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第3章 ふたつの顔
1.まるで別人
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月曜の朝、リビングに行くと、知らない男がタブレット片手にコーヒーを飲んでいました。
「だ、だだだ、誰?」
「誰って酷いな、清人だけど?」
男はおかしそうにくつくつ笑っているけれど、私が知っている清人さんとはまるで違う。
清人さんは前髪さらさらの黒縁眼鏡で、大学生のように見える人だ。
でも目の前の男は髪は七三分けのナチュラルオールバック、眼鏡は高圧的に見える銀縁ハーフリムスクエアで、しかも細身のスーツ。
どっからどう見てもいけ好かないエリート青年ビジネスマンだ。
「う、ううう、嘘」
「嘘ってそんなに疑わなくたって……」
はぁーっとため息を吐き出した男は、ぐしゃぐしゃと片手で髪を崩した。
「これで、どう?」
崩れた前髪で額を隠し、男が困ったように笑う。
それにはどことなく、見覚えがあった。
「き、……清人、さん?」
「だからさっきからそう言ってるよね?」
胸ポケットから櫛を取り出し、男――清人さんは手際よく、髪を元に戻していく。
「で、でも……だって……」
「そんなに別人に見えた?」
うんうんと勢いよく、頷く。
いまだってこの変身を見なければ、清人さんだなんて信じられない。
「んー、だったら仕事中の僕を見たら涼鳴、もっと驚いちゃうだろうね」
なぜか、清人さんは淋しそうに笑った。
「あ、あの……」
「朝食、できてるよ。
早く食べよう?
遅刻しちゃうし」
「そ、そうですね」
私の言葉は清人さんによって遮られ、どうしてか結局訊けなかった。
朝食はサラダと、カリカリベーコンを添えたスクランブルエッグ、それにクロワッサンとスープだった。
「さ、食べよう」
「……い、いただきます」
昨日の、食材を無駄にしただけの自分の朝食との違いに泣きたくなる。
「どうかな」
少し心配そうに、清人さんは私が一口食べるのを見つめている。
スクランブルエッグをフォークで掬い、ぱくり。
「お、美味しいです」
「よかった」
にっこりと嬉しそうに笑い、清人さんも食べはじめる。
残念ながらふわとろスクランブルエッグの味なんて、いまの私にわかるはずがない。
「ごちそうさまでした、と。
それと行く前、に」
にっこりと笑った清人さんの、長い人差し指が、トン、トン、と私の左手薬指を叩く。
「涼鳴、指環を忘れてる」
「あ……」
指摘されて、気まずくなる。
本当はわざと忘れたのだ。
結婚指環をするなんていまだに現実感がないのと、それに。
――光志さんに見られたくないから。
「あ、はい。
し、してきます……」
「あ、あと服は昨日買ったのにしなよ。
あれの方が似合ってる」
「は、はい」
そそくさと椅子を立ち、自分の部屋に戻る。
鏡台の引き出しを開けて指環を取り出しながらはぁーっと大きなため息が漏れた。
これは、私の意思には関係なく、これからはいつも着けていないといけないのだろう。
「服も替えろ、か……」
面倒くさいなと思いつつ、昨日買ったセットに着替える。
これだとひっつめひとつ結びにした髪が浮くわけで。
「……面倒臭いな」
いつものくるりんぱで整えた。
「うん、そっちの方がいい。
じゃあ、行こうか」
「は、はい」
戻ってきたときには、清人さんは準備を済ませていた。
歩いて駅まで行こうかと思ったんだけど……。
「駅までどれくらいかかると思ってるの?」
「じゅ、十五分くらい、ですよ、ね」
さすがの私も昨日、通勤のためにどこの駅に行ってどの電車に乗るかくらい、調べた。
「もう九月に入ったとはいえまだまだ暑いのに、そんな中を十五分も涼鳴を歩かせると?」
「はい?」
なにを言っているのかわからなくて、つい首が斜めに傾く。
「しかも、不快指数最高の満員電車に涼鳴を乗せると?
痴漢にも遭うかもしれないのに」
「え、えーっと……」
そうは言われても、いままでずっとそれで通っていたのだ。
そこになにか問題があるとは思えない。
「朝は僕と一緒に行けばいい。
会社までくらい、送るよ。
帰りも時間が合うときは極力迎えに行くし、そうじゃないときはタクシー……いや、高村に頼んで迎えを回してもらうようにするよ」
「あの、その……」
「はい、じゃあ行こうねー」
有無を言わせずガレージに連れていかれ、今日は黒のセダンに乗せられた。
「涼鳴の会社はトネールデザインだっけ」
「そ、そうですが……」
なんで知っているんだろう?
あ、結婚相手のことくらい、調べるか。
「トネールデザイン、と」
すでに登録してあったらしく、手際よくナビをセットして清人さんは車を出した。
「あ、あの。
と、遠回りになるんじゃ……」
「ん?
涼鳴の会社から僕の会社まで、車で五分もかからないよ。
だから、気にしなくて大丈夫」
「そ、そうですか……」
意外と近くにあったんだ、会社。
もしかしたらいままで、すれ違うくらいしているかもしれない。
「トネールデザインといえばさ」
「ひゃいっ!」
うっ、噛んだ。
それだけでも恥ずかしいのに、さらに清人さんがくすりと小さく笑い、さらに頬が熱を持つ。
「うちの会社の、ホームページのデザインを発注してるんだよね。
まさか、涼鳴が担当とか……ないか」
「え、えっと」
い、言えない。
私が担当です、なんて。
だってこんなコミュ障挙動不審女が担当だなんて知れたら、依頼を取り下げられるかもしれない。
「担当が涼鳴だったら嬉しいけど、仕事だって考えると涼鳴じゃない方がいいなー。
仕事中の僕を知られたくないからね」
それってどういう意味ですか、そう問おうとした言葉は飲み込んだ。
真っ直ぐに前を見て運転している清人さんはやっぱり、どこか淋しそうだったから。
会社の前で車を降りた。
「あ、ありがとうございました」
「帰りの時間がわかったら連絡して。
じゃ、いってらっしゃい」
清人さんが私の手を取り、ちゅっと口付けを落としてくる。
途端にボン!と身体中が熱くなった。
「えっ、あっ」
「じゃあねー」
ひらひらと手を振り、真っ赤になって立ち尽くしている私を残して清人さんは去っていった。
「あれ、旦那?」
聞こえてきた光志さんの声で我に返った。
「おはようございます」
「ん、おはよう。
朝から独身男には目に毒なもの、見せつけないでくれる?」
光志さんは意地悪く、ニヤニヤと笑っている。
「もう、変なこと言わないでください!」
「おぅ、いてーな」
ばしばし背中を叩いても、光志さんは全然堪えていない。
そういう年上の余裕は、ムカつく。
「それにしても今日の涼鳴……」
光志さんの視線が、私のあたまの先からつま先まで往復した。
「いつもよりも可愛いな」
目尻を少し下げて笑われ、ぽっと顔が熱くなる。
彼に褒めてもらえるなら、面倒でも着替えてきてよかった。
「だ、だだだ、誰?」
「誰って酷いな、清人だけど?」
男はおかしそうにくつくつ笑っているけれど、私が知っている清人さんとはまるで違う。
清人さんは前髪さらさらの黒縁眼鏡で、大学生のように見える人だ。
でも目の前の男は髪は七三分けのナチュラルオールバック、眼鏡は高圧的に見える銀縁ハーフリムスクエアで、しかも細身のスーツ。
どっからどう見てもいけ好かないエリート青年ビジネスマンだ。
「う、ううう、嘘」
「嘘ってそんなに疑わなくたって……」
はぁーっとため息を吐き出した男は、ぐしゃぐしゃと片手で髪を崩した。
「これで、どう?」
崩れた前髪で額を隠し、男が困ったように笑う。
それにはどことなく、見覚えがあった。
「き、……清人、さん?」
「だからさっきからそう言ってるよね?」
胸ポケットから櫛を取り出し、男――清人さんは手際よく、髪を元に戻していく。
「で、でも……だって……」
「そんなに別人に見えた?」
うんうんと勢いよく、頷く。
いまだってこの変身を見なければ、清人さんだなんて信じられない。
「んー、だったら仕事中の僕を見たら涼鳴、もっと驚いちゃうだろうね」
なぜか、清人さんは淋しそうに笑った。
「あ、あの……」
「朝食、できてるよ。
早く食べよう?
遅刻しちゃうし」
「そ、そうですね」
私の言葉は清人さんによって遮られ、どうしてか結局訊けなかった。
朝食はサラダと、カリカリベーコンを添えたスクランブルエッグ、それにクロワッサンとスープだった。
「さ、食べよう」
「……い、いただきます」
昨日の、食材を無駄にしただけの自分の朝食との違いに泣きたくなる。
「どうかな」
少し心配そうに、清人さんは私が一口食べるのを見つめている。
スクランブルエッグをフォークで掬い、ぱくり。
「お、美味しいです」
「よかった」
にっこりと嬉しそうに笑い、清人さんも食べはじめる。
残念ながらふわとろスクランブルエッグの味なんて、いまの私にわかるはずがない。
「ごちそうさまでした、と。
それと行く前、に」
にっこりと笑った清人さんの、長い人差し指が、トン、トン、と私の左手薬指を叩く。
「涼鳴、指環を忘れてる」
「あ……」
指摘されて、気まずくなる。
本当はわざと忘れたのだ。
結婚指環をするなんていまだに現実感がないのと、それに。
――光志さんに見られたくないから。
「あ、はい。
し、してきます……」
「あ、あと服は昨日買ったのにしなよ。
あれの方が似合ってる」
「は、はい」
そそくさと椅子を立ち、自分の部屋に戻る。
鏡台の引き出しを開けて指環を取り出しながらはぁーっと大きなため息が漏れた。
これは、私の意思には関係なく、これからはいつも着けていないといけないのだろう。
「服も替えろ、か……」
面倒くさいなと思いつつ、昨日買ったセットに着替える。
これだとひっつめひとつ結びにした髪が浮くわけで。
「……面倒臭いな」
いつものくるりんぱで整えた。
「うん、そっちの方がいい。
じゃあ、行こうか」
「は、はい」
戻ってきたときには、清人さんは準備を済ませていた。
歩いて駅まで行こうかと思ったんだけど……。
「駅までどれくらいかかると思ってるの?」
「じゅ、十五分くらい、ですよ、ね」
さすがの私も昨日、通勤のためにどこの駅に行ってどの電車に乗るかくらい、調べた。
「もう九月に入ったとはいえまだまだ暑いのに、そんな中を十五分も涼鳴を歩かせると?」
「はい?」
なにを言っているのかわからなくて、つい首が斜めに傾く。
「しかも、不快指数最高の満員電車に涼鳴を乗せると?
痴漢にも遭うかもしれないのに」
「え、えーっと……」
そうは言われても、いままでずっとそれで通っていたのだ。
そこになにか問題があるとは思えない。
「朝は僕と一緒に行けばいい。
会社までくらい、送るよ。
帰りも時間が合うときは極力迎えに行くし、そうじゃないときはタクシー……いや、高村に頼んで迎えを回してもらうようにするよ」
「あの、その……」
「はい、じゃあ行こうねー」
有無を言わせずガレージに連れていかれ、今日は黒のセダンに乗せられた。
「涼鳴の会社はトネールデザインだっけ」
「そ、そうですが……」
なんで知っているんだろう?
あ、結婚相手のことくらい、調べるか。
「トネールデザイン、と」
すでに登録してあったらしく、手際よくナビをセットして清人さんは車を出した。
「あ、あの。
と、遠回りになるんじゃ……」
「ん?
涼鳴の会社から僕の会社まで、車で五分もかからないよ。
だから、気にしなくて大丈夫」
「そ、そうですか……」
意外と近くにあったんだ、会社。
もしかしたらいままで、すれ違うくらいしているかもしれない。
「トネールデザインといえばさ」
「ひゃいっ!」
うっ、噛んだ。
それだけでも恥ずかしいのに、さらに清人さんがくすりと小さく笑い、さらに頬が熱を持つ。
「うちの会社の、ホームページのデザインを発注してるんだよね。
まさか、涼鳴が担当とか……ないか」
「え、えっと」
い、言えない。
私が担当です、なんて。
だってこんなコミュ障挙動不審女が担当だなんて知れたら、依頼を取り下げられるかもしれない。
「担当が涼鳴だったら嬉しいけど、仕事だって考えると涼鳴じゃない方がいいなー。
仕事中の僕を知られたくないからね」
それってどういう意味ですか、そう問おうとした言葉は飲み込んだ。
真っ直ぐに前を見て運転している清人さんはやっぱり、どこか淋しそうだったから。
会社の前で車を降りた。
「あ、ありがとうございました」
「帰りの時間がわかったら連絡して。
じゃ、いってらっしゃい」
清人さんが私の手を取り、ちゅっと口付けを落としてくる。
途端にボン!と身体中が熱くなった。
「えっ、あっ」
「じゃあねー」
ひらひらと手を振り、真っ赤になって立ち尽くしている私を残して清人さんは去っていった。
「あれ、旦那?」
聞こえてきた光志さんの声で我に返った。
「おはようございます」
「ん、おはよう。
朝から独身男には目に毒なもの、見せつけないでくれる?」
光志さんは意地悪く、ニヤニヤと笑っている。
「もう、変なこと言わないでください!」
「おぅ、いてーな」
ばしばし背中を叩いても、光志さんは全然堪えていない。
そういう年上の余裕は、ムカつく。
「それにしても今日の涼鳴……」
光志さんの視線が、私のあたまの先からつま先まで往復した。
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