透明色のカンバス

石田ノドカ

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第1章 『絵描きとクラシック』

6.その人

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 職員が脚立でも倒したような音だ。
 吹き抜けでも、布敷の床のせいで下までは響かなったらしい。カウンターにいるおじさんは気付いていない。

(……余計なことかもしれないけど、怪我でもしてたら大変だし)

 昔、高いところにあるものを取ろうとしてバランスを崩して、脚立と一緒に倒れて怪我をしたことがある。存外、身体が先に落ちてその上に脚立が倒れて来ることもある。
 身を以って体感したことだ。
 そうでなくとも当たり所が悪ければ……。

「あの――」

 本棚の山を曲がって、音のしたらしい方へと顔を覗かせる。
 しかしそこに居たのは、

「あっ……」

 真っ黒な髪、ワンピース――例の子が、車椅子から落ちた音だった。
 床と本棚に手をつき、立ち上がろうとしているけれど、悪いのが両足なようで上手くいかない様子。

「え、と――あっ、受付のおじさん呼んできます…!」

 早口に言って、一階へ向かうべく踵を返す僕のことを、

「だめ」

 短く、少女が引き留めた。

「えっ、何で駄目って……」

「それは言えないけど、だめ」

 積もる話でもあるのか、少女は難しい顔をしながら頑なだ。

「あー、えっと……」

 言葉に詰まる。
 その間にも立ち上がろうとする彼女の身体が起き上がることはない。

「あっ、じゃあ僕、手伝います…! あ、でも、ごめんなさい、身体に触れますけど……」

「いいよ、気にしない。ありがと」

 優しく頷くのを受けて、僕は彼女に手を伸ばす。
 足が不自由な人を助け起こす心得なんかないけれど――ほら、上手くいかない。
 当然だ。僕の手を取った彼女だったが、それで足に力が入って踏ん張れるようになるわけではない。

「ごめんね。後ろからだと車椅子が邪魔だろうから、前から抱きかかえてくれない?」

「え、いやでもそれは……」

「うわー、痛いなー、立ち上がれないなー、誰か助けてくれないかなー」

 わざとらしく、わざとらしい表情で、わざとらしいことを言う。
 それに僕が固まっていると、ニヤリと、これまた悪戯っぽい笑みを向けて来た。

「……まぁ、そっちが気にしないなら」

「ふふっ。正直者だね、君は」

 コロコロと笑う少女。
 その明るい表情に、不覚にも心臓が強く打った。

「えっと、じゃあ……失礼します」

 保険でもかけるように言ってから、背負っていたリュックをおろして、僕は抱き起したその身体に両腕を回す。
 彼女も僕の背中に腕を回すと、大丈夫大丈夫、とでも言うみたいにポンポンと優しく叩いてからしがみついた。
 出来ればそうして欲しくなかったのだけれど――遅かった。
 服の上からでも分かる豊満な胸が、僕の身体でむにゅっと潰れた。

「あー、っと……えと、ちょっとだけ踏ん張れます?」

「うん、ほんのちょっとだけなら。重かったらごめんね」

「大丈夫です。多分軽いので」

 その・・大きさは置いておくとして、彼女はとても華奢な身体つきだ。
 身の丈は母と同じくらい。なら、大丈夫だ。
 何かの記念日に二人して酔い潰れて帰って来た両親を、何度か寝室まで運んだことがある。
 脱力しきった人間は重く感じると言うが、この子と同じくらいの母は、別段大したことはなかった。

「行きますよ。いち、にの、さん!」

 掛け声と共に、気合十分に腰を上げる。
 ふわっと浮き上がる身体。
 しかして確かに圧し掛かる重量。
 母との差異は……この二つの膨らみだろうか。

「わわっ!」

 驚きの声を上げる彼女。
 そのままストンと車椅子に降ろされたところで、へぇ、と小さく呟いた。

「力持ちには見えないのに。君、凄いね」

「画材とか持ち歩いてると、自然と筋肉ってつくんですよね」

 イーゼルに塗料に筆に水桶——面倒くさがりな性分ゆえに、それらを一度で運んでしまおうとする癖から、自然と身体はある程度逞しくなっていった。

「画材? 絵を描くの?」

「えっ――と、あぁ、はい。風景画とかばかりですけど」

「ふぅん」

 少女は、僕の目を見て頷いた。

「ね。今日それ見れる? そのリュックの中に入ってたりする?」

 興味津々、といった顔で、傍らに放っていたリュックを指さした。

「……まぁ、あるにはありますけど」

「無い、って嘘は吐かないんだね。初対面だよ?」

「それ、僕の方が言う台詞じゃ――それに、吐いたって仕方ないですから。見せるとも言ってませんし」

「え、見せてくれないの?」

「他人に見せるにはお目汚しになる程度のものしか描いてません。描けません」

「私、絵とか描いたことないよ? そんな人間より下手ってことはないでしょ」

「そういう問題じゃ……」

 ない、けれど。
 しかし、そこまで見たいと思うものだろうか。

「……笑わないって約束してくれるなら、まぁ一個ぐらい」

「ないない、笑わないよ」

 ふんわり笑ってそう言う彼女。
 それに、どこか安心してしまった。

 してしまったのが、いけなかった。

 言葉に詰まったその一瞬に、彼女が僕の手を引きつつ車椅子を回して、机のある読書スペースへと連れて来られてしまった。
 ……まぁ、別に減るもんじゃないし。笑わないって言ってくれたし。
 まるで自分に言い聞かせるように、心の中で復唱してから、僕はリュックの中からデッサンノートを取り出した。
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