透明色のカンバス

石田ノドカ

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第2章 『その優しい音色ったら』

10.誰でも、簡単に

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「射的、ヨーヨー釣り、輪投げ……うーん」

 焼きそばにリンゴ飴、狐のお面をお揃いで買った後で辺りを散策している最中、榎本さんがそこかしこに目を向けながらぶつぶつと唸り始めた。

「何を悩んでるんです?」

「ん? ああ、私でも出来ることは何かなーって。これがあっても大丈夫そうなの考えてた」

 トントンと車椅子と叩きながら言う。
 すっかり失念していた。当たり前のようにどこかへ寄ろうかと思っていたところだ。
 言われてみれば確かに、出来ることと出来ないことは当然ある。
 金魚すくい、並びにスーパーボールすくいは難しい。身を屈めて水面に接近しなければならない加減から、彼女にとってはあまり楽しめないことだろう。

 でも――あれ、そんなところ?

 射的は多少距離が離れるだけでやること自体に問題はないだろうし、ヨーヨー釣りも糸を垂らす加減からまぁ大丈夫。輪投げは言わずもがな。くじ引きや千本釣りなんてものも同じ、立っていようが座っていようが、だ。
 金魚は正直なところ釣ったところで持て余してしまうだろうし、スーパーボールに関しても『楽しむ』ということ自体が主目的でさえある。
 ――うん。存外、楽しめる屋台も多いらしい。

「よし決めた、ヨーヨー行こう。やってみたかったんだよね」

「良いですね。どっちが多く、は難しいかもしれないので、どっちがはやく釣れるかで勝負しましょう」

「受けて立とう! 敗者は勝者にあーんする罰ゲームでどうだ」

「え――いやいや、それ罰ゲームじゃなくて――!」

「はい決まり! ほら舵きって! お姉さーん!」

 件の屋台の番をしているお姉さんの方へと、ぶんぶん手を振る榎本さん。
 だからそれを運ぶのは僕であって――もう。どこが一つ年上なんだか、まったく。

「いらっしゃ――お? ユリちゃんじゃない。いらっしゃい」

 彼女の姿を正しく認識したところで、お姉さん、もといおばちゃんは目を丸くした。

「寺田さんとこのお母さん? へえ、屋台やってたんですね」

 知り合いの年上相手には敬語、なんだ。

「ほんとは旦那の仕事だったんだけどね。ぎっくり拗らせて寝てんのよ」

 うわ、ここでもぎっくり腰に悩まされている人とその身内が……それは不運なことだ。
 じいちゃんを観察していた限りでも、生活にはかなり支障が出ていた。無理をして屋台番、というのは当然不可能だったことだろう。

「あらら、お疲れ様ですね」

「まあ、たまにはこういう空気も良いよね。老若男女問わず、ガヤガヤと楽しそうにしてんの見るのは面白いものだよ」

 行き交う人々へと目を向けながら、呟くように言う。

「ところでユリちゃん、ヨーヨーやりに来たんでしょ? お兄さんも?」

「はい、二人分で!」

 元気に返しつながら、榎本さんはさっさとお金をおばちゃんの方へと突き出した。
 これは――ひょっとしなくても、たこ焼きのやり返しだな。

「ふふん」

 振り返って鼻を鳴らして、この上ない程のしたり顔。
 それこそせっかくのお祭りなんだ。奢る奢られるなんて、別にそう気にしなくても良いのに。

「ん、確かに。ほい、これね」

 代金を受け取った流れで差し出された、先端に釣り針のついたこよりを受け取る。
 おお、これはまた、らしい釣り道具だ。

「持つのはこよりの先っぽ。短く持つのは無し。制限時間も特に無し。切れたら終わりね。釣れるものなら何個でも持って帰って良し」

「了解! だって、悠希くん。何個釣れるか勝負に変える?」

「釣れるものなら、ね」

 せっかくの雰囲気に水を差すようで気は引けるけれど、敢えてそう言うからには、耐久性はそう高くないんだろう。見た目通りと考えた方が良い。

「よっ、と。じゃあいくよ。よーい――」

 車椅子、もとい体勢を整えた榎本さんの掛け声を皮切りに、

「どん!」

 僕らは一斉に、手近に見つけた水風船のゴム目掛けて手を伸ばした。
 乾燥しているこよりは正直な方へは向かない。まずはほんのちょっとだけ水に浸けて柔らかくして、思う通りに動くよう整えてやるのがいい。
 ――らしい。昨夜、じいちゃんが言っていた。
 本当かどうかは知らない。

「――っと、一個」

 やり始めより幾らもやり易くなったのは、意外にも本当だった。あっという間に一つ釣り上げられた。

「ふんっ! ――っと、私も一個!」

 しかし別段、そんなことは関係なかったようで。
 狙いすました一撃で、こちらも見事に仕留める榎本さん。
 結局は腕。腕なのだ。

「どっちが早かったですか!」

 彼女が委ねるのは屋台のお姉さん。
 うーん、と唸った後、下されたのは『同着』の判定。

「むむぅ……よしっ、何個釣れるか勝負にしよう!」

 堂々たる再戦宣言をしながら、榎本さんは釣ったヨーヨーを車椅子のハンドルに掛ける。

「すっごい負けず嫌いだ。勝ちくらい譲りますよ」

「やだ、ちゃんと負かしてあーんして貰いたい!」

 などということを真面目かつ険しい顔で言うものだから、おばちゃんが吹き出してしまった。

「あはは、何それ、罰ゲーム?」

「ですです。負けた方が勝った方に、このたこ焼きをあーんする罰ゲーム」

「うわー、青春してるわぁ。でもそれ、罰ゲームじゃなくて――」

「よーいどん!」

「ちょっ…!」

 おばちゃんの言葉にわざと被せて、続く二投目を放つ。
 と、気合いが入り過ぎたのか勢い余って、隣で同じくこよりを垂らしていた男性のお客さんにぶつかり、そのこよりをビニールプールの中へと落としてしまった。
 幾つか年上らしい男性の鋭い視線が、榎本さんを捉えた。

「あっ――っと、ごめんなさい…! 代わりを――!」

 慌てて頭を下げて、巾着から財布を取り出す。
 内心かなり焦っているのか指先は覚束なくて、取り出した硬貨までプールの中へと一つ二つ落ちて行った。

「あ、っと……」

 珍しく取り乱す榎本さん。
 その彼女の方へ、更に鋭い視線が向けられた。

「ちょっと邪魔やないか、あんた?」

 低い声に、榎本さんの手が止まる。

「申し訳ございま――」

「何でこない狭いところに車椅子で来とんねんな。ちっとは周り見んかい」

 苛々としているのは、声音と表情から嫌という程伝わって来た。
 確かに邪魔をしたのは彼女の方だけれど、それは身体が当たってしまったことであって、車椅子で来ていることそれ自体は関係ない話だ。
 そう言ってやりたい気持ちさえ、削がれる程の圧。
 
 ……いや違う。
 僕が、臆病なだけだ。

「代わりのお金、出しますから、えっと――」

 そう言ってまた財布の中を漁るけれど、やはり冷静ではいられないらしく、手先は硬貨を掴めないでいた。

「何やな? さっきまでえらい楽しそうにしとった癖に、舌も手ぇも回らんなっとるやんけ。邪魔や言われたん図星かいな?」

 いやらしく投げられる言葉に、彼女の手が止まる。
 流石に――そう思った矢先、彼女の方が笑い出した。

「あー、はは……ごめんなさい、やっぱ邪魔ですよねー、車椅子。ちょっと待ってください、すぐにどきますね」

 プールに落としたお金には目もくれないで、榎本さんはタイヤを回し始めた。
 それを男性は何でもないような目で見つめながら、わざとらしく深い溜め息を吐いた。

「大体何やねんな、車椅子なんかこないなとこ入るもんやあらへんやろ。邪魔んなることぐらい分かるやんけ」

 吐き捨てるように、わざと聞こえるように。
 もういい加減、聞いていられなかった。臆病でも怖くても、いつまでも我慢なんてしていられない。

「あの――」

「いい、大丈夫」

 立ち上がった僕の腕を、榎本さんが掴んだ。
 瞬間、冷静になれそうだったけれど、強く握られた腕から伝わる震えは、収まりかけていた昂りを冗長させた。

「何や、文句でもあるんか?」

 僕を見上げるのは、とても平気そうな顔だ。
 それが何より気に食わなかった。

「文句なら、あります」

「悠希くん、私なら大丈夫だから――」

 更に力を籠める彼女の手を、無理矢理に振り解く。
 そうして一歩、震えていそうでもある足を前へ出した。

「良いじゃないですか、誰が来て、誰が楽しんだって。そういうものでしょう、お祭りなんですから」

「は? 邪魔なもんは邪魔やろ。歩けへんのやったら大人ししとったらええねん」

「行きたいから行く、それで良いじゃないですか。何が悪いって言うんですか」

「せやから邪魔や言うてるやろ。普通の人間の足や身体がぶつかるんとは訳がちゃうねん」

「不注意のないよう気を付けています。それに、当たったのだって腕と腕じゃないですか。車椅子がどうのなんて関係ありますか」

「――何やねんあんた、うっさいなぁ」

 ふらりと立ち上がる男性。
 身の丈は僕より頭一つ以上大きい。
 気圧され、聊かの後悔さえ募りながらも、僕は引き下がろうとはしない。
 怖いってだけで引いたら、このふざけた主張にも折れたことになってしまう。

「あんなぁ――」

「そこまでにしな、滝本たきもと。いい加減にしなさい」

 一歩、大きく踏み出した男性を制したのは、屋台番のおばちゃんだった。
 肩を掴み、その身体を止めている。

「ぶつかられてイラッとくるのは分かる。けど、この子の言うことの方が正しいわ。お祭りなんて、誰が来たって良いじゃない。建て替えてくれるって言ってもくれてるんだし、それで良いじゃない」

「そ、そうだよ、やめなって……」

 おばちゃんに同調するのは、男性の奥に座っていた若い女性。
 二人で話しているのを見た。連れっぽい人だ。

「何やねんおばちゃん。それに美也子みやこもや。ちょっとなぁ言っとったんお前やろが」

「あ、や、それは……」

 ハッキリ言われた女性は、バツが悪そうに口を噤む。
 一瞬善くも見えたけれど、結局のところ、見えないところではそういう態度を取っているんだ。

「ごめんね、お兄さん、ユリちゃんも。ちょっと離れときな、私に任せて」

 努めて冷静になだめてくれるおばちゃんに、苛々は消えないながらも、僅かばかりの理性は戻った。

「――はい」

 僕だって、食い下がって騒ぎ立てるような馬鹿にはなりたくない。
 離れて聞こえないようにして、いつしか忘れられたらそれが一番いい。
 この気持ち悪い程の苛々は何とか飲み下して、冷静にならないと。

 冷静に。冷静に。

 言い聞かせるように深呼吸をしてから、僕は榎本さんの方へと身体を向けた。

「……すみません。行きましょう」

「――ん、ごめんね」

 彼女が謝ることなんて、何もないのに。
 確かに手が当たってしまったことは過ちだっただろうけれど、間髪入れず謝罪した挙句に新しいものと建て替えると言っている相手に、わざわざ必要のない絡みをされたのだ。

 納得なんて出来ない。
 出来ないけれど、感情のままに突っかかっていては駄目だ。
 早くこの場から離れてしまえば、それで済む話だ。
 ハンドルに手を掛け、僕はさっさと足早に歩き始める。

 冷静に。冷静に。

「――きっしょいな、はよ帰れ」

 冷静に、冷静に……。
 ……冷静になんて。

 出来る筈がない。

「ダメっ、悠希く――!」

 彼女の静止が耳に届く頃には既に、僕はその人の胸ぐらを強く掴んでいた。

「誰だってなる可能性のあることでしょう…! 歩けないことがなんですか、車椅子が何だって言うんですかッ…!」

「おま――!」

「誰だって簡単になるんです…! ほんとに簡単にです…! ちょっとこけただけでなることだってあるんです…! 僕だって、あなただって…! ここにいる誰だって、ちょっとしたことでなってしまうんですよ…! 誰も好きでなるんじゃない…! 口にする必要のないことばかりだって、分かるでしょう…! いい歳してそんなことも分からないんですか…!」

 冷静に。冷静に。

 頭の中では、そう何度も繰り返されているのに。
 自分でそう思っていながら、それが頭に、心に溶けていかない。
 一度吐き出した苛々は、思い込もうとするだけでは収まりがつかなかった。

「あなただって今日この帰りに事故にでも遭えば、簡単に同じ身体になる…! もっと酷くなることだってあるかもしれない…! なのに何で…! 何でそんなことを平気で言えるんですか…!」

 話しながらも、我ながら馬鹿だと思った。
 こんな感情的にぶつかったって、何が良くなる訳でもないのに。

「謝ってください、彼女に…! 今すぐ謝ってください…!」

「こんの――!」

 強く硬く握られた拳が振り上げられた。
 それの意味するところを本能で分かって尚、僕は手を離さない。

「謝れ、謝れよ…!」

「うっさいわッ…‼」

 握った拳が振り下ろされる。
 それは僕の頬を捉えて――掠る程度に留まったのは、後ろから、連れの女性が彼の身体を思い切り引いたからだった。
 引き寄せる力は彼の意識の外側から加えられた。咄嗟に反応、抵抗出来なかったその身体は、バランスを崩し、胸ぐらを離さないでいた僕諸共、ビニールプールの中へと倒れ込んでしまった。

 何が起きたのか、すぐには分からない事態が起こったことで、頭は却って冷静になった。
 慌てて身を起こし、彼から距離を取る。
 尚も起き上がっていきり立つ彼のことを、連れの女性がもう一度宥め、その暇におばちゃんが間に立った。

「はやく行きなさい、二人とも」

「何すんねん美也子、おばちゃん…!」

「うっさい! あんたはもう喋んな。美也子共々説教や。もっかい追っかけたら川に沈めるさかいな」

「ッ……!」

 彼とおばちゃん、そして女性がどういった関係なのかは分からないけれど、言葉一つでその行動を制してくれたことには、制することが出来る間柄であったことには、感謝しかない。
 もしそうでなかったなら、僕は今頃、確実に意識を手放していたことだろう。

「堪忍な、ユリちゃん。おにいさん」

「……いえ。すみません、お騒がせしました」

 気が付けば、周囲にあった幾つもの目も、こちらを捉えていた。
 益々以て居辛くなってしまった。そんな空気にしてしまった。
 僕の過ちだ。余計なことをした。

「あ、はは……一旦、帰ろっか」

「……はい」

 僕は力のない声で返して、ハンドルに手を掛けて足早にその場から離れた。
 尚も響く喧しい声と、それを諫めるおばちゃんの声を、聞こえないように、聞かないように。
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