いているAさんを見上げながら訊いた。
Aさんは俺を見下ろしながら答えた。
「今頃、双方の組はあの鉄アレイを見つけて、大騒ぎをしているはずです。そして、すぐにあの鉄アレイは金ではなく鉄だと気づくはずです。まさか、私たちが仕掛けたなんて思わないでしょう。お互いの組がお互いを騙して、からかったと思うはずです。つまり、もともと仲が悪かった二つの組を対立させて、相撃ちにさせようと思います」
「また、相撃ちか? そんな西部劇みたいにうまくいくかい?」
「わざと怒らすような紙切れも入れておきましたから、騙されてくれませんかねえ。うまくいけば、二つの組が消滅して、この街にも平和が訪れるのですけどねえ」
どこまで本気か分からないAさんであった。
しかし、事態はAさんの思惑通りに進んだ。
東凶組のカチコミを皮切りに、欧坂組と東凶組の抗争が激化していったのだ。
・欧坂組の死者二名。東凶組の死者三名。
俺とAさんのヒーローゴッコは一時中止にすることになった。抗争のおかげで、昼夜問わず、街のあちこちに警官の姿が見られるようになったからだ。
・欧坂組の死者五名。東凶組の死者七名。
俺はそれでもいいと思っている。Aさんの作戦がうまくいったということだからだ。あれから、Aさんとは連絡は取っていないが、Aさんも喜んでいることだろう。
・欧坂組の死者八名。東凶組の死者十一名。
これで二つの反社勢力がなくなるとこの街も静かになる。そのときは、また違う街に行って、悪党を退治するだけのことだ。
・欧坂組の死者十二名。東凶組の死者十四名。
俺が違う街に行ったら、はたしてAさんも来るのだろうか。また二人で暴れたいものだが、
Aさんは何を考えているのか分からない人なので、俺には何とも言えない。
・欧坂組の死者二十名。東凶組の死者二十名。
二つの組の死者数が同じく二十名になったところで、抗争はピタリと止んだ。しばらく様子を見ていたのだが、それ以来、抗争は起きず、新聞発表の死者数も変わらない。大きな勢力とはいえ、これだけの死者が出れば、メンツがあるとはいえ、お互い疲弊するだろう。軍資金もかかるし、何人かの幹部クラスの組員も亡くなっている。組の運営にも影響が出始めていたのかもしれない。
俺は久しぶりにオンボロ自転車をこいで、この街にやって来た。うれしいことに電信柱の下にはAさんがいた。
「Aさん、久しぶり」
「いやあ、Bさん、お元気でしたか?」
俺はふと本物の鉄アレイはどうなっているのかが気になったのだが、Aさんはそれを察したのか、自分から話してくる。さすがAさんといったところだ。
「あの七千万円以上の鉄アレイですが、ちゃんと保管してありますので、ご安心ください」
「いや、心配はしてないよ」と言っておく。実は気になっていたのだが。「もともとAさんがかっぱらった物だからな」
「あれをどうするかは、考えているところです。それにしても、抗争が止んだのは残念ですね」
「そうだな。なぜ、止んだかはニュースでもやってないな」
「そこで、なんですけど」
「なんだ、また何かをやらかそうとしているのかい?」
「はい、その通りです。もう一度、ピンポンダッシュ作戦をやりませんか?」
Aさんは手に二つの紙袋を下げていた。また本物の鉄アレイを用意してきたらしい。
「せっかく燃え上がった炎が小さくなりました。だから、息を吹きかけて、火種をまた大きくするのです。二つの組織を完全に壊滅するのです」
Aさんが用意した金ではなく鉄のアレイを一つずつ持った俺たちは、ふたたび欧坂組と東凶組の事務所に向かい、呼び鈴をピンポンピンポンピンポン…と連打して帰って来た。抗争が止んでからは、街中のあちこちにいた警官の姿はなく、すんなりと鉄アレイ入りの紙袋を置いてくる作戦に成功した。
さらに、今回、Aさんは空薬きょうを用意していた。
「Bさん、これをバラ撒いてきてください」
俺は五個の空薬きょうを渡された。
「事務所前に空薬きょうが落ちていたら、銃弾を発射されたと思うじゃないですか」
「そんな子供騙しが通用するか?」
「やってみないと分かりませんよ。前回も連中はまんまと騙されて抗争が始まったじゃないですか」
「まあ、そうだけどな」
Aさんは双方の組から四十人もの死者が出たことを何とも思ってないようだ。それどころか、また仕掛けようとしている。
「この空薬きょうはどこで手に入れたんだ?」
「ネット通販で買いました。ちょうど十個セットがありました」
「こんな物を売ってるのか…」
そして、今回もAさんは紙袋に紙切れを入れていた。
それぞれ、“おじけづいたかバカども”と“おじけづいたかアホども”と書いてあった。
これでまた関西の組と関東の組とが対立するはずであった。
事態はAさんの思惑通りに進んだ。いや、それ以上の激しさで進んだ。
双方の組が全総力を挙げて抗争を再開したのだ。
前回の抗争の停止には理由があった。
長引く抗争に第三の勢力である盗壊組の組長が間に入り、手打ちをしたのである。
AとBのヒーローコンビはこのことを知らなかった。手打ちは秘密裏に行われたため、どこにも報道されていなかったからである。そうとも知らずにピンポンダッシュ作戦を決行してしまったのだから、双方の組は大騒ぎになった。
――手打ちが済んだのにどういうことだ!
お互いの組が疑心暗鬼に陥り、罵り合い、ふたたび抗争が勃発した。また相手が仕掛けてきたということは、手打ちの儀式を反故にしたことになり、間に入って治めてくれた盗壊組の組長の顔に泥を塗ったことになる。
まさか、見知らぬサラリーマンであるAとBが仕掛けたとは思っていない。
欧坂組と東凶組はお互いに相手を完膚無きまで叩き潰し、あわよくば組を統一してやろうとまで心に決めて、立ち向かって行った。
その結果、今回の抗争では、空薬きょうだけではなく、銃弾が飛び交い、日本刀が交じり合い、爆弾を搭載したドローンが襲撃し、互いの本部には手榴弾まで投げ込まれた結果、幹部の犠牲が相次ぎ、近隣住民が避難するまでになってしまった。
反社の抗争がカタギに迷惑をかける事態にまで発展したことで、世論は大きく動き、警察も総力を結集したところ、組の統一どころか、ついに双方の組は解散することになったのである。
西部劇みたいなことが本当に起きたのだ。
こうして、この街にも平和が訪れた。
抗争終了から数日後、俺たちは深夜の見回りを再開した。もちろん、組の抗争のきっかけが俺たちの仕業だなんて、どこにもバレていない。俺たちはまた、日常の生活に戻っただけだ。二度の抗争でたくさんの犠牲者が出たようだが、街が浄化できたのだから、いいだろう。
と言うものの、実はそのことで、俺は少しばかりやり過ぎたかなと思って、少しばかり反省していたのだが、Aさんと会ってみたら、あっけらかんとした、平気の平左で、「ショッカーの首領が死んだからといって、仮面ライダーが悲しまないのと一緒ですよ」と笑っているではないか。とことん、分からない人物である。
Aさんはその夜、鉄アレイから紺色の塗装を剥がした金ピカの金アレイ二個を紙袋に入れて持って来ていた。
「Bさん、このアレイを売却したいのですが、このままでは売れないと思うのですよ。何かいいアイデアはありませんか?」
「そうだな。溶かして鉄アレイの形にしたのだから、もう一回溶かして元に戻したらどうだい?」
「ああ、それはいい考えですね。しかし、どうやって溶かすのですか?」
「俺に心当たりがあるよ。これでも機械関係のセールスマンなんだ。明日の昼間に会えるかい?」
翌日の昼間、俺たちは閉鎖が決まっている金属精錬加工工場に来ていた。
「オヤジさん、ご無沙汰しております」営業マンの俺は経営者に頭を下げる。
「ああ、アンタか。もうここは閉めるって、言ってあるだろ」
「はい、それは私も聞いております。今日はセールスに来たのではありません。いくつもの装置が引き取り手もなく、まだ置いてありますよね。そこでオヤジさん、相談なんですが、デジタル金属溶融炉を譲ってくれませんか」
俺は営業の際には“俺”ではなく、“私”を使うし、言葉遣いは丁寧になる。敬語なんてペラペラだし、米つきバッタのように頭を下げる。
なんといっても、夜はヒーローになるが、昼間は普通のサラリーマンだからだ。このギャップがたまらないと自分でも陶酔するくらいだ。
デジタル金属溶融炉は金属を溶かす装置だ。溶融量は三キロ。十五分もあれば溶かすことができる。これで金アレイを溶かそうというわけだ。俺の会社では扱ってないから、中古品を買い取ることにしたのだ。
オヤジさんは工場の隅に置いてある溶融炉に歩み寄った。
「これは高かったんだ。十二万円かな」
「では、十万円でどうですか?」
「おっ、いいのかい? これは年季が入ってるから二束三文だ。転売しても儲からんぞ」
「いいですよ」俺は営業カバンから十万円を取り出して、オヤジの目の前に差し出した。現金の力は大きい。オヤジの目の色が変わった。
「いや、悪いねえ」遠慮なく十万円を掴み取る。「受け取りのサインはいらないのか?」
「いいえ、これは私個人が購入するものですから結構です」
「訳アリという奴か。だったら、黒鉛るつぼインゴット鋳型も付けてやるよ」
「そうですか。それはありがたいです」
金アレイを溶かしてこのインゴット鋳型に入れて固めると、四角い形になるというわけだ。
「ついでに、ゴーグルと手袋も付けてやるよ」
「ありがとうございます」俺は深々と頭を下げる。
これは作業をするときに必要なんだ。
現金をもらったオヤジは気前がいい。
「ところで、アンタ、何かを溶かすのか?」
「いいえ、私にそんな趣味はありませんよ」
「俺は嫌な過去を溶かしたいなあ」
「そうですか。ははは」
くだらないジョークも笑ってあげるのが優秀な営業マンだ。俺の笑顔は魅力的なんだ。
俺はデジタル金属溶融炉を片手で持ち上げた。重量は五キロしかない。軽いものだ。
オヤジに一礼して、もう二度と来ないであろう工場を出た。
外ではAさんがニコニコしながら待っていた。
俺たちの十キロの丸い金アレイは二十枚の四角い金塊に変わった。
いびつな形だったが正真正銘の金だ。貴金属店で鑑定してもらい、正式に買い取ってくれた。金塊を売却して得た金はAさんと二等分した。一人三千万円超になった。
大金を手に入れたが、俺は会社を辞めず、優秀な営業マンを続けている。辞めたところで、何もすることがない哀しきサラリーマンだからだ。その金で俺はオンボロ自転車を買い替えた。小太りの中年男にはうれしい電動アシスト自転車だ。
翌日、電動アシスト自転車を試運転してみた。この電動自転車と俺の脚力があれば暴走族にも追いついたのだが、警察の尽力もあってか、もうあの連中は見かけない。反社の二大勢力も解散した。放火犯も、下着泥棒も、宝石泥棒も影を潜めた。この街にも平和が訪れた。もうこの街をパトロールしなくてもいいのかもしれない。自宅から自転車で行ける街はまだまだある。ヒーローを必要としている街がある。覆面用のパンストのストックはまだたくさんあるから大丈夫だ。この街はAさんだけに任せればいいだろう。コンビは解消だ。だが、もう少し一緒に戦いましょうとAさんに言われたら、やるかもしれない。揺れ動く中年心だ。
電動アシスト自転車は快調だ。相手は反社だとはいえ、盗んだ金で買ったことには違いない。Aさんのことをハイエナとか、ハゲタカとか言っていたが、いつしか俺もその仲間入りをしてしまった。何も罪悪感を抱かない。それどころか、自転車が新調できてうれしい。
こんなヒーローはいない。腹黒い仮面ライダーなんかいない。仮面ライダーブラックはそういう意味のライダーではない。Aさんと組んだことで、仮面ライダーというよりもショッカー寄りになってしまった。おやっさんに怒られるに違いない。
俺はこんなことでいいのか? ヒーローのあるべき姿とかけ離れているじゃないか。
そんなことを考えながら走っていると、いつしかAさんが賽銭を入れていた古びた神社の前に差しかかった。
Aさんはあの大金を何に使ったのかなあ。まさか、全額をこの神社の賽銭箱に押し込んでないだろうな。だが、Aさんならやりそうな気がして怖いな。
そう思いながら、神社の入口を見てみると、木肌が見えてボロボロだった鳥居が新調されて、真っ赤に輝き、大きくそそり立っていた。
まさか、あの大金でこれを寄贈したのか!?
寄贈者の名前が書いてあったが、よく考えたら、俺はAさんの本名を知らない。
俺は自転車を止めて、ピカピカの大鳥居を仰ぎ見た。
しばらく眺めていると、神社の奥から、ここの神主らしき老人が神主衣装を着て歩いて来た。隣には、なぜかいつものスーツ姿のAさんがいる。
「ああ、これは、これは」
Aさんは鳥居の下にいる俺を見つけると、うれしそうに手を振った。
そして、隣を歩いている神主に言った。
「お父さん、自転車にまたがってるのは、営業でお世話になってる方ですよ」
お父さんと呼ばれた老人が俺に会釈をした。
俺はびっくりした。
お父さんて何だよ。Aさんはここの息子か!?
だから、賽銭箱にお金を入れていたのか!?
だから、鳥居を寄贈したのか!?
神主は感慨深そうに新しい鳥居を見上げている。
Aさんがゆっくり近づいて来た。
「Bさん、私は会社を辞めることにしました」
俺は自転車にまたがったまま訊く。
「ほう、あの金を元手に事業でも始めるのかい?」
「いいえ、父もあの通り、年なもので、私がこの神社の後を継ぐことにしました」
「ええーっ! Aさんが神の道を歩むのか!?」
俺は驚いて電動自転車ごと仰向けに倒れた。
見上げた鳥居の赤と秋空の青のコントラストがとてもキレイだった。
(了)
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