透明色のカンバス

石田ノドカ

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第2章 『その優しい音色ったら』

4.言っちゃったね

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 程なくして、雨は無事止んだ。
 女性の方は、ロードサービスのことでまだまだ時間はかかるらしく、その場でさようならと分かれた。
 濡れた自転車に濡れた身体で跨って、僕はゆっくりとペダルを回す。
 家を出た時には、図書館へ行くことがあんなに楽しみだったのに。

 その図書館が見えて来た辺りから、心は更に沈み始めた。
 せっかく描き上げた渾身の一枚を思って、足が更に遅くなる。
 今からでも、用事があってとか何とかメッセージを送って、帰ろうか。
 そう思いかける程、気分はよくなかった。

 でも、

「あっ……」

 遠目に、二階の窓からこちらに目を向けている彼女と、視線が合ったことに気が付いた。
 思わず足を止めると、彼女は心配そうな面持ちで身を翻した。
 少ししたら、一階正面玄関から顔を覗かせた。

 大きな一枚のタオルを広げて、はやくはやく、と僕のことを手招く。
 少し力を籠めて、何とかそちらへと漕ぎ進める。
 すると彼女は、僕の頭にタオルを乗せると、優しく撫でるように水分を拭き取り始めた。

「朝は晴れてたのにね」

「途中で、ちょっと色々ありまして」

「トラブル?」

「……まあ、そんな感じの」

 人命救助なんて大それたものでもなし、かと言って何もしなかった訳でもなし。

「無理して来なくても良かったのに」

「家を出た時には降ってなかったんですよ」

「あらら、途中から降られちゃったんだ」

「ええ。だから。引き返すにも引き返せなくて。なら行った方が良いやって」

 事実半分、嘘半分。
 いっそ帰りたいと思っていたことは、秘密だ。

「――何か、あった?」

 そんな意味合いを孕んだ声音だったのか、表情を読まれたのか。
 榎本さんは、優しく聞き出すように尋ねてきた。
 堪えよう、誤魔化そう、そう思っていた気持ちは、

「……ごめんなさい」

 声となって、口から溢れてしまった。

「ごめん、って、え、何が?」

「描いたんです。描けたんです。今一番だって言えるやつ。でも、さっきの雨に濡れて……どんな状態になっちゃったかは怖くてまだ見てないですけど、水彩画だから、多分ぐちゃぐちゃになって……だから、見せられません。見せられるものが、なくなってしまいました」

 そういうと彼女は、僕の頭にタオルを乗せたままで手を離した。
 代わりに、その離した手は僕の手を握って、弱く優しく、けれども確かに、奥へ行こうと誘うように進み始める。

「おじさん、この子乾かすのに休憩所使ってもいい?」

「誰もおらんけぇ、好きにしんさい」

 受け付けのおじさんの声は優しかった。

「ありがとう。後でちゃんと掃除もするからね」

 短く礼を言うと、僕には「行くよ」とか声は掛けないままで、握った手を引き進み続けた。
 そうして入った休憩スペースで、一番手前に設けてあった椅子へと僕を座らせると、

「見せて」

 榎本さんは、確かにそう言った。
 とにかくも優しく、とにかくも温かい声だった。

 そう。彼女はそういう人だ。たった数日しか会っていないけれど、それはよくよく分かった。
 だからこそ、見せたくなかった。だからこそ、隠して誤魔化して、そのまま持って帰ろうと思ったのだ。
 彼女には、ちゃんと完成した、ちゃんとした絵しか見せたくない。見て欲しくない。
 そう、思ったのに……。

「……ぐちゃぐちゃですよ」

「ぐちゃぐちゃじゃないよ」

 彼女は、間髪入れずきっぱりと言う。
 中身はきっとぐちゃぐちゃだ。背中に圧し掛かるこの水の重さが、何より雄弁に物語っている。傍から見てもそれは明らかだろう。
 それなのにだ。

「ぐちゃぐちゃじゃないよ、絶対に。だから、見せて欲しいな」

 さっきのたったの一言より、更にいくらも優しい声で。
 僕はもう、何も返せなくなってしまった。
 彼女のその態度に感動したこともそうだけれど、何より、ぐちゃぐちゃになったものを彼女の前に開けることが嫌で。

 嫌なのに――僕は、背中のリュックをおろし、膝の上へと置いた。
 そうしてジッパーを開けて、水の滴るスケブを引き出した。

「ほら、やっぱり――」

 その惨状を見、それでも尚食い下がる僕に、

「貸して」

 彼女はふわりと優しく微笑んで、重ねてそう言うのだった。

「…………ん」

 最後の最後まで悩んだ末、僕はノートを彼女の方へと差し出した。
 ぴちゃ、と水音が響く。

 彼女の手が、袖口が、膝が、ノートから滴り落ちる雫によって濡れてゆく。
 しかし彼女は、せっかく着飾った綺麗な白のロングスカートが濡れてゆくことには一切の躊躇いも見せずに、ページを捲っていった。
 膝の上に置いて開いて、一枚、また一枚と捲ってゆく。

 とうとう見つけた最後のページにそれはあって。
 せっかく落とした色も線も滲んだ、酷く醜いぐちゃぐちゃが、その上には広がっていた。

 すると彼女は、何を思ったのか――滲んだ絵具の上に、そのしなやかな指を添えると、ゆっくり、ゆっくりとなぞり始めた。
 指先に、淡い青色が付いた。緑色が付いた。黄色が付いた。
 それでも彼女は、全体を確かめるように、そこから何かを読み取ろうとするように、指先から手のひらへと触れる面をかえて、その一枚全体をなぞった。

「綺麗だね」

 ふと、彼女が小さく零した。
 視線を上げる。彼女目は未だ、その紙の上へと落とされたままだ。

「そ、んなわけ――!」

「綺麗だよ、これ。とっても素敵」

「……なんで」

 思わず零れた言葉。
 彼女は依然、視線は落としたままで口を開いた。

「ね。これ、どこを描いたの?」

「……広縁から見た外。この間電話した時に、綺麗だなって思って。別の日には雨宿りしてるカエルも見つけたから、面白いかなって」

「ああ、それでこの子、葉っぱの下でまったりしてるんだね」

 榎本さんは、それを目敏く見つけていたらしい。
 隠すようにして配置していたのに。
 いやそもそも、そんなものすらこの紙面上には見て取れないくらい、ぐちゃぐちゃになってしまっているのに。

 本当に感じ取った……?
 あるいは僕の言葉に合わせた……?

「昨日描いたの?」

「はい」

「どれくらいかかった?」

「昼過ぎから初めて――六時は回ってたと思います」

「前に見せてくれた廃線のと同じ心地だった?」

「……いえ。凄く集中出来て、楽しく描けました」

 答えると、榎本さんは「そっか」と小さく零した。
 そうしてまた、全体的に優しくなぞって、

「やっぱり好きだなぁ、君の絵」

 明るく優しく、はっきりとそう括った。
 
 絵、だなんて――こんなの、絵なんて到底呼べないものなのに。
 敢えて抽象的に描くタイプの絵画とも違う。はっきりと、そこに在るモノを描いた作品なのに。

 彼女はこれを、絵だと言う。
 絵だとした上で、好きだと言う。

 理由なんて分からないけれど、目頭が熱くなってきた。
 熱くなってきた感覚のままに、気が付けば何かが頬を伝った。
 違う。これはきっと、髪から垂れて来た雨水か汗で……。

「よか、った……よかった、持って来て……」

 声が掠れているのも、きっと往復したせいで疲れたからで……。
 視界がかすむのは――どうしてだろう。

「――ね。これ、どんなこと考えて描いたの?」

「え、と……どうでしょう。もう、全然覚えてません。とにかく集中してたので」

 これを描いていた時、描き進めている時のことなんて、何一つも思い出せない。

「でも――」

 ちょっと待てよ――そう思った時には、遅かった。

「榎本さんに、見てもらいたかったような……」

 口を突いたその後で、ハッとして顔を上げた。

「あっ、や、その――! ち、違くて…!」

「違うの?」

「ち――! がわ、ないです……」

 真っ直ぐ向けられる、影のないまんまるの目。
 それに見つめられたら、適当なことを繕うことさえ出来なかった。

「私に、見て欲しかったの?」

「…………はい。金魚の絵の時のように……笑って……好きだって、言って欲しくて……」

 最後の方は、小さく弱くなってしまったけれど。
 彼女はそれを最後まで耳にしたようで。

「じゃあ、良かった。言っちゃったね」

 狙っていない、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 そうして僕の頭に乗っけてあったタオルを取り上げた。

「こっちおいで。頭、拭いてあげる」

「え――い、いや、そんなこと――!」

「はいはい、おいでおいでー」

 今度はわざとらしくニヤニヤと笑いながら、僕のことを手招くのだった。

「ほらほら、お姉さんの出血大サービスだぞー、今だけだぞー」

 にひひ、と笑う彼女の明るさに惹かれ――もとい、誘われ――あれ、これ結局は全部同じだな。
 ともあれ導かれるまま、僕は彼女の傍らへと椅子を引いた。

「わざわざ雨の中、ありがとね。見れて良かったよ」

「今度は、もっとちゃんとしたのを持って来ます」

「うん、期待してる! 元がこれより凄いっていうなら、絶対見たいもん!」

「……はい」

 どうしてこの人は、そんなことを当たり前のように言えてしまうのだろう。
 どこかに、ほんの僅かにでも、気を遣ったような息遣いや声の調子が顕れても、おかしくないのに。

 彼女の声は、表情は、言葉は、どれもとにかく真っ直ぐだ。
 真っ直ぐ過ぎて、眩しくて、正面から見つめ続けることが出来ない。
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