臨命終時・沈没

かお

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臨命終時

結章

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私の名前は松下正三。
今年65歳になり、定年を迎え、本日をもって長年勤めた会社を退職したばかりの老いぼれである。
15年前に今の妻である梅と結婚し、今日まで頑張って辛い仕事を乗り越えてきた。
私も妻も高齢の結婚だったので当然子どもはいなかったが、その分お互いに一緒に過ごす時間を作ることができた。
その為結婚して約15年、夫婦喧嘩はした事がなく、近所からは「仲睦まじい老夫婦」と言われているのは私の密かな自慢だ。
65になるまで私には仕事があったので平日はお互い顔を合わせる時間は殆ど無かったが、休日は近所の喫茶店で夕方までお互いの他愛もない話で盛り上がったりしたものだ。
「本当はもっと時間を作って夫婦の時間も作りたかった。」
しかし、仕事を退職した事でこれからは毎日夫婦の時間を作ることができる。
今日と言う日をこれまで何度も夢見てきた。
それが遂に現実となる。
「これから何をしようか。旅行にも行きたいねぇ。」
「正三さんたら仕事を辞めた途端、活き活きして若返ったみたいですねぇ。」
「そりゃあそうですよ。もう65だからいつ棺桶に入ってもおかしくない。元気なうちにようやく得た自由を謳歌しないと。」
思えば大人になってから仕事ばかりの人生だった。
だが、これから私は自分の好きな様に生き、悔いの無い人生を送るのだ。
「時間もできたし、早速来週にでも旅行に行かないかい?」
「いいですねぇ。温泉にでも行きますか?」
「温泉といえば前から行きたかったところがあるんだよ。」


※※※


1週間後、私は妻と群馬県にある有馬温泉へと向かった。
「どうして有馬温泉なんですか?」
「うん?」
「数ある温泉の中で有馬温泉にこだわりがあったようでしたから。」
「社会人時代休み無く働いてまともに遊ぶ時間が取れなかったからね。ここの温泉は健康増進をしてくれるらしいから。これからも健康に過ごす為にここにしたんだ。」
「本当によく調べたんですねぇ。」
「今の私は楽しく日々を生きる事しか考えてないからねぇ。」


※※※


車を走らせて早数時間、今日は火曜日で平日ということもあり、渋滞に巻き込まれずにスムーズに現地に到着した。
「さあ、着きましたよ。まずはチェックインしよう。」
私はいつの間にか助手席で眠ってしまった妻を起こす。

「ごめんなさい!いつの間にか寝てました。」
「構わないよ。それより降りて荷物をホテルに運びましょう。」

※※※

ホテルに入り、すぐ目の前がフロントである。30代位の若い男性が対応してくれる。

「本日は当ホテルをご利用頂き、ありがとうございます。荷物は先に係のものが部屋まで運びますのでチェックインをお願いいたします。」
「ああ。よろしく頼むよ。」
そう言って私と妻は男性の隣にいた女性の方に荷物を預けた。


※※※


チェックインを済ませて私達はホテルの部屋へと向かう。渡された鍵には712と書いてあるのでエレベーターで7階へ行き、部屋へと向かう。


※※※


部屋につき、鍵を使って中へ入る。

部屋の中はシャワールームやトイレ、ベッドなどが最低限揃っているだけの質素な感じだが、7階ということもあり、外の景色の見晴らしは良い。
私達は奥にある椅子に腰掛ける。
「来る前は着いたらすぐに温泉へ向かおうと思っていたんだけど。」
「まあまあ、3時間も運転したら疲れますよ。」
久しぶりの運転という事もあり、自分の思った以上に疲れてしまったようだ。若い時にそれ以上の距離を運転した事はあるが、そこまで疲れた記憶はない。歳はとりたくないもんだな。

※※※

それから何と2時間も経ってしまった。
気づけば2人して眠っていたようだ。
偶然にも2人同時に起き、時計を見ると16時過ぎである。
「せっかくですし温泉に向かいますか。」
「そうですね。楽しまないと勿体無いです。」
そうして私達はホテルを出た。

ホテルを出た私達は車で温泉へと向かう。
場所はホテルから20分程の場所にある。
ホテルで寝た事もあり、行きよりも運転が楽に感じる。
「......とはいえ、一面雪景色なのは新鮮というか、危なかっしいというか。」
一応、車のタイヤはスリップしないように変えてきているとはいえ、少し運転が怖い。
「まあ、気にし過ぎか。」

※※※

そんな事を考えているうちに温泉に辿り着いた。
「では温泉を楽しみましょう。」

わざわざ冬を選んで来たかいあって温泉は外気の寒さとお湯の熱さがちょうど良く感じられた。
また露天風呂ということもあり、何とも言えない開放感に満ち溢れる感覚である。
一気に今までの疲れが吹き飛ぶような一時である。

気づけば風呂に入って1時間半も経っていた。
「充分満喫できたし、そろそろ出るか。」
もしかしたら妻は先に出て私を待っているかもしれない。湯冷めさせて風邪引かせるのは申し訳ないと思い、急いで着替える。
※※※
出てみると近くの休憩スペースに妻はいた。

「申し訳ない。結構待ちましたか?」
「いえ、ワタシも今出たところですから。」
聞くと、妻も私とほんの数分の差で出てきたらしい。
「普段ははや風呂なのに温泉だと長い時間入りたいと思うのは不思議よね。」
そんな他愛もない会話を二人で楽しんだ後にそのまま暫し観光を楽しむ事にする。
最も観て回るのは主にお土産屋だったり、買い物が殆どである。
流石に年齢もあって色々な場所を観て回る程の体力は無いので無理のない程度に楽しむ事にしたのだ。


※※※


「思ったよりも買いましたね。」
気づけば二人とも買い物で主に地域限定物の商品ばかりを買っていた。
「二人で消費し切れればいいですけどね。」
買うときは何も考えずに買って楽しむのだが、買った後に素に戻ると買いすぎた事を二人で後悔するのは旅行あるあるな気がする。
大量の荷物を車内後ろにぎっしりと乗せ、ホテルへと戻る。
今日、大量に買い込んだので明日は観光に丸一日使えそうである。


※※※


ホテルへ戻ってからが大変だった。
お土産の中にはナマモノもあり、ホテルの部屋にある冷蔵庫に入れるため、二人して荷物を沢山抱えて部屋へと向かう。
そこからは二人とも疲れがどっと出たせいでぐったりだった。
まだ夜7時頃ではあったがこの日はそのまま寝て終わってしまった。


※※※


2日目はホテルをチェックアウトして地元の名物料理巡りや観光の続きをする。
今日の夜には我が家に向かうことになるので悔いのないように隅々まで回る。


※※※


結局、観光はするにはしたが、お互い年齢の為、機敏には動けない。
2つ、3つの場所を周ればあっという間に夕方である。若ければもう少し居ても良かったかもしれないがこれ以上は運転もあるし、正直キツイ。
(車じゃなくて新幹線で来た方が良かったかもしれない......)
「ちょっと休憩しますね。」
「ええ、その方がいいでしょうね。ゆっくり帰りましょう。」
帰りの車では私も疲れているので途中何度もパーキングエリア等で休息を取る。
事故だけは起こしたくないのでこの帰り方が最善であろう。


※※※


「ふぅ。ようやく家についた。」
時計を見ると夜22時である。
夕方には有馬を出たので実に6時間近くの運転である。(最も、その内2時間程度はパーキングエリア等である為そこまで長い運転ではないのだが......)
まあ、近年では高齢者ドライバーによる凄惨な交通事故がニュースで話題になるから慎重にトロトロ運転する位が丁度良いだろう。
私は隣でウトウトしている妻を揺さぶり、車を降りようとした。その時、私の鳩尾に鈍い痛みが走る。
「ぐぅ!ぅぅぅ......」
私はあまりの痛みに車の中で蹲り、動けなくなってしまった。
「大丈夫ですか!どうしました!」
助手席にいた妻は寝起きにも関わらず、私の様子を見て一瞬で目が見開いていた。



それからの事はあまり覚えていない。
気づけば私は救急車で運ばれていた。
そしてそのまま病院にかつぎ込まれた。
最も、それも私自身うっすら記憶にある程度である。夢なのか現実なのかと問われるとはっきりはこたえられないだろう。

※※※

どれ位の時間が経ったのだろうか。
私は病院のベッドの上で色々な管に繋がれている状態であった。
私が目を開けると妻と目が合った。
妻は驚いて病室を飛び出して行く。
どうやら医者を呼びに行ったらしい。
「山下さん、あなたは初期の胃癌でした。」
「胃癌ですか?」
「倒れる直前に腹痛に襲われませんでしたか。それは胃癌の症状の1つなんですよ。」
「確かに車から降りようとした時、横腹の痛みで動けなくなったような......」
胃癌と言う思わぬ病気の発見であったが、私にとって衝撃的だったのはこの後であった。
「初期とはいえ、胃癌ですから手術であなたの胃を一部切り取っています。後、もしかしたら癌が再発するかもしれないので今後は定期的に診察をお願いします。」
まあ、胃癌と聞いていたので確かに胃を切り取るのは理解したけど問題はその後である。
「定期的に検診ですかぁ~。」
正直、私は昔からあまり病院が好きではない。独特の薬品の臭いを嗅ぐだけで気が滅入る。

しかも、胃を切った事で医者からは食事にも制限をかけられ、手術で体力まで大幅に落ちてしまった。
「楽しい旅行のはずがまさかこんな事になるなんて。」
今まで一生懸命働いてきたのに神はあまりにも残酷すぎやしないか?

「まあまあ、命が助かっただけ良かったですよ。急にあなたが倒れた時は生きた心地がしませんでしたよ。」
妻がそう私に呟く。せっかくの楽しい旅行だったのに彼女には悪い事をしたと思う。

「お医者様の話だと退院しても身体に不自由さが残るみたいですが、ワタシもサポートしますからこれからはもっと身体を労りましょうね。」
「......苦労をかけますが宜しくお願いします。」
こうして私は再び制限された生活を送る事になった。

それから数日が経過した。
年齢と手術の影響で私は未だに自分で立ち歩く事ができないでいた。
自由に立ち歩けないので当然だが、妻に付きっきりで介助してもらう。
介助と言っても朝に起きる時に車椅子を持ってきて貰い、乗る手伝いをして貰うだけである。

幸い、私は身体が不自由なだけで全く何もできない訳ではない。
ただ、万一の事を考えて妻には常に一緒にいて貰い、妻が買い物等で出かける時は車椅子で私も妻に付いていくようにしている。
医者曰く、適度な運動や気分転換になるから身体には良いらしい。

最も、仕事を辞めた後は死ぬまで自由に妻と好きな事をして過ごすと夢見ていた私にとって、この制限された日常は本当につまらないものである。
「生きている意味が分からなくなってくるなぁ。」
思えば振り返ると私の人生は幸せよりも不幸な事が多かった気がする。

幸せだったのは自分がまさか結婚するとは思わなかったので妻と出会えた事が幸せの絶頂であった。
それ以外は何度振り返っても良い思い出とは思えない事ばかりである。
「このまま私の人生は消化不良のまま、幕を閉じるのだろうか。」
そんな考えばかりが頭を巡る。

「ありのまま運命を受け入れるしかないのだろうか。」

そんな事を毎日考え、気づけばそのまま1年......2年......何と5年が経過した。
70歳となり、一時は多少歩き回れるようになった身体は当に弱りはじめ、最近は外出する回数も減った。

「結局、あれから自分のやりたい事は何もできなかったなぁ。」
この5年を振り返るが、虚無の5年であった。
毎日起きたら妻の作る朝ごはんを食べ、妻と一緒に車椅子で買い物をする。昼ごはんは外食で済ませ、家で2人、夕ごはんを食べる。

そして眠りにつく。ずっとこれを繰り返した。
「私に結局自由は無かったのか。」
思えば私の自由はいつも何かによって邪魔された。
幼い頃は私の家は貧しく、親の家業を手伝わなければ行けなかったので学校には中々行く事は出来なかった。

中学生になり、ようやく家業も安定して自分の時間を作れるようになった矢先に両親は亡くなってしまった。
まだ子どもだった私には生きる術がなく、結局また生きる為に働いた。
働きながら勉強もした。
とにかく必死に働き、その過程で色々なものを諦めてきた。

中学を卒業した後は所謂ブラック企業というものなのだろう。
とにかく長時間労働を強いられ、無我夢中で働き続けた。
途中で辞めるという選択肢もあったかもしれないが、私は辞めずにその会社に50年勤め上げた。

正直、何度投げ出そうとしたか。
だが、1つだけ希望もあった。
妻との出会い、そして結婚である。
妻と出会ったからこそキツイ仕事を投げ出さず、立派に勤め上げることができた。
その妻に恩返しがしたくて老後は一緒に楽しく過ごしたかった。ただそれだけなのに。

気づいたら私は涙が止まらなくなっていた。
声を上げず、ただ虚空を見つめながら泣いていた。
そして私は急に眠くなり、そのまま眠りに着いた。

※※※

そして、目が覚めると私は自宅ではなく、病院にいた。

何が起きたのか自分でもよく分からない。
眠くなったから寝た。ただそれだけなのに何故私は病院にいるのだろうか。
横を見ると疲れた顔をして眠っている妻がいた。
「あ、ああ。目が覚めましたか。」
私の視線に気づいたのか、眠っていたはずなのに妻はすぐに目を覚ました。

「ここは?私は確か眠くなって自宅で寝ていたのでは?」
「あなた、寝ている間に意識不明になって病院に運ばれたのよ。」
妻の言葉には驚いた。私はただ寝てしまい、起きただけなのに。まさかこんな事が起こっていたとは。

暫くしてから医者がやってきた。
「松下さん、以前に胃がんを患っていたかと思いますが、再発しています。」
「そうでしたか。治る見込みはあるのでしょうか。」
この時、私は不思議と取り乱すことなく、医者の話を聞く事ができた。

医者の話によると、手術してがんを取り除く事は可能だそうだ。
ただ私自身が高齢の為、手術に耐えきれるかは五分五分らしい。
「分かりました。手術をお願いします。」
私は手術を受ける事にした。

手術当日、私は妻の手を握りながらストレッチャーで手術室へと運ばれる。
妻はとても不安そうな顔をしていたが、当の私は他人事の様に冷めていた。
死ぬ事をどうも思っていない。
諦めがつき、投げやりになっていたのかもしれない。

手術は8時間に及んだらしい。(私は寝ていただけなのであまり実感は無かったが。)
医者の話によると手術後に意識が戻るかも怪しかったらしいが、結果的な私はまたしても生還を果たした。
しかし、やはり肉体は限界であったらしい。
今後、おそらく私は死ぬまで寝たきりだろう。

前の時と違い、もう身体を動かす気力も起きなければそもそも意識だっていつ途切れてもおかしい。
(私は何故生きなきゃいけないのだろうか。)
妻を残して死ぬのは心残りだが私ももう寿命なのだ。抗ってまで生きる理由は無いだろう。

何故私はまだ生かされるのだろう?
その疑問が拭えないまま私は退院する事になった。妻も私も高齢の為、病院に都度通うのは難しい。結果、自宅で介護となった。
医者には定期的に自宅に来てもらい、診察を受けることになる。

本当は自宅ではなく、病院にずっと入院しているのが良いのだろうが、妻が自宅介護を引き受けると言ってくれた。こんな手のかかる老人を今までも、そしてこれからも面倒を見てくれる妻には頭が上がらない。
不満だらけの人生だったが、妻に出会えた事だけが私の唯一の幸せである。

自宅介護が始まった。
私の身体は殆どもう動かない。
そんな私を妻は甲斐甲斐しく介護してくれた。そんな妻を見て心から私は申し訳なく思った。食事や筋肉が硬直しない為のマッサージは勿論、排泄の処理や身体を清潔にするのも欠かさずしてくれた。

自分では何もできない。
そんな生活が5年も続いた。
流石にこの頃になると妻も段々溜息が増えてきた気がする。
当たり前である。歳を重ねるのは私だけではない。そして歳を重ね、身体が動かない私も未だ死ぬ様子もない。

私は生きる屍。
基本、私の今の生活は寝ているだけである。
1日に何度か目が覚める事はあっても必要最低限の食事や排泄、妻によるマッサージをして貰うだけで何かする訳でもないので今がいつなのかなんて気にする事はない。
最も、自身も高齢でありながら私の世話をする妻にとっては長い日々だと思う。

そんな事をうっすらと......ぼんやりと......考えながら私は寝たり起きたりを繰り返していた。



更に4年が経過した。
最近、自身の体調も芳しくない妻が病院に行ってきたそうだ。
病気ではないらしいが、足腰がかなり弱ってきたらしい。

足腰が弱くなった妻に介護して貰うのは正直、苦しい気持ちになった。
しかし、それでも妻は介護を快く引き受けてくれ、いつもの様に優しく微笑んでくれた。
だから、気づかなかったし、私は疑いもしなかった。
妻がこの時既に精神的に限界であった事に......

それは、ある日突然訪れた。
この日、妻は口数が異様に少なかった様に思える。いつもなら寝たきりの私に微笑みかけながら話しかけてくれたがこの日は虚ろな目をして、暗い表情をしていた。
そして......

「......ごめんなさい。」
ぼそっと妻はそう言っていた様な気がする。
「あ...あぁ......ぐぅ......」
私は必死に声を振り絞ったが声が出ない。
彼女は必死にその後も何かを伝えようとしていたが、私には何を言おうとしているのか分からない。

彼女は何を言おうとしていたのか。
はっきりと最後まで聞こえる事は結局なかった。
だけど、私は今日までこんな私と一緒にいてくれて、私の介護をたった一人でしてくれた彼女を恨んではいない。

近年は梅雨の前倒しで雨が多い中、空に曇り一つない晴天の日。
令和6年5月15日 松下正三 
自宅にて妻、松下梅の介護疲れにより死去。享年81。
奇しくもその日は正三の80歳の誕生日であった。
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