帝華大学物語

風城国子智

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意外なところに

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 音の絶えた、薄暗く寒い空間を、意外なほどに落ち着いた意識で見回す。背中から下ろしたギターを爪弾くと、意外なほどにか細い音が辺りの空気を震わせた。
 これが、『歪み』の中。もう一度、今度はじっくりと観察するように、辺りを見回す。木根原きねはらも、そして『歪み』に閉じ籠められてしまった人々も、こんな寂しいところで、……闘ってたんだ。今更ながらの感情に、勇太ゆうたは小さく息を吐いた。
 とにかく、出口を見つけなければ。か細い音しか出ないギターを、大きく掻き鳴らす。この大学の教授であった者が理論を作り、この建物を作るときに埋め込んだ、空間を歪ませて建物内部を広くする仕掛け。その理論は完璧であったはずで、普段は誰も何事も察知することなく建物内で生活できるのだが、それでも時折、今の勇太の状況のように、空間の『歪み』が人や物を飲み込んでしまうという現象が起こってしまう。その『歪み』を見つけ、正すのが、たちばな教授の薫陶を受けた勇太の兄、この帝華ていか大学の准教授である雨宮秀一あめみやしゅういちと、彼が集めた仲間達。もちろん、勇太も、不本意ながら、その『仲間達』の中に入っている。『音』を使って『歪み』を見つけ、修正することが、勇太の役割。その勇太の『能力』を見つけた兄のスパルタのおかげで、一浪はしたが勇太の学力では高いハードルだったこの大学に入ることができ、そして得難い仲間を得た。もうすぐ卒業だが、その二つの事柄に関してだけは、勇太は兄に感謝していた。……口が裂けても、兄には言えないが。
 そんなことを考えながら、薄ら寒い空間を歩く。出口は、中々見つからない。三森みもりの理屈を信用して、『歪み』を相殺する『音』を探すための積分計算の練習をしておくんだった。いやあんな複雑な計算を暗算で行うことは、三森にしかできない。木根原よりも一回り小さい、それでも存在感のある三森のキツい視線が脳裏を過ぎり、勇太は再び肩を竦めた。
 その時。不意に、薄ら寒さの種類が変わる。
「あ……」
 薄暗さは変わらないが、『歪み』から抜け出したことは分かる。清潔な消毒液の匂いが、勇太が現在大学構内のどこにいるかを教えてくれた。
「あら」
 聞き知った低い声に、顔を上げる。机横の電灯が一つだけ光る空間にいたのは、帝華大学理工科学部構内付属の保健室の医師、林広美はやしひろみ先生。橘教授の姪で、『歪み』に囚われ我を忘れた人々をしばしばここに運び込んでいるため、勇太のことも、『歪み』のことも、よく知っている女性が、勇太の前で微笑んでいた。
「こんな遅くにどうしたの?」
「林先生こそ」
 窓の外の暗闇に驚きながら、それだけ返す。保健室は十七時には閉まるはずだ。なのになぜ、先生はまだここに? 首を傾げた勇太の耳に、あくまで優しげな声が降ってきた。
「ちょっと、会議で厭なことを聞いてね」
 お茶、飲む? あくまで軽い言葉に、微かな違和感を覚える。しかし深く考えることなく、勇太は、『歪み』で強ばった身体を溶かす温かいコップを受け取った。
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