透明色のカンバス

石田ノドカ

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第2章 『その優しい音色ったら』

2.人影

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 暑い暑い、暑い昼下がり。
 全身に汗を滲ませながら、僕はペダルを回し続ける。

 そんな中でふと、ガラス窓の掲示板が目に入った。
 紙一枚、いっぱいいっぱいに大きな花火の映ったチラシだ。

「夏祭り……」

 この辺りの地域で催される夏祭りが、もう数日後に開催されるようだ。
 そういえば昔、両親に祖父母と共に行ったことがあるような――もしあれのことなら、かなりド派手で大きな祭りだったはずだ。

(一緒に行けたらいい――けど)

 誘って、いいものやら。
 関係値なんてまだまだ。夏祭りなんかに誘うのはちょっと気が引ける。
 いっそのこと誘われれば……いや、それはちょっとダサい。やっぱりこういうのは、男の方から誘うべきだ。

 …………何で、そんな考え方になるんだろう。
 何も考えないで良い気楽な相手、である筈なのに、男だとか女だとか。
 良いじゃないか、行きたいなら『一緒に行かない?』で。

 何が駄目なのだろう。
 何が、僕の心に待ったを掛けるのだろうか。

(なんで……)

 どうして――彼女の楽し気な顔が見たいって、そんなことを考えるのだろう。
 もう意味が分からない。なんで彼女のことばかり……。

「――あぁ、もうっ!」

 我ながら、ぐちゃぐちゃとしていて分からない腹の内。
 苛々するような、そうかと思えば顔が熱くなってきたような、意味の分からない感覚。
 声を出すことでそれを振り払って、僕はいっそう強くペダルを回し始めた。

 背の高い木々。
 広い田園。
 人が住んでいるのかもあやしい家屋。

 それらを横目に、ただただ真っ直ぐ。

「ん?」

 遠くの方に、路肩に車を停めて、小川の方を向いて座り込み項垂れている、一つの人影を見つけた。
 その人は僕の進行方向にいたため、ペダルを漕ぎ進めると、自然と距離も縮まっていって――

「あ――」

 見覚えのあるその横顔に、思わず声が零れてしまった。
 綺麗な茶色の髪。田舎には似つかわしくない洒落た格好。

 ――あの屋敷で見かけ、すれ違った、その人だった。

 近付く僕には目もくれないで、その女性はただただ小川の方に目を向けている。
 物憂げな顔をしながら、時に項垂れ、時にまた小川に目をやって、と落ち着かない様子だった。

 と、女性はふらふらと頭を揺らし始めた。
 眠たい人間が、今正に寝落ちしてしまいそうな揺れ方で――違う。

「危ない…!」

 蹴とばすようにして自転車から降りると、僕は一目散にそちらへ駆け寄った。
 倒れた身体を、少し気が引けながらも抱き起した。

 路肩に生えていた草花がクッションになってくれたようで、倒れた頭部に外傷はない。
 ノースリーブの腕は微かに擦り剝いているものの、大した出血は無かった。

 しっとりと汗の滲んだ肌。洗い息遣い。
 熱中症のような症状だ。

「えっと、あの…! だ、大丈夫ですか……?」

 声を掛けると、女性は細く目を開けた。
 気は失っていないらしい。

「え……? あ、あぁ……ごめんなさい、迷惑をかけたわね」

 低く、緊張感のある声だった。

「汗だくで汚いわ。離していいわよ」

「身体、起こしたままでいられますか?」

「ちょっとしんどいけれど……まあ、何とか」

 そう言って女性は、僕の手から離れると、背筋を伸ばして座り直した。
 それでもやっぱり不安定は不安定。ふらふらと頼りない身体は、停めた車体へと預ける形で落ち着いた。

「あっつ……」

 今日のこの外気だ。
 車体も、オーバーヒートしそうな程の熱さだったことだろう。女性は、慌てて身体を離した。

「車の中なら、エアコン点くんじゃないんですか?」

「故障していなければね。おんぼろだから、バッテリーが上がっちゃったのかも。止まっちゃったのよ。おまけにパンク二本。とんだ厄日だわ」

「そ、それはそれは……」

 なら、釜茹でになってしまう車内より、暑くとも外気の吹き抜ける外の方がまだ良いか。

「では、今は――」

「ええ。ロードサービスを待っているところよ。まったく、仕事も遅刻じゃない」

 出勤途中の不運だなんて、確かに厄日もいいところだ。

「身体、大丈夫ですか?」

「頭がちょっとぼーっとするから、飲み物――は、無いわね。職場で買うつもりだったのよ」

「な、なるほど。ちょっと待ってください」

 背中のバッグを漁る。
 しかしそこには、いつも持ち歩いている水筒が入っていない。
 慌てて出発したせいで、忘れてきてしまったらしい。

「……ロードサービス、どのくらいで来ます?」

「すぐ近くにはいないらしくて、一時間ちょっとはかかるって。電話をしたのが二十分くらい前だったと思うから、今からでも一時間くらいは来ないわね」

「一時間……」

 図書館はまだ先。その図書館へと辿り着くまでの間に自販機は無かった。
 ――戻るか。

「すみません、お姉さん。楽な姿勢で待っててください。すぐに戻ります」

「え……? あ、いや、君――」

 何かを言われるより早く、僕は倒した自転車に跨り直すと、来た時より速くペダルを漕ぎ始めた。

 せっかく彼女に会えるものだとワクワクして出掛けたのにな。
 でも、まあいいか。明後日、じゃない、土日明けには会えるんだから。
 絵さえ潰れていなければ、それで良い。人命優先だ。
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