透明色のカンバス

石田ノドカ

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第1章 『絵描きとクラシック』

7.榎本ユリ

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 そうしてページを捲って――せめて見られても恥ずかしくないと思えるだけの力を注ぎこんだ、一番の力作を開いて机上に置いた。
 一匹の金魚が、金魚鉢から跳ねた瞬間を描いたものだ。

 いつだったか、知り合いの家に行った時に見たそれに感動して、脳裏に焼き付けた記憶のままに描き起こしたものだ。
 それを一目見た彼女は、

「――ふふっ」

 笑った。
 口元に手を添えて、上品に。

「わ、笑わないって……」

「ごめんごめん。でも、揶揄するような意味は一切ないよ」

 きっぱり、はっきりと断ってから、彼女は続ける。

「すごく活き活きしてるね、この絵。この一枚の紙の中で、金魚が生きてるみたい」

「ぁ……」

 言葉を失ってしまった。
 彼女が嘘を吐いている訳ではないということが、本能的にか分かってしまったから。

「ほ、本気で描いたものではありますけど、この頃はまだまだ駆け出し――というか、描き始めてちょっとした頃で……」

「上手いとか下手とかじゃないよ。思いというか、その人の熱を感じる。これを描いた時の君が、本当にワクワクしてたんだろうなって、想像出来る」

 淡く微笑む彼女は、小さく言った。

「こういう絵、私、好きだなぁ」

 仄かに染まった頬。
 自然に緩んだ口元。

 その絵を見つめる瞳の、何と優しいことか。
 横顔に、いや彼女の纏う空気それ自体に、見惚れ、見入ってしまう。

「ね。ここには何しに来たの?」

「えっ? あ、はい、資料を探しに……絵の」

「歴史書とか地図?」

「はい、そんな感じのやつ」

「この町の?」

「はい」

「ふむふむ。なら、こっちにあるよ。来て」

 肩を叩いて促しつつ、彼女が先導する。
 僕も席を立ち、ゆっくりと進んでゆく車椅子の背中を追いかける。
 随分と手慣れた様子でするりと角を曲がり、幾つかの本棚を見送った先で止まった。僕もその隣に並んで、差し込んである本に目を向ける。
 そこには確かに、この町の名前と、文化史、地図、等々の文字が並んだ本があった。

「え、すごい……全部覚えてるんですか?」

「読んだやつはね。私、取り柄らしい取り柄はないんだけど、昔から記憶力だけは凄くいいんだ。役に立って良かったよ」

「取り柄……綺麗なことって、取り柄に入らないものですか?」

「へ?」

「えっ?」

 真ん丸になった目を向けられてから数秒経ってようやく、自分が何を言ったのか理解した。

「あ――あー、その、ほら、画になる人だなって意味です。綺麗な髪とか綺麗な洋服とか、そういうやつ」

「ちょっと無理があるかな」

「……ですよね」

「あはは! 君、面白いね!」

 彼女は、また口元に手を添えて、上品な所作ながらケラケラと声を上げて笑った。
 笑って笑って、一頻り笑って、目元に滲んだ雫を指先で拾い上げて、ふぅと息を整えた後で僕に向き直る。

「ね、私って綺麗? 君には、私が綺麗に見えるの?」

 とても真っ直ぐ、揺れることなく尋ねられる。
 その視線に、声に、どう答えたものか迷うけれど。
 気の利いた言い回しや誤魔化しなんて思いつかない稚拙な頭は、

「……ええ、まぁ」

 殊の外あっさりと、素直な言葉を吐き出した。

「それ、髪とか洋服とか?」

「……じゃなくて、その、容姿というか、あと中身とか、そういうやつも……まだ貴女のことは全然知りませんけど、裏表のない人だなって感じます」

「そこまで聞いてないんだけど。流石に、ちょっと恥ずかしいかな」

「あっ――す、みません」

「ううん、責めてないよ」

 ふわりと笑って、彼女は本棚の方に目をやった。

「ほら、私ってこんなじゃない? だから、どれだけ髪を整えても、どれだけ上品なお化粧をしても、どれだけ着飾ってみても、あんまり見向きされないんだよね。女として見られてないような感じ。普通じゃないから」

 最後の一言が、いやに頭に残った。
 響くような、脳を揺らすような、そんな言葉だった。

「普通って、何なんですかね」

「大多数と同じこと。同列に比較するものが一番多いやつ」

「――僕、それは違うと思うんですよね」

 呟くような言い方に、彼女の視線が向いた。

「普通とか普通じゃないとかって、ただの主観の集合体なんですよ。人によってその度合いも違うのに集まり過ぎるから、馬鹿みたいにでっかい括りの『普通』になっちゃってるだけなんです。元々は、個人が思う、個人が持ってる基準を『普通』って言うと思うんです」

「――つまり?」

「……僕の基準だと、貴女は普通です」

 同じ世界にいるんだ。何だって当然で、何だって普通だ。
 まして同じ言葉を話して、同じようなものを見て、同じように笑っている。これが普通じゃなくて何だと言うのだろう。

「君、若いのに達観してるね」

「貴女の方が若いんじゃないですか?」

「先月十八になったよ。君は?」

「嘘、先輩なんだ……先月、十七になりました」

「えっ、同じ月なんだ。日にちは? 私、二十三日。六月だから、二かける三が六って覚えてる」

「……僕は、二三が六派です」

「同じ日!? うそ、すっごい偶然!」

 口元を隠して驚く彼女。

「丁度一つ違うんだね」

「ほんと、マジの丁度一つ差なんですね」

 こんな偶然、あるものなのか。
 同い年じゃないだけ、まだある話ではあるか。

「私、榎本えのもとユリ。『ユリ』はカタカナだよ」

相良悠希さがらゆうき。僕のは漢字です」

「あははっ! 漢字ですって、そっちの方が普通じゃん!」

 普通なんて、令和のこの時代にはあったものじゃない。
 ひと昔前までは『キラキラネーム』なんて言われていた類の名前だって、現代じゃ普通になっているものも大半だ。

「そう言えば、榎本さんは――」

「ユリ、でいいよ」

「……榎本さんは――」

「強情だねぇ」

 いくら本人から促されても、初対面の年上女性相手に名前呼びはないだろう。

「榎本さんは、どうして図書館に? 探しものでもあったんじゃないんですか?」

 それは、何てことはない質問のつもりだった。
 けれどもそれを受けた榎本さんの方は、ほんの僅かに難しい顔をした。
 それでもすぐに笑顔を浮かべて、

「暇つぶし」

 とだけ答えてくれた。

「夏休みなんて言ったって、暇なんだよね。家にいる時間が長いだけでさ」

「やりたいこととか」

「それがこれ。図書館で適当に散策するの。楽しいよ」

「楽しいなら別にいいか」

 趣味趣向なんて、当人だけのものだ。
 それに何かとやかく言ったって詮無いことだ。

「そういう悠希くんは、帰省だよね? 訛ってない」

「それ、そっくりそのままですよ。榎本さんだって訛ってないじゃないですか」

「親の影響だよ。私、ピアノやってるんだけどさ。『舞台に立つ人間が田舎臭い方言なんか使うな』って」

「え、方言いいのに。博多弁とか惹かれません?」

 いつだったか、テレビで『方言による同じ言葉の違う聞こえ方』みたいな特集をやっていた。
 博多と青森の方言が、僕の中では一番だった。

「分かる! 『好いとーよ』ってずるいよね!」

「九州の方言って全部ずるいですよね。沖縄の言葉も結構好きです」

「あれはもはや多言語だよ。私、全然分かんない」

「僕も殆ど分かりませんけど、響きが何となく」

「なんくるないさー、って?」

「そうそう、そういうやつ」

「ふふっ。良いよね、たしかに」

 キラキラ瞳が輝いて上機嫌になったかと思うと、次の瞬間にはやや控えめで淑やかな所作と笑い声。
 コロコロと表情が変わって、何だか見ていて楽しい。

「帰省、どのくらい?」

「夏休みいっぱいです。八月の暮れまで。両親が海外出張で、その間祖父母の家に預けられてるんです」

「八月末……じゃあ、あと一ヶ月丸々はいるんだ」

 ふむふむ、と頷く彼女。
 どうしたのかと首を傾げる僕に、ふっと笑い掛けて。

「ね。暇な時で良いからさ。また絵、見せてよ」

「見せてって――別に構いませんけど、どこに行けば?」

「ここ。今日金曜日でしょ? 夏休み中は、月、水、金曜日に来ると思う」

「また随分具体的ですね。理由は聞かない方が良いですか?」

「——だね」

「そうですか。じゃあ聞きません」

「ふふっ。わざわざ食い下がらない人、好きだよ」

「それはどうも」

 好き、という単語の持つ意味合いは多岐にわたる。
 それに一喜一憂していては、遠くない未来で馬鹿を見るのは自分の方だ。

「ね、悠希くんさ。その内——」

 何かを言いかけた矢先。

「お嬢さん、お迎えが来ましたよー」

 受付の方から、おじさんの声がした。
 僕ら以外には誰も居ないのか、遠慮のない大声だ。

「はーい!」

 大声に大声で返して、榎本さんは、ふぅ、と息を吐いた。

「……ごめん、時間だ」

「いえ。あっ、時間っていうなら、今日くらいの時間にいますか? 月、水、金」

「うん、大体これぐらい」

「あの、迎えとか――」

「え? いらないいらない。ここ、うちから結構近いよ?」

「えっ……? あれ、そうなんですか……?」

「うん。私の足で十五分くらい」

 足、というと車椅子のことか。
 徒歩より幾らか遅い速度で十五分——ここらの地理に詳しくない僕が辿り着いたこの図書館は、あの豪邸からそんなに程近いところだったのか。
 それは気付かなかった。
 昨日とは違う方向に走ったつもりが、巡り巡ってぐるぐるした末、昨日と同じくらいのところに辿り空いていたとは。

「改めてよろしくね、悠希くん」

 言いながら、榎本さんは手を差し出して来た。

「あー、えと……はい、こちらこそ」

 おずおずと控えめに、ゆっくりと伸ばす手を、彼女の方から引き寄せて取られる。
 人と握手をするなんていつぶりだろう――そんなことを思っている内、最後に「またね」とだけ言い残して、彼女はエレベータの方へと車椅子を走らせた。

「絵、か……」

 人に見せて恥ずかしくないもの、あれ以外にあったろうか。
 なければ――うん。また描こう。
 新しいものを描いて、見てもらうのも良いかもしれない。

(――何で僕、こんなこと……)

 昨日は何も得られず、肩を落としさえしたというのに。

 十七歳。高校生。
 僕は自分で思っているより、もっと単純な男子なのかもしれないな。
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