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第1章 『絵描きとクラシック』
13.ちょっとずるい性格
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翌日、雨が降った。
火曜日の今日は彼女と会う日ではないため、別段問題はないけれど。
だからか、僕はスマホを取り出して何となくメッセージアプリを起動していた。
『榎本ユリ』と書かれているのが新鮮だ。
彼女は、ピアノの鍵盤をアイコンにしていた。色々と難しいことはあるようだが、ピアノやクラシックそれ自体が嫌いなわけではないのだろう。
スマホを手に、居間から縁側へと出る。
普通よりちょっと広い……そう、広縁ってやつだ。
縁側の外縁には更にガラス窓がついている為、細い廊下のようなものだ。
雨に濡れる心配もない。
和式ホテルさながら、小さな椅子とテーブルが置いてある。その上には、昨日買って食べきれなかった駄菓子が置いてある。
背の低いそれに腰掛けて、僕は窓の外に目をやりつつグミを一つ口の中へと放り投げる。
大きな葉を持つ木が、ボタボタと大きな音を立てている。それとは違う硬い雨音は、アスファルトに叩きつけている音だろうか。
少し遠くの方で、車のタイヤがスリップする音が聞こえた。
事故をしないように気を付けてくださいね……。
心の中でそんなことを祈る。
と、今度はすぐ近くからスマホの震える音が聞こえた。
誰のものだろうか。
……僕のものじゃない!?
慌てて、裏返していたそれを手に取り、画面を確認する。
そこには『着信:榎本ユリ』の文字。
「あれ、なんで……?」
昨日の別れ際、今日は昼過ぎから夕方までずっとレッスンの予定なんだよね、と話していたはずだ。
それが、今は昼の二時半。絶賛レッスン中のはずだと思うのだけれど。
首を傾げつつも、応答ボタンをタップする。
「——もしもし?」
『あ、悠希くん? こんにちは、ユリです』
すぐ耳元で聞こえるその声がくすぐったくて、僕は思わず少しだけスマホを耳から離した。
向かい合わせで話しているのとはまた違って、すぐ近くに息遣いまで感じられるのはちょっと……。
「ええ、それは存じておりますが――レッスンは?」
『それがね、先生が急な用事で来られなくなって、自習になったんだよ。で、ついさっきまで弾き込んでたんだけど、ちょっとだけ疲れちゃってさ』
「それはお疲れ様でした。じゃあ、今は休憩時間ってわけですか」
『そゆこと。ごめんね、急にかけて。都合悪くなかった?』
「あぁいえ、全く。縁側で外眺めてただけなので」
『あははっ! おじいちゃんみたいな時間の使い方だ』
我ながら、まったく以てそう思う。
なんて贅沢な時間の使い方だろうか。
とは言っても、八月の中旬には終わる計算で割った今日の分の宿題は、朝の内にちゃんと片付けてしまったから、特段やることがないのだ。
絵を描こうかとも思ったけれど、今は進んで描きたいようなものもない。
スマホでゲームをする趣味もない。
祖父母の何か手伝いでもしようかとも思ったけれど、二人ともキッチン兼食事用の部屋からテレビを見ていて、今日は暇そうにしていた。
『そだ、昨日買ったグミ食べた?』
「今まさに噛み砕いてるところです。美味しいですね、これ」
『でしょ? ほらほら、私の言った通りだ』
「いやいや、桃味にハズレなんてないでしょ」
『分かんないよ? 中に変な味混ぜてるやつがあるかも』
「何とかビーンズじゃないんですから。それに、それならそれで表記がないと色々問題ですよ」
『あはは、それもそうだね』
彼女は明るく笑う。
電話越しでもこの笑い声が聞けるとは。
『ね。ちょっと疲れてお暇なんだけどさ。しばらく付き合ってくれない?』
「ええ、こうして付き合ってますが」
『ん? あ、うん、そうだね。うん、そっか』
「榎本さん?」
『あー……うん、ちょっとだけ疲れちゃったんだよね』
「聞きましたけど」
『あぅ……』
おっと、これは聞いたことのない声だ。
「本当にどうしたんですか? 何かありました?」
聞くと、彼女はしばらく何も返さなかった。
小さな息遣いは聞こえているから、通信の不良なんかではなさそうだ。
何度も聞くのはアレだろうかと、彼女の方から何か言ってくれるのを待つ。
『あー……っと、ね』
「はい」
『思うように弾けなくてさ。ちょっとだけ、自分に苛々してるの。ぶつけちゃったらごめんねって先に言っとくね』
「そんなの全然構いませんけど――そうですか。スランプみたいなことですか?」
『なのかなぁ。こんなの初めてなんだよね。いつもは、もっと伸び伸び弾けるんだけど』
僕はピアノを弾いたことがないから、その感覚がどのようなものかは想像も出来ない。
レッスンじゃなくて一人でいるからこそ寧ろ、雑念が出てきてしまっていたりするのだろうか。
両手と足を目まぐるしく回す楽器だ。少しでも何か違うことを考えてしまえば、途端にそこから瓦解していってしまうであろうことぐらいは分かるけれど。
「家の人は? 誰かと息抜きとか」
『お母さんは夜勤だから寝てて――っと、看護師さんなんだけどね。それに備えて、今は寝てるの。で、家主のおじいちゃんは、遠方から来たお友達と夜まで飲み会。だからひとりぼっちなんだよね』
「あらら、それはそれは」
『そうなんだよ。だから、ちょっと寂しくてさ』
なんて何気ない一言が、グッとささった。
寂しいからって電話をかけて来たのか。
なんて思うと――うん。素直に嬉しいな。
ずるいよな、この人の性格。
火曜日の今日は彼女と会う日ではないため、別段問題はないけれど。
だからか、僕はスマホを取り出して何となくメッセージアプリを起動していた。
『榎本ユリ』と書かれているのが新鮮だ。
彼女は、ピアノの鍵盤をアイコンにしていた。色々と難しいことはあるようだが、ピアノやクラシックそれ自体が嫌いなわけではないのだろう。
スマホを手に、居間から縁側へと出る。
普通よりちょっと広い……そう、広縁ってやつだ。
縁側の外縁には更にガラス窓がついている為、細い廊下のようなものだ。
雨に濡れる心配もない。
和式ホテルさながら、小さな椅子とテーブルが置いてある。その上には、昨日買って食べきれなかった駄菓子が置いてある。
背の低いそれに腰掛けて、僕は窓の外に目をやりつつグミを一つ口の中へと放り投げる。
大きな葉を持つ木が、ボタボタと大きな音を立てている。それとは違う硬い雨音は、アスファルトに叩きつけている音だろうか。
少し遠くの方で、車のタイヤがスリップする音が聞こえた。
事故をしないように気を付けてくださいね……。
心の中でそんなことを祈る。
と、今度はすぐ近くからスマホの震える音が聞こえた。
誰のものだろうか。
……僕のものじゃない!?
慌てて、裏返していたそれを手に取り、画面を確認する。
そこには『着信:榎本ユリ』の文字。
「あれ、なんで……?」
昨日の別れ際、今日は昼過ぎから夕方までずっとレッスンの予定なんだよね、と話していたはずだ。
それが、今は昼の二時半。絶賛レッスン中のはずだと思うのだけれど。
首を傾げつつも、応答ボタンをタップする。
「——もしもし?」
『あ、悠希くん? こんにちは、ユリです』
すぐ耳元で聞こえるその声がくすぐったくて、僕は思わず少しだけスマホを耳から離した。
向かい合わせで話しているのとはまた違って、すぐ近くに息遣いまで感じられるのはちょっと……。
「ええ、それは存じておりますが――レッスンは?」
『それがね、先生が急な用事で来られなくなって、自習になったんだよ。で、ついさっきまで弾き込んでたんだけど、ちょっとだけ疲れちゃってさ』
「それはお疲れ様でした。じゃあ、今は休憩時間ってわけですか」
『そゆこと。ごめんね、急にかけて。都合悪くなかった?』
「あぁいえ、全く。縁側で外眺めてただけなので」
『あははっ! おじいちゃんみたいな時間の使い方だ』
我ながら、まったく以てそう思う。
なんて贅沢な時間の使い方だろうか。
とは言っても、八月の中旬には終わる計算で割った今日の分の宿題は、朝の内にちゃんと片付けてしまったから、特段やることがないのだ。
絵を描こうかとも思ったけれど、今は進んで描きたいようなものもない。
スマホでゲームをする趣味もない。
祖父母の何か手伝いでもしようかとも思ったけれど、二人ともキッチン兼食事用の部屋からテレビを見ていて、今日は暇そうにしていた。
『そだ、昨日買ったグミ食べた?』
「今まさに噛み砕いてるところです。美味しいですね、これ」
『でしょ? ほらほら、私の言った通りだ』
「いやいや、桃味にハズレなんてないでしょ」
『分かんないよ? 中に変な味混ぜてるやつがあるかも』
「何とかビーンズじゃないんですから。それに、それならそれで表記がないと色々問題ですよ」
『あはは、それもそうだね』
彼女は明るく笑う。
電話越しでもこの笑い声が聞けるとは。
『ね。ちょっと疲れてお暇なんだけどさ。しばらく付き合ってくれない?』
「ええ、こうして付き合ってますが」
『ん? あ、うん、そうだね。うん、そっか』
「榎本さん?」
『あー……うん、ちょっとだけ疲れちゃったんだよね』
「聞きましたけど」
『あぅ……』
おっと、これは聞いたことのない声だ。
「本当にどうしたんですか? 何かありました?」
聞くと、彼女はしばらく何も返さなかった。
小さな息遣いは聞こえているから、通信の不良なんかではなさそうだ。
何度も聞くのはアレだろうかと、彼女の方から何か言ってくれるのを待つ。
『あー……っと、ね』
「はい」
『思うように弾けなくてさ。ちょっとだけ、自分に苛々してるの。ぶつけちゃったらごめんねって先に言っとくね』
「そんなの全然構いませんけど――そうですか。スランプみたいなことですか?」
『なのかなぁ。こんなの初めてなんだよね。いつもは、もっと伸び伸び弾けるんだけど』
僕はピアノを弾いたことがないから、その感覚がどのようなものかは想像も出来ない。
レッスンじゃなくて一人でいるからこそ寧ろ、雑念が出てきてしまっていたりするのだろうか。
両手と足を目まぐるしく回す楽器だ。少しでも何か違うことを考えてしまえば、途端にそこから瓦解していってしまうであろうことぐらいは分かるけれど。
「家の人は? 誰かと息抜きとか」
『お母さんは夜勤だから寝てて――っと、看護師さんなんだけどね。それに備えて、今は寝てるの。で、家主のおじいちゃんは、遠方から来たお友達と夜まで飲み会。だからひとりぼっちなんだよね』
「あらら、それはそれは」
『そうなんだよ。だから、ちょっと寂しくてさ』
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