猫と嫁入り

三石一枚

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二十六話

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 切り分けられた青果が小さな小皿に並べられた。子気味のよい音を鳴らしながら、その若干の硬さを見せる実には細い楊枝が立てられた。墓標のように建てられたそれは、あくまで人の指を汚さぬための手段である。これから口にするものを『汚れる』と前提的にとらえているのも如何なものと思われるが、いまだにこの疑問は私の中では解決できていないのだった。体内に経口摂取で取り入れる物質を、清潔であるべきものをあまつさえ汚れと呼称するあたりの矛盾点、もしくはそれは人体が比肩すべきでないほど清いという表れだろうが、そう評するにはあまりにも人の身体は衛生的ではないということ、明らかにこの点は説明がつかないものであることは明白なのである。とはいえど、疑問が晴れども、生活に支障を来すものでもないのだが。
 話はそれたが、手際よく剥かれた果実は抵抗の与儀すらなく刃物によって捌かれていた。衣でを失い白塗りの陶器に凭れるようにしてあるその様は、なんとも哀愁が漂うものである。

「一つもらうぞ」

 花道の兄さんは、行儀の悪いことだが、果物小刀で手ごろな果実を突き刺してそのまま口に運んだ。静かな一室でしゃくり、と軽く砕ける音がなる。
 皿はそのまま私の傍らに置かれた。蜜の乗ったリンゴは、とてもじゃないが旬を迎えていないものとは思えないほどおいしそうに映った。同時に私は、晩飯をいただいていなかったことを思い出す。無作法にも実家から即座に逃げ出した手前、飯台に並んでいたはずの今宵の食事すらも目に映さないままだったのだ。勿体ないことをしたと思う。私の分はすでに片付けられてしまっただろうか。

「どうした? 食べられないというなら、じかに食べさせてやってもいいが、どうする?」

 花道の兄さんは心配そうにそう訊いてきた。しかし私は、その申し出に「いいえ、自分で食べられます」といって、上半身をゆっくりと起こした。ぐらつく視界とつかめない距離感。いまだに体の倦怠感はひどく残っているが、何一つとして口にしないのでは、療養からは遠ざかる一方だろう。手を畳に這わせる形で皿を手に取り、黄色に輝くような果実を口に運ぶ。

「この時期に立派なリンゴが手に入るとは思わなかったよ。もともとそれは、俺がおやつとしていただくつもりだった奴なんだ。実際、お前をこうやって運び込んだのも、そして介抱の一環としてお前に出すことになったのも、実に偶然なことなんだ。狙ってやったわけじゃない」

 花道の兄さんはそう言って口元に笑みを含ませながら「奇妙なもんだな。巡り合わせとは」と付け足した。私は何も答えなかった。
 いや、答えられなかったというべきか。私の現状を鑑みるに、最高ともいえる過去のことを振り返るのは、自身がつらくなってしまうだけである。過去は過去のまま、このまま大人になってしまえばよかったと心の底から思う。このリンゴの蜜の味を再度知るには、私はあまりにも遅かった。
 倒れこんだ私をここまで運んでくれたのはきっと彼自身である。そのことには感謝してもしきれぬほどの思いが募るが、しかし同時に、やはりどこか恨めしく感じる。何もこんな時に、自身の何か、心の底の根底が揺るぎつつある今、何もこんな時に邂逅しなくてもよかったではないか、と私は彼の言う巡り合わせというものをひどく憎んだ。

「なあ、麗か。婚約の話、舞い込んできたらしいじゃないか」

 花道の兄さんはそう切り出した。直ぐ後に「母から聞いたんだ」と付け加える。
 私はうつむいた姿勢のまま

「ええ」

 とだけ返す。一つ、黄色の固形物を口へと運んだ。

「ですが、あなたが思うほどいいものではありませんよ。あくまで政略的なものです。親が勝手に決め、しかも親の事業の進み具合で私たちが結婚する時期すらも調整されてます。私たちの意思など尊重されない人形遊び。きっとお互い、相手のどこぞが気に入ったから結納を納めるわけじゃない。あくまで表向き、これは恋情にかられるほどの熱いものではなく、互いに首輪がはめられた状態から始まる、実に冷めた契約なのです」

 私は淡々と語る。語ってすぐに、余計なことを話した、と気づく。彼に愚痴をこぼしても意味がないではないか。彼はあくまで、立花家に関係のない人である。私がどんな状況に在ろうと、それを赤裸々に告白する必要はないのだ。
 単にもう直に籍を入れると、それだけ伝えればよいのだ。
 こと詳細を紡ぐなら、それすら今は危ういという補足を入れねばならないが。

「どうせ生涯を共にするなら、愛せる相手であるほうがいいと。そういいたいんだな」

「そりゃまあ。だってそうでしょう。利権が絡む結婚なんてもの、気を緩ませることができるわけないじゃないですか。環境によって、解くはずのない糸が左右されることだってあるでしょう。それにお互い、愛情で添い遂げるわけでないのならそれは、腹に何を据えるかわからぬ中で片時も離れずに暮らすということ。信頼というもので考えるならばとするならば、これほどに恐ろしいことはない。仮面をかぶって、どんな表情をしているかすら知らず暮らすのと同じです。私が思うに、結婚という名目で愛情というものが必要というのならそれは、互いが相思であるということこそが腹を割り切っている関係であるからだと思うのです」

「存外、乙女なことを言うのだな」

「わたしを何だと思ってるのですか」

 花道の兄さんは真に驚きを隠せないような表情でそういった。少し、その様子が気に食わないのでそっぽを向いてやる。

「男性である俺からすれば、少しずれが生じているかもしれんな。もちろん、家内と子に勝るものなんてないのだが、それを含めて、皆を守る、妻も子供も、そして自分を守ることに直結するのが家を守ることであるのだ。大黒柱であるからこそ、男は自分の好いた女を守り、愛し合った結果として授かった命を守る役目がある。片時も、この何より大事な宝に不穏の影が現れぬよう、守ってやる必要がある。たとえ見栄が良く、太くたくましい柱だとしても、屋根も床も土倉もない吹き抜けであったなら、雨風も熱射からも守れない。ある種、家を守るためという政略結婚も、側面的に見れば皆が幸せになるように帳尻合わすためのものともいえる。極端だが、家を守るというのは家族を守ることに直結するからな」

「では、政略結婚には、概ね理解がある・・・と?」

「あるといえばある・・・が、完璧に理解をしているわけじゃない。何から何までがんじがらめじゃ、虫の居所も悪かろうし。それにやはり、家族としてともにあるとするなら、純粋にお前の言うように相思であらねばならんだろう。親からの圧力であることを鑑みればこれは、守りたいという権利ではなく、守らなくちゃならない義務と化している。お前でいうなら、愛したいという権利ではなく、愛さねばならないという義務といった感じか。これではうまく続かない。胸の内にあらぬくすぶりを点在させたまま、その後の五十年近くを過ごすのは実にいくない」

「・・・ちょっと難しい言葉を使って、躱してはありませんか?」

「そんなことはない。ただ、言い表すのが難しいだけだ。それくらい高度なことではあるだろう。その身の一生を共にする、という行為は、決して簡単ではない。もしこれが無理強いによるものでなければ、お前も決心に至るまでにだいぶ時間を要したはずだ。今よりずっと悩んでただろうな」

 と花道の兄さんは締めくくる。締めくくる、というのは、彼の言葉を最後に私は「そうですか」としか返せなくなったからである。もしかすれば彼は私の返答を待っていたのかもしれないが、たとえそうだったとするならば、私はあえなく彼の期待を裏切る形をとってしまったことになる。
 いやに刺さる言葉であった。思えば確かに私は、親から結婚の話を持ち出される前までは家族になるということに対しては考えては来なかった。当り前といえば当り前だろう。お付き合いに発展した方がいたわけでもなければ、私自身が色恋沙汰に興味があるわけでもなかった。世に何人かは好きな人はいたわけだが、果たしてその好意が、恋情によるものか敬慕によるものか、当本人からしても不明瞭で、ざっくりと曖昧なものだった。
 そういった一般的な人が経験できるようなことをすっぽかして、いきなり私は妻としてめとられる話であったのだ。これは確かに、客観的に見ればおかしな話である。

 昨今何度か、私は幸せについて考えに考えたことがあった。悩むだけで、しかしその答えはあまりにもわからない。火の焚かれた森の中で、息苦しいうえに黒煙にもまれ続けるようなほどの焦燥と苦難を味わったが、思えば私は、幸せを感じるほど人にぞっこんをしたこともなければ、想われたこともなければ想ったこともない。
 今まで感じていた納得のなさはきっとこれである。経験不足、然るに、自らが納得できる答えを出せるほどの、恋愛たるものをしたことがない。
 結局これを、お互い身を焦がせるほどの恋愛というものをしたものにしか、結婚という行為に幸せを見出すことはできないのだろう。
 ともにあるということがどれだけ幸せかということを、私はまだ理解ができていない。実際、ともにあろうとすると、やはりどこかで歯車が合わなかったり、折り合いがつかないことがあったりするのだろうが、それでも相手が自分の惚れこんだ相手なのだからと、それを許容できる何かを、私はいまだに持ってない。
 これこそが彼の肯定した相思であらねばならない、というところだろう。私たちのように、そういった心でつながっているわけじゃない夫婦など、本当にうまくは続かない。
 見栄えのする大層な砂の城であろうと、少しばかり波にさらわれれば瓦解する、そんなものが、私は幸せとは思えない。
 少なくとも私の思っている、というか納得のいく幸せというのは、この人がいてくれてよかったと思える相手であるべきという考えだ。多分、これが最適解なのだろう。

 久しぶりに胸がすく思いになった。根本を解決できたわけじゃないが、しかしこれは邁進と呼んでも過言ではないとすら思う。

「実に、無粋なことを聞くが・・・いいか?」

 と、花道の兄さんはこわばった面持ちで訪ねてきた。情けないような表情を前に、少しばかり私も不安を募らせながら「何か?」と問う。

「気を悪くはしないでほしい。その・・・なんだ。お前の殿方とはうまくいっているのか?話に聞く限り、お前も殿方も剣呑とした雰囲気そうで心配になってな。互いが望んでいないものであったとするなら、これは拷問に近いだろう」

 と、真剣に聞いてきた。言いたいことはわかる。さっきから、私の口からはさもどちらとも望んでない婚約であると伝わりかねない言い方をしていた。

「いえ。少なくとも相手方は本気です。私をめとって、ぜひ成功させましょうと言ってくれました。本人もそう悪い人ではないのです。育ちがいいし、私みたいに看板だけが前を行く娘とでは釣り合いが取れないと思ってしまうほどよくできた人です。・・・まあ、だからこそ私もどこか引け目を感じてありましたし、こんな気持ちを持ってしまう自分に嫌悪をしたり、できるだけ彼に添えられるよう努力をしようともしました」

「ああ。向こうは乗り気なのか。それはいいことで。つんけんどんとした状態で無理に結ばせようとされてるわけではないんだな」

 花道の兄さんは安堵を見せる物言いとともに、少しばかり寂しそうな表情をともした。彼はやはりどこか、私のことを妹か何かのようにしか見てなさそうでならない。
 とはいえど、その契約すらが白紙になるほどの騒動が立花家であったという事実はまだ彼は知らないわけだが。

「正直、さっきの話で言うなら、婚約者の相手も私からすればやはりどこか合わないのですよね。顔合わせも結局は結婚前提、二人して相思になったわけでもなければ、いまだに引け目負い目を感じているのにもう直に契約は満了するかもしれないと来ています。彼のことは上っ面でしか知らないし、たとえ彼の本性が今見てるものですべてで、揺るがない紳士であったとしても、それはそれでどこか私には実に勿体ない方なんですよ。たとえどれだけ品行方正につとめたとしても、それは私の上っ面で、こういう汚い部分を見せられる相手ではないでしょうから。私が求める幸せとはあまり近しいものではない」

 といって私はリンゴの欠片を口に放り込む。舌に転がした果実が、甘い味を出しながら軽くほどけた。

「それは仕方がないことだろう。お前のそういう愚痴性分は知ってるが、隠すしかない。だがこの世界のどこにも、身も心も清らかなる夫人何て化け物は存在しないだろう。お前ほど黒い奴のほうが、何分ちょうどよかったりする。それこそ、人らしいだろう」

 みじんに砕いたものを嚥下し、鼻に通る香りを楽しむ。そしてふと、リンゴの刺さった楊枝を取ろうとする手を、止めた。

「もし、私が立花家ではなく、普通の家の娘であったとして、いえ、立花家自体が普通の家だったとして。そんな素敵な設定の世界があったなら、私は今頃、幸せとやらを理解できたのでしょうか」

 例えばそんな世界があったなら、どこかまた、ちがう運命をたどっていたのかもしれない。ふとよぎるそんな妄想に、私は耽る。

「さあな。今よりは自由かもしれないが、しかしその前にそう思わせてくれる思い人が必要だろう。少なくとも、今までの話を要約すれば、そういうをお前は見つけ出さねばならない」

「・・・とっくに目星はついているんですよ。きっとその設定の世界でも、同じように私とつるむであろうその人が、きっと私に理解させてくれる人だ」

 少なくとも今よりずっと、直接的に告げることはできたであろうことが多すぎる。
 私の唐突につぶやいた一言に、花道の兄さんは瞳を真ん丸くさせて固まる。

「えっ誰?」

 と、大げさなほどに肩を波立たせた彼に「知らないんですか?」と、わざとらしく答え、最後の一個となった果実を口に含む。
 一呼吸を置いて

「私、あなたが思っている以上に、人との関わり、多いんですよ」

 と嘘をついた。
 やめよう。さらりと言うには、いささか意地悪が過ぎる。
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