『私本大江山』~酒呑童子異聞~

天愚巽五

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人の巻 鄙のこと

鬼の主上、目的を果たすこと

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 春の肌寒さの心地よさがまったく感じられぬほど、奇妙に湿っている。生温い空気の中、陰陽師姿の男が里長の牛小屋の前で座していた。

 人の気配はない。
 闇は深く、虫の声に混じりケリケリと鳥の鳴き声が暗闇の中から聞こえてくる。

 尋太は牛小屋に入らず、牧草の上に座していた。
 奇妙に足が折れ曲がり、手は印を結んだまま形で、茨が巻き付けられている。指や手の甲からは血が滲み滴っていた。

 尋太の前には小さな護摩焚きの祭壇が置かれていたが、そこで火の中に入っているものは護摩ではない。大きな炎は上がらず、黒煙だけが溢れ、地面に広がっていた。

 祭壇にはそれでも小さな火が、尋太の顔を照らしている。尋太の目は潰され、額に深い傷が入っていた。血が滴り顔は真っ赤に染まっていた。

 尋太は必死に呪を唱えていた。

 勧進をしている。
 尋太は必死に梵語のような言葉で勧進をしていた。
 それが唯一生きる術であるかのように、命を差し出すように唱えている。
 喉は枯れ、掠れながらも尋太は何かを呼び出そうとしていた。

 闇。
 深い闇の中から、白い水干姿の男が現れる。

 白い肌と細く美しい手が見える。祭壇の火に顔が照らし出された。

 切れ長の目、赤い唇。長い睫毛をして、艶があるが白い髪が烏帽子から見えている。体からは香の臭いを僅かに漂わせていた。
 一見美しい女のようにも見えたが、仕草の一つ一つが男のそれとわかる。

「肉の苦しみは快楽ぞ、陰陽師…」

 尋太の喉から血が溢れ出す。しかしその表情は快感に酔いしれたように小さく痙攣した。

「首尾よくいけば、貴様のような糞袋にも素晴らしい生を授けてやろう」

 水干姿の男。
 主上と呼ばれる鬼の主、鬼童丸が血みどろの尋太の前に佇んでいた。

 鬼童丸が口元を扇子で隠し、小さく呟く。

「ほぅ。これは、これは…」

 鬼童丸の姿が滑るように闇に溶けた。祭壇から広がる黒い雲に風が流れる。雲と風が渦を巻き、その場で押し合いを始めた。

 尋太の声が強くなる。

 黒い霧が風に乗って祭壇の周りに集まる。黒い雲が風に流されていく。祭壇からはさらに濃い雲が沸き上がり、霧と押し合い始めた。

 尋太の声が枯れ、喉から血の塊を吐き出した。
 その場に横倒しに倒れ痙攣する。

 草を踏む音。小枝が踏み折られ誰かが近づいてくる。脂ぎった顔に額から汗が滴った斑目が、息を切らせていた。

 斑目が祭壇を睨む。

「やはりか。阿吽を産み出すなどとは」

 斑目が虚空を睨む。闇に隠れた鬼の存在が、はっきりとわかっていた。斑目は五芒星の結界を張り、素早く祭壇を囲んだ。小さな木造を取り出し、祭壇の前に置く。

「誰に伝えられたか知らぬが、このような邪法に手を出して、無事で済むわけが無かろう」

 斑目は足を捻じられ、印を結ばされたまま血だるまにされた男に聞こえるように言った。

 三面六臂の奇妙な木像であった。恐ろしいと言えば恐ろしい。愛嬌があると言えばそうとも言える。仏像とは異なる像を祭壇に対峙させる。

 斑目は祭壇に向かって朗々と阿弥陀経を念じ始めた。
 黒い霧が木像に集まり、雲が祭壇に吸い込まれていく。斑目の経はどこか拍子を外す。
  
 カタカタと木像が揺れた。

 三面六臂の木像が姿を変えていく。水干の好々爺の像へと変化し、霧と雲を吸い取っていく。

 木像のまわりで蠢いていた黒雲が、動きを止めた。
 ジワリジワリと木像から雲が吐き出され始める。

 好々爺へと変わった木像が、もう一度三面の像へと戻ろうとし始めた。
 像の顔が激しく変わる。手足が小刻みに震える。

 斑目は目を閉じ、阿弥陀経を唱えるのをやめない。

 真っ暗な空気が微かに動く。目に見えない闇が渦を巻いたように見えた。・

 女であった。
 少し年増で上等そうな小袖姿である。表情は乏しい。女はもう一人、童というにはもう遅い。だが幼さの残る体つきをした娘の手を引いている。
 娘の顔には綿布が巻かれ顔は見えない。

 母子なのであろう。しかし夜に出歩いていることの不自然さと、娘の顔に巻かれた綿布が、斑目に警戒心を抱かせた。

 母子が近づく。斑目の術で認知はされていないのか、母子は斑目の前を通り過ぎた。

 空気の淀みがない。
 
 娘の顔全体を覆う布はわずかに血が滲んでいる。おそらく前も見えていないであろう。
 
 横走の里長、小倉家の内儀とその娘、内子であった。
 斑目はそのことを知らない。年増で色の白い肉置き、粘りつくような女の匂いが漂ってくる。二人は斑目に目もくれない。気づいてもいないようであった。

 斑目には違和感があった。人の気配が二人からしていない。
 たしかに母子はそこにいる。目の前でぼんやりと内子の手を取り、棒立ちになっている内儀の表情は、面が張り付いたように感情が無くなっている。斑目は二人の姿を目で追いながら、経を何度も繰り返した。

 たしかに目の前にいる。人のようで人でない。人間の抜け殻のような物がそこにいる。

 三面六臂の木像が黒ずんでくる。斑目は意識を強く保つ。一瞬たりとも気が抜けなくなっていた。

 内儀が内子に声をかける。
 人形のような顔から、人の声が発せられる。

「竜胆は何処じゃ?」

 倒れた尋太の身体が身震いし、痙攣が激しくなる。

「ここに来よと言ったのは、竜胆お主であろう?ここに来れば、内子が治ると…」

 表情は一切変わらない。しかしその声には悲しみと焦燥が溢れている。

「竜胆、何処かにおるのはわかっておる。其方の言いつけを…」

 内儀は声を詰まらせた。
 
 内子がしゃがみ、両耳を塞いだ。

「母様…声が」

 掠れた声が、布の間から漏れる。女児の声とは思えない。

「また声が…」

 内子の顔に巻かれた布に血が滲んでいた。目元のあたりの布から血が滴り落ちている。内子はガタガタを震えはじめる。

 三面六臂の木像が黒く変色する。メリメリと音を立てて、捻じれていく。
 斑目の術が破られようとしていた。

 内儀がハッと振り返った。そこには手を茨で縛られて、倒れている尋太が血まみれで転がっていた。

 内儀が尋太に近づく。
 冷たい視線。まるで汚物でも見るような眼で見下ろしていた。

「お主か?竜胆殿の言っていた陰陽師…」

 内儀が尋太の首元を掴む。着物が血に染まるのも構わず引き起こす。
 尋太の首に細く白い指が食い込み、爪がめり込んでいく。

「お主を…」

 首を絞められ、口から空気の塊を吐き出すと、鼻で荒く息をし始める。顔色が白を通り越し、青黒く変わっていく。
 尋太の口元から血が滴り落ちた。喰いしばった口が僅かに動く。

 斑目はその口の動きに気付いた。気づいたが、何も出来ない。
 
 尋太の声にならない声。
 阿と吽を勧進する声。

 内子が甲高い声で鳴き始める。それは人の声ではなかった。鳥の鳴き声のように喚きちらし、両手を激しく振る。

「熱や!熱や!」

 内儀は内子に振り向き、足早に駆け寄った、助け起こそうと体に触ると手を引っ込める。

 熱した黒鉄ほどの熱を内子は発している。

 内子が顔の布を掻きむしる。熱と痛み、それにおそらく痒みに襲われているのであろう。内儀は思わず、内子の顔に巻かれた布を引き剥す。薄茶色の体液がこびり付いた布が、皮膚を一緒に引き剥がされていく。

 内子の顔は、もはや原型をとどめていなかった。
 頭髪は抜け落ち、瘡が幾重にも重なっていた。辛うじて開いている目もほとんど見えてはいないであろう。頭自体本来の二倍ほどに肥大化し、額の部分はせり出していた。
 体は女の体であり、着物も小綺麗で上等なものを着ていたために、その顔が余計に奇怪に際立っている。

 尋太の口から呪が吐き出されて止まらない。どす黒い血を吐きながら、尋太は呪を唱え続けている。

「祇園の諸所奉り、古単の眷属、武塔の勧進をいたす…」

 内子の崩れた皮膚が赤黒く変わる。皮膚が厚くなる。
 声も出せなくなり、痙攣し始める内子。内儀は恐ろしい姿に成り代わる内子から、身を離した。

 内子の額が割ける。

 メリメリと肉と皮が割ける音。額から骨が二本飛び出てくる。血が滴り、内子の顔に流れると、体をのけぞらせた。

 木像が、三面六臂の姿から、牛の首を持つ者へと変わっていく。
 
「これまでか…」

 斑目は結界の外へ、木像を放り投げた。

 木像が内子の前に転がり、黒い霧を吐き出し始める。
 内子の目がその木像を泳ぎ見る。内儀がその木像を拾い上げた。

 内子の顔の皮膚が厚くなり、鼻がせり出していく。目元の皮と肉が割け大きく見開く。

 牛であった。

 内子の顔が牛と化す。同時に叫び声をあげた。
 斑目は真言を唱え始めた。

 斑目の真言にあわせ、牛首の木像に黒い霧と雲が纏わり付く。

「予は牛頭大王なり武塔天の子にして…」

 斑目の術の合間に鈴の音が合わさった。

「一二三四五六七八九ノタリ…」

 斑目があたりを見渡す。

 古い、それは古い呪。呪術などではない。まさに『言』である。
 物部の秘法。十種神宝の力で死者すら蘇らせる『言』それを誰かが念じている。

 牛頭大王の木像が、真二つに割れて、青白い炎に包まれた。
 
「おしかったな。術者よ」

 暗闇から若い男の声が聞こえる。まだ斑目の結界は解かれていない。それでも男の声が、斑目の頭蓋に響いてくる。

「魔多羅神を勧進するとは、糞坊主の考えそうなことじゃ」

 斑目は何も答えない。

「どうした?何も喋らぬか?阿吽を呼び起こすのはそれほど恐ろしいか?」

 暗闇から白い影が浮かび、人の形となっていく。
 若い女と見間違え勘違いを起こしそうなほど美しい。扇子で口元を隠し斑目の背中から目の前にゆっくりと回ってくる。

「命あるものどもには、恐ろしいか。不憫なことだな」

 白い水干姿。クツクツと笑う。

 斑目は惑わされぬ様に術を続けた。目の前にいる二人の母子に存在を知られることは命取りであった。
 
「焦っておるな?そう焦るな。すぐに始まる」

 牛首の内子が大声を上げた。

 牛の鳴き声。野太く悲壮な無い声が、闇にこだました。

 内子がばたりと倒れる。
 内儀が駆け寄った。

 黒い靄が、内子の前進から沸き上がり、二人を包みこむ。
 内儀はそのことに気付かない。内子を抱きかかえる。内子の顔は牛からすでに変わってきていた。
 真っ白な内子の顔。まだ痘痕が残っているが、醜く腫れた部分が見る間に小さくなっていく。

 内儀の身体に黒い靄が吸い込まれる。目や鼻、耳からも侵入する。全身の穴という穴、毛穴すらからも靄が入っていくように、内儀に靄が集まっていた。
 
 内儀が血反吐を吐いた。内子の顔にその血がかかる。内子から離れ内儀はフラフラと牧草地へと歩いた。
 
 内儀の叫び声が空気を裂いた。

 ゴリゴリと骨と肉が砕ける音が内儀から聞こえてくる。苦しそうな嗚咽が斑目にも聞こえた。

 四つ足になり、首が太く伸びる。腰が伸び見る間に大きくなっていく。
 耳が生え、鼻が僅かに伸びた。

「止めれぬなぁ」

 斑目の目が開いた。

「そうですな興世王様。それとも今はもう名を捨てられましたか」

 鬼童丸は美しい顔に艶めかしい色香を匂わせる笑みを浮かべた。

「恐ろしいのであろう?そのまま結界にとどまっておれば、お主は生きれように」
「左様でございますな」
「母子は死ぬな」
「はい。救えませぬ」
「無力よなぁ。衆生を救えぬとは」
「はい。わたくしは無力でございます」
「迷っておるな坊主」
「恐ろしゅうございます」

 斑目は退魔剣を抜き放った。

「殺すか?それしか法はないな」

 鬼童丸は結界の縁をゆっくりと回っている。

「娘を殺すか?そのほうが容易い」

 斑目は目を閉じ、覚悟を固めている。

「母を殺すか?もしかしたら兼事は伝え終わっておるかも」

 鬼童丸が倒れた尋太の前に立つ。息をしているのが辛うじてわかる。

「もはやどちらも手遅れだろうぞ?それでもしてみるか?」

 内儀が人の顔をまま牛となっていく。びくびくと身体を震わせ、全身から血の匂いを漂わせていた。

 斑目が結界から一歩外に出た。

 人の気配に牛女となった内儀が振り向いた。

 鼻から口が伸びているが、内儀だとわかる。
 全身は黒い牛に内儀の首だけが付いている。耳も牛のそれで、ぴくぴくと震わせていた。

「あさましい姿よな坊主」
「それは貴方様が画策したことでございましょう」
「愚かな。あの女自ら望んだことよ。夫に裏切られ、虐げられた哀れな女。子にしか生きる道を見出せぬつまらぬ女。そんな愚かな糞袋を救ってやったのよ」

 牛女が身を震わせ、口を開こうとした。斑目は牛女に近づく。退魔の剣をだらりと下げ、牛女に相対した。

「惨い事を…」
「この女が望んだことぞ」
「人を殺めた目をしております」
「それもこやつが望んたことだ」

 斑目は剣を放り投げた。
 鬼童丸は目を見開く。

「貴様…」
「もうおやめくだされ。どれほど日ノ本を恨んだとて何も変わりはいたしませぬ」

 牛女が数回頭を下げた。
 斑目は手をかざす。

 牛女が嘶き、口を開いた。

「天性愚かで、不徳の宰相
 人心を惑わし、風紀を乱す
 腐った金、民の怨嗟。
 山を背に集まり、渦を巻く。
 偽りの王のあばら屋に火の手が上がり
 時は移ろい、民は打ち捨て。
 腐った都にシャレコウベ。
 牛頭の救いが民を救い…」

 延々と牛女は斑目に予言を吐きつけた。
 斑目の髪が白くなり、肌からは水が抜ける。黒い染みが浮かび、皺がそれを隠す。骨が浮きだし、肉が落ち枯れる斑目の体は腰が少しずつ曲がる。

 燃え残っていた木像の片割れが、ガタガタと揺れ一人で立ち上がった。

「うぬ!」

 鬼童丸が唸る。

 木像がひょこひょこと牛女の前まで進み、斑目との間に入ろうとした。

「おのれ!腐れ神が!」

 鬼童丸が動く。斑目に近づく木像を蹴り飛ばそうとした。

 虹色の波動が広がり、鬼童丸ははじき返された。そのまま半分になった木像は、斑目の懐に入り込んだ。
 
 斑目が趺坐を組んだ。膝の間に木像が座っている。
 老体となった斑目。しかし老化は止まっていた。

 鬼童丸が立ち上がる。牛女の兼事は止まらない。
 表現の難しい。解釈を要する兼事であった。倒れ込んだ尋太もまた著しく老化している。ほとんど骨と皮だけになり動くことも無くなっていた。

 阿吽の天命漏らしは防がれていない。永久の命を持つ鬼。鬼童丸には天命を聞いても失う命が無かった。

 牛女の瞳から血の涙が溢れ、零れ落ちる。辞めたくても兼事を止めることが出来ぬまま口からも血の泡を吐いている。

 やがて、牛女の言葉が止まった。

 闇の中に甲高い鳴き声が響く。内儀の顔をした牛女の顔が、みるみる牛へと変わっていく。
 完全に牛となった内儀。その体が足元から石となり始める。

 見る間に牛の石像となる牛女。同じように身動き一つしない斑目。

 牛女はその全体が石となり果てた。

 鬼童丸は髪を乱し、少し疲れた様子で、黒光りした牛の石像を見つめていたが、やがて満足そうに頷くと、その体を闇に溶かし隠れる。

 白々と世が空けようとする。
 斑目の膝の間にあった木像の半身が、ころりと地面に転がった。

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