ヨハネの傲慢(上) 神の処刑

真波馨

文字の大きさ
42 / 44

第38話 滝野の失踪

しおりを挟む

 長岡稔が警官襲撃事件の犯人として逮捕された翌日。時也はK区尾口中町にある金澤氏の事務所にいた。今日は滝野が非番で二人体制の警護だ。十二時間勤務も警官十年目になれば慣れたものだが、それでも最近は体力の低下を感じる機会が増えた。日課のジョギングや筋トレは欠かさず続けているが、齢三十二にして年齢には抗えないと実感する日々である。
「無理に若作りをしよう、いつまでも長生きしようと思う必要はない。大切なのは、自身の老いを自然に受け入れる姿勢だ。命あるものは皆いずれ死を迎える。永遠に生きる術がない以上、我々もいつか己の死を必ず体験しなくてはならない」
 書斎のデスクで書類に次々と判子を押しながら、金澤氏は穏やかな口調で説く。
「人は死を極度に恐れているが、あらゆる不平等が存在するこの世において死は唯一皆に平等に与えられている運命だ。ただ、それを体験する機会が早いか遅いかだけの違いだ」
「ですが、死を体験するなら遅いに越したことはないのでは」
「人間一人ひとりの人生が異なるように、死のタイミングもまた人によりけりだ。ある意味では、各々に付された個性のようなものだな。若くして死を受け入れるか、長寿を全うするか。事故に遭うか病死するか、あるいは悲劇的な事件に巻き込まれるか……それもまた、神によって定められた運命なのかもしれないな」
「死がすべての人間にとって平等である、という点に関しては私も先生に同意します。ただ、仕事柄多くの人の死と向き合う自分としては、そのすべてを先生のように達観した目で見ることは難しい場合もあります」
「それはそうだ。死は平等だが、だからといって喜ばしい出来事ではない。死は悲しく、そして辛いものだ。本人にとっては勿論、それを見届ける他者にとってもな」
 すべての書類に押印を終え、紙の束を机上で几帳面に揃える。トントン、というリズミカルな音が静かな書斎に大きく響いた。
「だが、死を極度に恐れる必要はない。死は、いわば通過点にすぎないのだからな」
「通過点?」
「死を恐れるのは、死ぬ行為がすべての終わりだという固定概念が根本にあるからだ。死ねば人生が終わる、二度と後戻りはできない、とね。しかし、私はそうではないと思っている。肉体の死はイコール魂の死にはなり得ない。たとえ肉体が滅びたとしても、魂はその先も長きに亘って生き続ける……そう考えれば、自ずと死への恐怖心は薄れるというものだ」
「肉体的には死んでも魂は永遠に生き続ける、と」
「無論、それを証明する手立てはないよ。しかし、人間は思考次第でどうにでもなる生き物だ。我々の脳は想像以上に複雑でありながら、実のところ想像以上に単純でもある。自己の思考をコントロールする術を一度身につけてしまえば、死さえも恐れなくなるのだよ」
「死を恐れなくなるとは、死への無頓着と同義ですか」
「同義とは少し異なる。さっきも言ったように、大切なのは死を受け入れる心持ちだ。抗ったり逃げたりせず、ありのままの死を寛大な心で受け止める。難しいかもしれないが、死を受け入れた先に生きる喜びが見出されるのだ。生と死は一心同体。死が尊いものだからこそ、生きることもまた尊くそして喜ばしいのだよ」
 金澤氏の高説は、教会で神父の御言葉を聞いているようだった。時也は深々と頷きながらも、正直な感想を吐露する。
「先生の高尚な考えに到達するには、私はまだまだ修行が足りないみたいです」
 氏は肩を揺らしながら笑うと、
「特別な修行など必要ない。それなりに長く生きていればいずれ気付く。その時をゆっくり待てばいい。気付きを得たとき、君の人生はより尊く価値あるものになる。きっとな」


 午後八時十分。警護番を交代した時也は、報告書作成と残務処理のため県警本部へ向かった。十四階の公安課室へ足を踏み入れた瞬間、デスクにいた東海林警部と視線が交錯する。その鋭い目つきを見た瞬間、只事でない事態を察知した。
 東海林班のボスは無言のまま、首の動きで廊下へ引き返すように合図する。公安課室を出ると、背後から追いついた上司に会議室へ行くよう促された。
「仕事終わりに悪いが、少し訊いてもいいか」
 十二時間勤務をこなしたばかりの部下を気遣いつつ、その声には緊張が孕んでいる。時也は「勿論です」と頷いてから、ボスの次の言葉を待った。
「滝野についてだが、最近体調を崩していたり調子が悪かったりという様子はなかったか」
「滝野ですか。特にないかと思いますが」
 彼と最後に顔を合わせたのは、前日の警護番交代のタイミングだ。特に心身の不調も訴えておらず、普段通り簡単な業務引継ぎを済ませてから時也はすぐ本庁に戻った。
「たしか、彼は今日非番でしたよね。何かあったのですか」
「いや……やはり俺の思い過ごしか」
 ぼそりと呟くボスの声には、普段の切れ味がなくどこか頼りなさげだ。時也は思わず詰め寄るような口調になった。
「思い過ごしで構いません。何かあったのですか」
「昨日、滝野と警護を代わった有馬から妙な連絡を受けたんだ」
 金澤氏警護班のもう一人のメンバーである、有馬傑ありますぐる巡査部長。警察官のキャリアとしては時也よりも十年以上先を行く先輩だが、公安課には二年前に配属されて後輩にあたる。互いの扱いが難しい関係性にあるものの、時也を警護チームのリーダーとして立てながら裏できめ細やかにサポートする頼もしい存在だ。
「有馬部長から、ですか」
「ああ。昨晩、滝野と警護番を代わるタイミングで金澤邸に向かったら、覆面パトカーの中に滝野がいなかったそうだ。不審に思ったところで業務用携帯に『体調不良のため少し早めに上りました。このまま直帰するためよろしくお願いします』とメッセージが入った。有馬はそのまま朝までの任務に就いたが、普段と異なる滝野の様子が気になって俺に報告を挙げたそうだ」
「滝野からボスには?」
「なかった。その余裕もないほど不調なのかと気がかりではあったが、有馬に報告があったのなら杞憂かと言い聞かせていたところだ。それで、新宮の考えを仰ぎたくてな」
「そうですね……本音を言えば、あまり良い予感はしませんね。あの生真面目な滝野なら、有馬部長にもっと早く連絡をつけて時間の調整をするはずです。引継ぎもせず、道端に公用車を放置したまま帰宅するとは思えません。ボスに本人から報告が挙がっていない点も気になります」
「そうか。実は、さっきから滝野の業務用番号に電話しているが全く繋がらないんだ。明日の朝には滝野のシフトが入っているから、体調不良なら代わりの人員を充てる必要がある」
「滝野の自宅へは?」
「これから向かおうとしていたところだ」
「俺も同行します」
 言葉にできない胸騒ぎがした。俄に早まる鼓動を抑えながら、ボスを助手席に乗せて覆面パトカーを走らせる。
 滝野の自宅マンションは、西立浜駅のすぐ裏手に位置していた。駅近の物件ではあるが、マンションから直線距離で測ると電車で乗り継ぐよりも自家用車で通うほうが断然近い。滝野自身も車通勤組だが、マンション一階の契約駐車場に滝野の所有車は停まっていなかった。
 滝野は七階建てマンションの三階に部屋を借りている。玄関に付属するインターホンを鳴らすが、室内からの応答はない。試しに東海林警部が滝野の業務用携帯に幾度目かの電話をかけるものの、ドア越しには着信音どころか物音一つ聞こえなかった。
「不在みたいですね」
 振り返った部下に、ボスは厳しい眼差しを向ける。
「新宮が本部に来る前、庁舎内で勤務中の奴らを手当たり次第捕まえて滝野の居場所を尋ねた。誰も心当たりはなさそうだったよ。内海や落合も含めてだ」
 部屋の前に居座る訳にもいかず、二人は路上駐車しているパトカーに戻った。いち警官が半日家を不在にしているだけでは、事件性も認められず室内に強制突入する理由にはならない。運転席でシートベルトを締めながら、時也は上司の指示を仰いだ。
「一旦、本庁に戻ろう。明日の朝、滝野の勤務時間になるまで待つしかあるまい。一応代わりの人員は確保しておくが、もし明日になっても連絡がつかない場合は」
 皆まで告げずに、口を閉ざす。それ以上先を続けると、吐き出した言葉が現実になるかもしれないと恐れているかのように。時也は無言で頷くと、イグニッションキーを回して来た道をゆっくりと引き返した。


 一夜が明け、東海林警部の言葉は現実となった。金澤氏の警護番交代の時間が過ぎ、有馬巡査部長から「滝野の業務用携帯に電話をするものの一向に繋がらない」と一報が入ったのだ。
 東海林警部は代替の捜査員を金澤邸に向かわせると同時に、上層部へ速やかに報告。内海巡査部長の襲撃事件から僅か十日後にして、捜査員がまたもや事件に巻き込まれたかもしれない——公安一課の中で隠しきれない動揺が走った。
「滝野の身に異変が起きた以上、警護対象である金澤氏にも危険が迫っている可能性は排除できない。くれぐれも注意を怠らないように」
 仲間の安否が気がかりなものの、警護班の頭である以上は任務を途中放棄できない。緊急編成された滝野捜索チームに一塁の望みをかけ、時也はその日も通常通り仕事に就いた。今日は夕方からの勤務で、金澤氏は夜に市議会議員同士の会食が予定されている。
「そういえば、滝野君は大丈夫かい? 病気でしばらく来られないと聞いているが」
 事務所で身支度を整えながら、氏は心配そうな声を上げた。チャコールグレーのダブルスーツで品良くまとめ、鮮やかな菫色のネクタイが映えている。だが華やかな装いに反して、その表情はどこか暗く沈んでいた。
「ご心配には及びません。連日の勤務で疲れが溜まっていたのでしょう。しばらく静養すれば良くなるはずです」
 滝野が行方を眩ました一件は、氏の耳には入れないようにとボスからお達しが出ている。ゆえに、有馬は「滝野が病気のため当面の間は代わりの警官が来る」と彼に伝えたようだ。
「それなら安心だが、無理しないようにと伝言してくれたまえ。若さ故に無茶をしがちな者は多い。病魔はいつ誰の身を蝕むとも限らないからね」
 支度を終え、二人はいつも通り佐伯が運転する公用車に乗り込む。行き先は立浜駅から程近い〈料亭やまだ〉。創業百七十年の老舗店で、季節の食材を贅沢に使った会席料理が楽しめると評判らしい。提灯が煌々と灯る入り口はいかにも高級感があり、「ちょっと夕飯に」と気軽には立ち入れない店構えだ。
 店内に消える金澤氏の背中を見送ってから、店の隣にあるコインパーキングへ戻る。車内では、氏の忠実なドライバーである佐伯樹生が黙々と弁当を食していた。後部座席に座った時也も、先に買っておいたコンビニ弁当を太腿の上で広げる。今では沈黙がBGMと思えるくらいに、口数少ない佐伯との食事にも慣れ始めていた。
 だが、佐伯氏には訊ねるべきことがある——滝野巡査は、佐伯が五年前に起こした新都での傷害事件について密かに調査していた。もし、その極秘調査が佐伯や金澤氏に知られたのだとしたら。薄弱ではあるが、彼らには滝野を口封じする動機が存在する。
「佐伯さん。少しお話をよろしいですか」
 タイミングを見計らい、運転席に声をかけた。初老の運転手はバックミラー越しに後部座席の警官をちらと一瞥する。
「はい、何でしょうか」
「実は、数日前に金澤先生から相談を受けまして。うちの滝野が、あなたと内密の会話をしているのではないかと。二人が人目を憚るように話しているところを、先生が見かけたと仰るのです」
「私が、滝野様とですか……はて、心当たりはありませんが」
「単なる雑談の場面を目撃し、何か重大な話をしているのではと先生が勘違いされた可能性もあります」
「そう言われましても。彼と個人的に話したことなど、ほとんどありませんから。言葉を交わすとしても挨拶程度のものですし」
「では、金澤先生の見間違いだと」
「断言はできかねます。先生が何を見られてそのように思われたのか定かではありませんが、少なくとも滝野様との間には何もなかったと証言しましょう」
「そうですか……わかりました。ありがとうございます」
 言葉尻に強い拒絶を感じ取り、大人しく追及を諦める。すると、黙りを決め込んだかに見えた佐伯氏が「あの」と遠慮がちに口を開いた。
「滝野様、病欠だと伺いましたが何かあったのですか」
「何か、とは」
「いえ……その、もしかすると巷で騒ぎになっている市議会議員失踪に関係しているのではないかと思いまして。実は、新宮様がお見えになる前に先生もそう話しておられたのです」
「金澤先生が、ですか」
「はい。三人目の議員失踪後、しばらくの間は何事も起こらず平和な日々が続き先生もすっかり安心しておりました。ですがここに来て、先生のボディガードをされていた警察官が突然交代した。表面上は平静を保っておられますが、先生は非常に動揺されています。次は自分の身に何か起きるのではないか、と」
 流石に何も勘付かないほど脳天気ではなかった。だが、ここで馬鹿正直に佐伯の言葉を認める訳にもいかない。余計な情報を与えても更なる混乱を招くだけだ。
「お二人の心配はご尤もです。ですが、滝野については体調不良による任務交代が事実です。彼はまだ、今の部署に異動してようやく二年目の新米でしてね。早く職務に慣れようとがむしゃらに働いていたのが祟ったのでしょう。特に今の任務は時間も変則的ですし、この夏は暑さも厳しい。体調を崩す条件が運悪く揃っていたに過ぎません」
「そうですか。でしたら、一刻も早く滝野様が回復されることを願うばかりです」
「ええ。滝野にもそう伝えておきますよ」
 この会話を最後に、金澤氏が会食を終えて車に戻るまで二人の間には重い沈黙の幕が下りた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

処理中です...