透明色のカンバス

石田ノドカ

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序章 『都会っ子、田舎へ行く』

1.父と子と、じいちゃんとばあちゃんと

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「もう少しで着くぞー」

 父の言葉に、夢の中に在った意識が戻される。
 目だけ動かして理解したのは、ここが父の運転する車内で、母の姿はないということ。

(あぁ、そうか……)

 僕は今、十年近く会っていなかった祖父母の家へと送り届けられようとしているのだ。
 それをようやく思い出した。

 細く開けられた窓から入る風は生温い。
 遠くの方には、分厚い入道雲が見える。
 すっかり夏になってしまったんだな、と思う。

「ごめんな、悠希。まさか秋までかかる大仕事になるとは、俺たちも思ってなかった」

 向かう先へと目を向けたまま、父が言う。
 もう何度も聞いた言葉だ。

 父と母は、同じ職場での共働き。昔から出張はよくあったけれど、二人ともが一緒になることは無かった。今回が、初めてのことなのだ。
 いや、寧ろこれまでよく被らなかったものだ。
 会社側の配慮だったりするのだろうか。

 母はと言うと、一足先に出張先へと発っている。
 仕事の日程柄、最悪どちらかいないと事が進まないらしい。
 父の方が残った理由は単純。運転免許を持っているからだった。

「良いことじゃん、仕事が軌道に乗るのって。それに、もう高校生なんだし、こんな田舎まで送ってくれなくたって、生活ぐらい出来るのに」

「そうは言うがな。父さんと母さんの出張先、国内じゃないんだから、心配にもなるだろ。何かあった時、すぐに駆け付けてやれないんだ」

 父の言う通り、二人の出張先は海外である。

「何かあったら、でしょ」

「都会より田舎の方が安全だろ」

「……まぁ、それは確かに」

 田舎は田舎で色々あるのかもしれないけれど、想像する限り、都会より人的被害は少ないように思える。人や建物や乗り物の喧騒も遥かに少ない。
 とは言え、だ。

「でもさ、十年も会ってなかった上に、向こうだってその分歳取ってるんでしょ? 一ヶ月以上も僕なんかがいていいのかな? 迷惑じゃない?」

 最後に親の帰省に着いて行った当時で、祖父母共に六十代だった。十年経った今、七十代も折り返しだ。

「前にも言ったが、それに関しちゃ問題は少ない。親父は若者顔負けなくらい元気だし、お袋も多少物覚えは悪くなったが年相応とさえ言えない程度のものだ。不自由はないはずだ」

 父はそう言うけれど、僕の抱く問題は、また少し別のところにあった。
 じいちゃんばあちゃんというものは、孫の顔を見られるのが嬉しい。しばしばそう言われるけれど、それは半年や毎年、少なくとも数年に一度は会うような仲であればこそなのではなかろうかと思う。
 僕は現在高校二年生で、先月十七歳になった。背丈も人相も変わった。それに、最後に祖父母と顔を合わせたのは、僕がまだ七歳の頃。小学校二年生の夏だ。
 当時、祖父母ともまだまだ若々しくて元気だった。
 互いに、そんな相手と急に顔を合わせたともなれば――ましてそんな相手と、一ヶ月以上も共に生活することになるなんて。

 数日は距離感を探ることになるのでは、と、そう思うのだ。
 ……少なくとも、僕の方はそうなる予感しかしていない。
 早い話が、今からもう既にとても緊張しているということである。

「まぁ、悠希の懸念も分かるけどな。父さんも、初めて会う人とか久しぶりに会う人って、割と苦手だ」

 そうは言うけれど、大人も大人なわけで。
 父さんが、誰か相手に委縮しているような様子は、見たことがない。
 僕もそう繕うことが出来れば良いのだけれど、経験値の差なのか、そんな器用なことはまだ出来ない。

「まぁ何だ、気まずいってんなら、どっかに出掛ければ良い。田舎ってやつは、都会よりもカンバス映えするところばかりだからな」

 父は、ルームミラー越しに僕の後ろを見た。
 後部座席の後ろ――座席を倒したそこには、カンバスやイーゼル、絵の具や紙類といった、沢山の画材が詰め込まれている。

 僕の趣味だ。

 とは言っても、現状専門の高校でもなければ部活にも入っていない、本当にただの趣味なのだけれど。
 お小遣いや、長期休暇中の短期バイトのお金を貯めて貯めて、細々続けている趣味だ。
 それで今回これだけ大量なのは、一ヶ月以上の間、持っているものだけで足りるだろうかと思案していたところに、両親がせめてもの気持ちにと色々買い足しておいてくれたからだ。

 二人とも仕事で家を離れるのであって、別にそこに何か言う程、僕だって子どもじゃないつもりなのに。
 それに、無くなれば自分で買いに行けば良い話だ。
 いくらド田舎とは言ったって、地元の学生に向けた画材屋くらいあるだろう。

「……え、まさか無いの?」

「画材屋がって質問なら、イエスだ。家から最寄りって言ったら、計徒歩一時間半と電車四十分と掛けて旅に出た先にしかない」

「うわぁ……」

 そんなに田舎だったろうか。
 記憶の中にあるのは、古く大きな日本家屋と田園風景、柵の無い水路と駄菓子屋……。
 あー……うん、確かにそんな気の利いたものは無さそうだな。

「――っと。ほら、見えて来たぞ」

 父の言葉に、僕は身体を少し動かして、運転席の脇から正面の方を覗いた。
 立派な何かが育っている畑を脇に見ながら進んだ先に、記憶の中に残っているものと同じ、塀に囲まれた大きな平屋があった。
 玄関先には、何の植物か分からないものの育っている植木鉢や、畑仕事用の道具が綺麗に並べられている。

 僅かに胸を撫で下ろす心地。
 しかし、そんな余韻を楽しませてはくれない車は、どんどんとその家へと近付いてゆき――体感、瞬きの間に、

「よし、着いたぞ」

 すぐ目の前まで辿り着いてようやく、エンジンが切られて車が停まった。
 車の中からでも分かるくらい、そこかしこで命の喜びを謳歌する蝉の鳴き声が響いて来た。

 緊張に固まる僕を他所に、父は早くも車から降りて荷下ろしを始める。
 どうしようか。どうするべきか。瞬間、そんなことをぐるぐる考え始める僕だったけれど。

「おー、悠希かえ? 随分大きくなってぇ」

 ふと聞こえた懐かしい声に、頭は固まりながらも、弾かれたようにそちらを仰ぐ。
 大きく開かれたトランクの向こうに、日除けの帽子と、その下にタオルまで携えた祖父が――じいちゃんが、立っていた。
 僕に気付いたじいちゃんは、そのままぐるりと回り込んで、僕の座る助手席側の扉を引き開けた。
 少し遅れて、その隣からばあちゃんも顔を覗かせた。
 じいちゃんと同じ帽子にタオルを引っかけた、頭二つ分程小柄なばあちゃんだ。

 それに、この匂い――田舎、というより、じいちゃんばあちゃんの家の匂いだ。
 一気に、思い出が脳内を駆け巡った。

 それにしても、二人とも記憶している人相と驚く程変わりがない。

「久しぶりだなぁ、ゆうくん。遠いところまでご苦労様だ」

 ばあちゃんの方は、少しだけ声が掠れただろうか。その程度の変化だけだ。

「あ、えと……」

「ええがええが、疲れとるんだ。今日はゆっくり休みんさい。あとでスイカ切ってあげるけぇ、スイカ」

 じいちゃんが、明るく笑いながら言う。
 あぁ、そうだった。じいちゃんは、こういう人だった。
 最後にここを訪れたあの時も、夏の時期だったからか、今みたいにスイカを勧めてくれたっけ。

「おーい悠希、懐かしむのはその辺にして、そろそろ手伝ってくれないか。父さんだけじゃ流石に重い」

「あっ、うん、ごめん…!」

 あれこれごっそり両脇に抱えた父の姿に、僕は慌てて車を降りると、二人の脇を通り抜けてトランクの方へと走った。

「二人は休んでて。俺と悠希で十分だから」

 父が言う。
 そうだった。ここ、父方の祖父母の家だ。

「そうか? そんなら、僕はちょっとだけ用事があるけぇ、少しだけ出掛けて来るわ。すぐ戻るけぇ適当に寛いどりゃあええ」

「大丈夫、ゆっくり事故なく帰って来なね。俺も少ししたらすぐに帰るからさ」

「出張っちゃな、そんなに焦らんといけんのか?」

「焦ると言うか、既に待たせちゃってるからね。仕事もそうだけど、裕美子に何かあったら困る」

 サラっとそんなことを言えてしまう父さんが、今だけすごく眩しく見えた。

「言うことだけはいっちょ前になったけんど、悠希なぁ、お父さん昔はすごいビビり症だったって知ってるか?」

「緊張しいだっていうのは自分で吐いてるけど、ビビり症とは聞いたことないかも。そうなの?」

「セミだ蛍だ蝶々だが近くを飛ぶだけで、女の子みたいな声で飛び退くぐらいのもんだったで」

「えっ、それは意外」

「こらこらご老体、仲良くなる為の口実に息子の悪口かよ」

 父が溜め息交じりに言う。ひどく呆れた声だ。

「悪口じゃなし、息子の成長話だ。なぁ、悠希?」

「成長してるの?」

「お前まで馬鹿言って。もうそこそこいい年のおっさんだって言うのに――」

「肩、カメムシ歩いてるけど」

「ひゃあっ!」

 甲高く短い悲鳴とともに、背後に置かれた何かに気付いた猫のように吹っ飛ぶ父。
 僕の大切な画材たちが、音を立てて地面に転がった。

「ごめん嘘。どの口がいい歳したおっさんだって?」

「こんのバカ親父とバカ息子が……画材壊れても知らんぞ」

 耳まで真っ赤に染めながら、わなわなと震えこめかみに皺を作る父。
 まあ、例え画材が幾つか壊れてしまってたとしても、その原因を作ったのは僕と、ともすればじいちゃんとなわけで。
 何か言って責め立てるようなことは、まかり間違ってもしないさ。
 最悪、一時間と四十分動けば買いに行けるわけだし。

「はいはいみんな、落ち着きんさい。おじいさんも、子どもみたいに子どもを弄らない」

 ばあちゃんが、景気のいい柏手一つと共に一同を制する。
 地面から拾い直した鉈が、いやにギラりと光って見えた。
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