透明色のカンバス

石田ノドカ

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第1章 『絵描きとクラシック』

10.その日のことと、これからのこと

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「あ、と。それより、絵なんですけど――」

「良いの出来た!?」

 ぐぐいと前のめり。
 聊か気圧されつつも、全身全霊でないことを心の中で謝りながら、例のものを描いたデッサンノートを開く。

「おぉ」

 と、瞬間声を上げる榎本さんだったけれど。

「うーん。ちょっとだけ全力じゃない感じ?」

 すぐに視抜かれてしまった。
 あの金魚を見せた後だとどう頑張っても劣るものではあるけれど、よもや力が入っているか否かまで問われるとは思ってもみなかった。

「やっぱり分かりますか」

「何となーくだけど。金魚のは『気持ち』がそのまま乗った感じだったけど、これは『精巧さ』ばかりが目立つ感じ」

 彼女の指摘は見事だった。
 端的に的確に言い当てられて言葉に詰まる僕に、榎本さんはふふんと鼻を鳴らす。

「芸術家って、専攻以外の分野にも鋭かったりするんだよね」

「流石の慧眼ですね。お見それしました」

 冗談めかして言う僕。
 しかして榎本さんは、意外にも真面目な雰囲気を纏って微笑んだ。

「悩み事?」

「えっ、どうしてそう思うんですか?」

「何となーく」

 机に頬杖をつきながら、淡く微笑む。

「というかアレだ、ブランクってやつだ、きっと」

「ええ、まぁ。思った風に描けないんですよね。悩みって程じゃないんですけど」

「ふーん」

 榎本さんは、意外そうな顔で僕を見つめる。

「絵描きって、もっと自由に好きなものを描けるものなんだと思ってた」

「そういう人もいるでしょうが、僕は違うみたいです。心に左右されやすいんでしょうね、きっと」

「この風景には心が惹かれなかった?」

「惹かれはして、その心のままに描き出したつもりだったはずなんですけどね」

「そっか。難しいんだね、絵って」

「絵と言うより、僕が難しいんだと思います。絵は好きですけど、僕自身が相性良くないのかもしれません」

「うーん、それはどうだろうね。少なくとも、相性が良くない人にはあの金魚は描けないと思うな」

「――だと、良いんですけど」

 思いがけず沈んだ声音に、言い切った後で気付いて顔を上げる。
 そんなつもりじゃなかったのに――そう言わんとする僕に、榎本さんは何やら含みのある笑み。

「え、っと……?」

 首を傾げる僕に、榎本さんは「じゃあさ」と前置いて続ける。



 ――私を描いてよ、と。



 瞬間、心臓がキュッと傷んだ。
 それを榎本さんは、目敏く見つけたようだった。

「嫌なこと、あった?」

「……まぁ、軽く。人を描くのは、あまり好きじゃないんです」

「言いたくなかったらいいよ」

「――はい」

 その「はい」がどちらだったのか、口を突いてから自問するけれど。
 答えは、自ずと自分の方から示された。

「そう大したことではないんで、あまり重くは捉えないでほしいんですけど」

「うん」

「中学の頃、ちょっとだけ仲良かった子がいたんです。女の子。多分、ちょっとだけ好きだった」

「うん」

「僕は美術部で、その子は隣の教室で文芸部で。たまに、暇だからってこっちの部室に遊びに来て、軽く喋る程度の仲でした」

「うん」

「『私を描いて』って、言われたんです。まだ、そんなに上手でもない頃でした」

「うん」

「でもその子は、僕の絵を褒めてくれるような子で。嬉しくて舞い上がって、そこそこ本気で描いて――でもやっぱり、今考えたら下手くそで」

「うん」

「そんな絵を――その子は次の日、クラスの子に見せたらしくて」

「――うん」

「僕はその日、軽い風邪で学校を休んでて。その次の日に登校した僕は、意味も分からないままクラスの子たちに揶揄われて。後からそのことを知ったんです」

 榎本さんが、頷かなくなった。

「その子に、元々そういったつもりがあったのかどうか、今となっては分かりません。ただ――事実として、彼女は僕に謝りはしませんでした。それが尾を引いてるのか、あんまり人を描くのは好きじゃないんです。惹かれることも、あまりありませんし」

 道行く人で、可愛いな、綺麗だな、と思うことはある。
 当然だ。十七歳、男子高校生。
 ただそれが、描きたい欲に繋がるのかと問われたら、何とも言えない。
 絵にしたら映えるだろうなって思う人とすれ違うことはあるけれど、自分が筆を執る気にはならない。
 元が風景好きな傾向故なのか、それがトラウマになっているのかは、未だ自分でも判断が出来ないけれど。

「酷い話かどうかは、ちょっとだけ判断しにくいね。悪気があったのかどうかが不明瞭だし」

「そうなんです。だから、僕はその子のことを責める気にもなれなくて」

「責めなくても、謝られなかったことには怒ってもいい気はするけどね」

「争い事は嫌いなので」

「分かる。私も、物事はハッキリ言うけど、嫌な言い方とかはしたくないし」

 榎本さんは、難しい笑みでそう言う。
 かと思えば、すぐにまた、先刻までのような優しい笑みで以って続ける。

「じゃあ、その上でもう一回言うね。私を描いて、って」


「気持ちが乗らなきゃ――」

「うん。だから、気持ちが乗ったらでいい。描きたいって思える瞬間があったら、描いて欲しい。無理強いはしないよ。お願いでもない。希望」

「希望、ですか」

「そ、希望。だから、君を乗せてやろうとかわざとらしいこともしない。先週と今日と同じように、何となく会って、何となく話して、そういうことしかしない。あ、どっか行こうとかは言うかも。駄菓子屋とかお散歩とか、あと駄菓子屋とか!」

「あはは。なんですか、それ」

「そう、それ!」

 と、榎本さんはずずいと身を乗り出した。

「その笑顔。自然な笑顔が出来るような関係がいい。君とは、そういう関係になりたいな。あれこれ決めたりするより、普段通りいつも通り、お互いに一番楽な相手」

「そ、れは――ええ、僕もその方が良いです」

「でしょ? なーんにも考えないでいい、気楽な友達。それぐらいがいい」

「いいですね。じゃあ、まずは駄菓子屋?」

「そういうこと! 行こ!」

「えっ、今から…!?」

「今から!」

 そう言いながら器用にタイヤを回すと、僕の手を取り駆け出し――もとい、走り出した。
 辛うじて財布とスマホだけを持って、放り出した荷物はそのままにエレベータへと押し込まれる。
 そうして辿り着いた一階、そこから見える受付の方に、彼女は走りながら言う。

「上のリュックとノート、この子の! 三十分だけ預かってて!」

「ははっ。ああ、いいとも。ゆっくり気を付けて行ってきんさい」

「はーい! ほら行くよ、悠希くん!」

「えっ、あっ――ご、ごめんなさい…! 荷物、お願いします…! すみません…!」

 早口に言う僕に、おじさんは楽し気に手を振るばかり。
 な、なんて――はぁ、なんて無茶苦茶なことだろう。
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