透明色のカンバス

石田ノドカ

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第1章 『絵描きとクラシック』

16.雨の中、変なスタンプを添えて

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 雨の中出掛けるなんて、あまりないことだ。
 榎本さんにはああ言ったけれど、僕はあまり雨が好きな方ではない。
 湿気に肌がべたつく感覚は幾つになっても慣れないし、画材は駄目になるし、単純に濡れるのも嫌だ。
 夏らしからぬと思っていた肌寒さも、外に出てみればやはりじんわり暑く、仄かに汗までかき始めている。

 けれど――不思議なものだな。
 いや、単純なだけだろうか。

 彼女が前向きな発言をしていたことを受けてかは知らないけれど、この雨の中歩いていて、今はそう不快には感じない。
 好きになったのかと問われれば依然『嫌い』寄りではある。
 当然だ。趣味趣向、好き嫌いなんて、そう簡単に変わるものではない。
 それでも、少なくとも今だけは、この雨音を聞いていて、肌に触れる雨粒に目を落としていて、なぜだかこれ以上歩きたくないなんて思考にまでは陥らないでいる。

 彼女の言葉のせいなのだろうか。
 それは分からない。
 未だ会って間もない相手に対して、何か特別思うところがある訳でもない。

 ——と、思う。

 何なんだろうか、この感じは。
 初めて関わるタイプの人間だから、戸惑うことばかりだけれど。

 地面を踏みしめバシャッと鳴る水音。
 アスファルトや草花に叩きつける雨音。
 その上を滑ってゆくタイヤの音。

 ——存外、悪くない。
 今日は画材も手に持ってないしね。

 あちこち廃墟然としているかつての商店街が増えて来た、なんてテレビで見る機会も多い中、ここは随分と賑わっているな。
 いい意味でド田舎だからだろうか。
 この近隣に住む人たちからすれば、便利なことは間違いない。
 大きなモールだって出来たは出来たが、榎本さんも言っていた通り車で三十分の距離だ。ご老体には辛かろう。

 と、ポケットの中でスマホが震えた。
 短いその後ですぐに止まってしまったのは、電話ではなくメールかメッセージだろう。
 取り出して画面を確認する。

 そこには『新着メッセージ:榎本ユリ』と表示されていた。

 確か、今日はレッスンの無い日だ。またお暇になってしまったのだろうか。

『こんにちは。昨日ぶりだね。生憎の雨模様だけど、しょんぼりしょげてない?』

『どうしてです?』

『ズバリ、私に会えないから!』

『それ、自分で言ってて恥ずかしくないんですか?』

『うん、すっごく恥ずかしい。だから取り消すね』

 という返信の後で、画面上には件のメッセージに対し『送信取り消し』の文言が取って代わった。

『いや無理がありますって』

『じゃあ記憶が飛ぶよう神様にお願いする』

 と、可愛らしい羊が、ぬんぬんと何かの念波を送っているスタンプが貼られた。

『可愛いですけどなんて物騒な。余計なものまで消さないでくださいね』

『今あなたの雑念が一個消えました』

『神能力じゃないですか。もっと消してください』

『今あなたの睡眠欲が消えました』

『二十四時間労働反対』

『今あなたに未知の能力が加わりました』

『これいつまで続きます? というか未知の能力って!?』

『相良くんがもっとって言うから、つい』

 止めなきゃ無限に続くシステム怖い。
 ……あれ、相良くん?

『文字じゃ苗字なんですね?』

『漢字知らないなーって。ゆうき、ゆーき、ユーキ……ちょっと変じゃない?』

『確かに』

 平仮名だと子どもっぽいし、片仮名だと何かのグループのメンバーっぽくなってしまっている。
 伸ばし棒のゆーきくんはちょっと良い気もするけど。

『それで言うなら”ユリ”って楽で良いですね。予測変換何個目かに出ますし、手書きでも楽ですし』

『苗字の字画の多さと丁度いいバランスだよ』

『榎本……確かに、苗字の方はちょっとだけ手間ですね』

 手で書くには、ほんの少しだけ。
 それなら僕の漢字はどうなんだろうか。
 相良悠希。前も後ろもそこそこ面倒だ。

『っと、ごめんなさい。ちょっと暫く返信切れます』

『ごめんはこっちの台詞みたいだね。用事かな?』

『ええ。じいちゃんがぎっくり腰やってしまって、代わりにお遣いを』

『この雨の中? 大変だねぇ。気を付けて行ってきてね』

『ありがとうございます。それでは、また後で』

『はーい』

 短い言葉の後、大仏が手を振っているスタンプが貼られた。
 大仏……?

 手を振ってるなら、ばいばい……またね……さようなら……。

『あっ、さよう奈良・・! なんてしょうもない!』

『ほほう、これに気が付いたのは君が初めてだよ。なかなか頭がキレると見たね』

『そんなおもしろスタンプ、どこで買えるんですか』

『知り合いのイラストレーターが、昔ね』

 へぇ、絵描きの知り合いがいるんだ。

『って、ごめんごめん、つい反応しちゃった。楽しくなっちゃって』

『ああいえ、別にそれは。じゃあ、今度こそ』

『はーい。気を付けてね』

 そうして今度は、可愛い猫が手を振っているスタンプ。
 天丼してくれても良かったんだけどなぁ。

 僅かばかりの虚しさを覚えつつ、スマホをポケットにしまって前を向いた。
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