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可愛くない隣人編
疑惑の隣人
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「おはようございます」
「ああ、もっちー、おはよ」
休憩室に入るとすでに、フロアチーフの菱沼が着替えて煙草をふかしているところだった。
菱沼はミュージカル俳優をしながら、この新宿東口店でアルバイターとして10年務めている男性だ。均整のとれた長身に、外国人を思わせる彫の深い顔立ち。手が早いとアルバイトの女性スタッフからは評判だが、本当のところを亜紀は知らない。30代前半らしいが、もっと若く見える。
「今日も早いですね。また負けちゃいましたよ。」
「いやー、早朝レッスンの後で来てるからね。時間が空いちゃうの。もっちー相手してくれる??」
他の人にお願いしてくださいねー、と一言置いて亜紀は更衣室へ行く。
「もっちーがかまってくれなくて僕、寂しい。」
後ろでつぶやく声が聞こえたが、亜紀は聞こえないふりをした。
そうか、真志の言葉を簡単に流せるのは、この常に軽口を振りまく彼との相手に慣れているからかもしれない。納得して、亜紀は黙々と着替え始めた。
「あ、持田さん、おはよー」
着替えから戻ると、店長が出勤していた。
「おはようございます。」
「ちょうどよかったよ。」
座って、と促され、休憩室の椅子に腰掛ける。
にこにこと邪気のない笑顔で店長が、亜紀に差し出したのは、茶色の封筒だった。黙って渡されたので、亜紀はそれをそっと開けた。
『店長内示のご案内』
「え、これって……」
「今度、新店がオープンする話があがっているんだ。そこで、優秀な人材が何人か欲しいっていう話になっていてね。」
まだ決定ではないのだけど、と店長はいいおいて、亜紀に告げた。
「持田さんにはもしかしたら、店長として行ってもらうかもって話になってる。」
「大事な新店の店長を…私が…?」
「本当だったら新店だし、ベテランがやるって話なんだけど、小規模な店だし、今人も足りてないじゃない?あえて福店の中から選ぼうかって話がでてるんだ。持田さんももう、店長試験に受かってから随分立つじゃない?君が優秀だって話は上も知っているからさ。」
「そんな……」
頬が緩みそうになるのを、亜紀はぐっと抑え込む。
「まだ何人か候補がでてて、今度、エリアマネージャー以下が店長候補を見に来るから、それ次第だけどね。」
でも僕は多分持田さんが選ばれるって思ってる、と店長が笑った。
***
やったぁぁぁ―――
気を抜くと緩みそうになる頬を抑えながら、亜紀は新宿の街を歩く。
別に店長にどれほどなりたかったわけではなかった。ただ、自分が今までやってきた接客やマネジメントが評価されたのだとしたら、ちょっと嬉しい。
新卒で入社して早3年。同期の中では一番早く副店長になったものの、なかなか店長に上がれず、日の目を見ることがなかった。それがようやく――。
仕事は今より忙しくなるかもしれないが、その分給料も上がるし、なにより裁量が増える。ちょっと興味のあった本社勤務の道も遠くないかもしれない。そう思うと、スキップして歩きたくなる気持ちを亜紀は抑えた。
自分へのご褒美と称して、少し高いコンビニケーキを持ち帰り、意気揚揚と部屋へ帰った亜紀を迎えたのは、けれど、騒々しい声達だった。
若者たちの、笑い声と机をたたく音に、亜紀はさすがに眉をしかめた。
――いくらなんでも騒ぎ過ぎでしょ。
ちょうど真志の部屋から何人か外へでてきたところだった。全員べろべろで、顔が赤い。あまり近寄りたくない亜紀は、身を縮めてこっそりその後ろを通り抜ける。
と、鍵を開けようとした段階で、先ほどの学生の一人が亜紀に声をかけた。
「あ、お姉さん、真志の隣の家の人―?結構可愛いじゃん。」
酔っぱらいの相手をしてやる義理もないので、曖昧に笑ってそのまま部屋に入ろうとする。
「真志は今度は何日で落とせるのかなぁぁ?」
無遠慮に顔を眺められ、亜紀はさすがに顔をしかめた。
ちょっと、初対面の女性にその態度はないんじゃないの。むっとして、何か言い返そうかと考えていた時、真志が部屋から出てきた。
「お前ら、からむのやめろって。」
亜紀の顔を眺めていた学生の首根っこをつかみ、背を押す。
「ほら、さっさと買い出し行って来い。」
ぶーぶー文句を言いつつ、彼らが階下へおりると、ふぅっと真志がため息をついた。こちらはまだ余力があるのか、ほんのり頬は赤いものの、足取りはしっかりしている。
「亜紀ちゃん、ごめんね。」
いつものように眉尻を下げて謝られる。
「―――前も言ったと思うけど、節度は守ってね。さすがにうるさすぎるよ。」
「あっ……ごめん。」
「別にいいけど。」
おやすみ、とドアを開けようとしたところで、真志に腕をひかれた。
「何?」
「亜紀ちゃん、怒ってるからさ。」
「……………普通に怒るレベルだよ?」
う、ごめん、と真志が顔をしかめた。
「でも、亜紀ちゃんには俺、嫌われたくないからさ。」
いつもだったら、この弱った顔にほだされてしまうところだが、なんとなく先ほどの学生の言葉がちらつき、心がささくれ立つ。
「―――はいはい、分かりましたよ。おやすみー。」
まだ何か言いたそうな真志を置いて、部屋の中へ入る。扉を閉めて一拍、亜紀ははぁぁと大きなため息をついた。
『今度は何日で落とせるかなぁ』
なんだかんだと可愛くじゃれてくる姿に、兄弟のような気安さと親しみを覚えていた。でも、それがすべて計算されてのことだとしたら、なんとなくへこむ。
別にそんなつもりもなかったのに、年下の男の子とのラブロマンスを期待しているように思われていたなら心外だ。自身を軽んじられた気がして腹がたつ。
『でも、亜紀ちゃんには俺、嫌われたくないからさ。』
賭けでもしてんのかな………6つも年上の女を捕まえて、暇つぶしとは。学生さんはいいご身分ですこと。と、毒づき、亜紀はなんとなく晴れない気持ちに見ないふりをした。
高揚していた気分はすっかり冷めてしまっていた。
「ああ、もっちー、おはよ」
休憩室に入るとすでに、フロアチーフの菱沼が着替えて煙草をふかしているところだった。
菱沼はミュージカル俳優をしながら、この新宿東口店でアルバイターとして10年務めている男性だ。均整のとれた長身に、外国人を思わせる彫の深い顔立ち。手が早いとアルバイトの女性スタッフからは評判だが、本当のところを亜紀は知らない。30代前半らしいが、もっと若く見える。
「今日も早いですね。また負けちゃいましたよ。」
「いやー、早朝レッスンの後で来てるからね。時間が空いちゃうの。もっちー相手してくれる??」
他の人にお願いしてくださいねー、と一言置いて亜紀は更衣室へ行く。
「もっちーがかまってくれなくて僕、寂しい。」
後ろでつぶやく声が聞こえたが、亜紀は聞こえないふりをした。
そうか、真志の言葉を簡単に流せるのは、この常に軽口を振りまく彼との相手に慣れているからかもしれない。納得して、亜紀は黙々と着替え始めた。
「あ、持田さん、おはよー」
着替えから戻ると、店長が出勤していた。
「おはようございます。」
「ちょうどよかったよ。」
座って、と促され、休憩室の椅子に腰掛ける。
にこにこと邪気のない笑顔で店長が、亜紀に差し出したのは、茶色の封筒だった。黙って渡されたので、亜紀はそれをそっと開けた。
『店長内示のご案内』
「え、これって……」
「今度、新店がオープンする話があがっているんだ。そこで、優秀な人材が何人か欲しいっていう話になっていてね。」
まだ決定ではないのだけど、と店長はいいおいて、亜紀に告げた。
「持田さんにはもしかしたら、店長として行ってもらうかもって話になってる。」
「大事な新店の店長を…私が…?」
「本当だったら新店だし、ベテランがやるって話なんだけど、小規模な店だし、今人も足りてないじゃない?あえて福店の中から選ぼうかって話がでてるんだ。持田さんももう、店長試験に受かってから随分立つじゃない?君が優秀だって話は上も知っているからさ。」
「そんな……」
頬が緩みそうになるのを、亜紀はぐっと抑え込む。
「まだ何人か候補がでてて、今度、エリアマネージャー以下が店長候補を見に来るから、それ次第だけどね。」
でも僕は多分持田さんが選ばれるって思ってる、と店長が笑った。
***
やったぁぁぁ―――
気を抜くと緩みそうになる頬を抑えながら、亜紀は新宿の街を歩く。
別に店長にどれほどなりたかったわけではなかった。ただ、自分が今までやってきた接客やマネジメントが評価されたのだとしたら、ちょっと嬉しい。
新卒で入社して早3年。同期の中では一番早く副店長になったものの、なかなか店長に上がれず、日の目を見ることがなかった。それがようやく――。
仕事は今より忙しくなるかもしれないが、その分給料も上がるし、なにより裁量が増える。ちょっと興味のあった本社勤務の道も遠くないかもしれない。そう思うと、スキップして歩きたくなる気持ちを亜紀は抑えた。
自分へのご褒美と称して、少し高いコンビニケーキを持ち帰り、意気揚揚と部屋へ帰った亜紀を迎えたのは、けれど、騒々しい声達だった。
若者たちの、笑い声と机をたたく音に、亜紀はさすがに眉をしかめた。
――いくらなんでも騒ぎ過ぎでしょ。
ちょうど真志の部屋から何人か外へでてきたところだった。全員べろべろで、顔が赤い。あまり近寄りたくない亜紀は、身を縮めてこっそりその後ろを通り抜ける。
と、鍵を開けようとした段階で、先ほどの学生の一人が亜紀に声をかけた。
「あ、お姉さん、真志の隣の家の人―?結構可愛いじゃん。」
酔っぱらいの相手をしてやる義理もないので、曖昧に笑ってそのまま部屋に入ろうとする。
「真志は今度は何日で落とせるのかなぁぁ?」
無遠慮に顔を眺められ、亜紀はさすがに顔をしかめた。
ちょっと、初対面の女性にその態度はないんじゃないの。むっとして、何か言い返そうかと考えていた時、真志が部屋から出てきた。
「お前ら、からむのやめろって。」
亜紀の顔を眺めていた学生の首根っこをつかみ、背を押す。
「ほら、さっさと買い出し行って来い。」
ぶーぶー文句を言いつつ、彼らが階下へおりると、ふぅっと真志がため息をついた。こちらはまだ余力があるのか、ほんのり頬は赤いものの、足取りはしっかりしている。
「亜紀ちゃん、ごめんね。」
いつものように眉尻を下げて謝られる。
「―――前も言ったと思うけど、節度は守ってね。さすがにうるさすぎるよ。」
「あっ……ごめん。」
「別にいいけど。」
おやすみ、とドアを開けようとしたところで、真志に腕をひかれた。
「何?」
「亜紀ちゃん、怒ってるからさ。」
「……………普通に怒るレベルだよ?」
う、ごめん、と真志が顔をしかめた。
「でも、亜紀ちゃんには俺、嫌われたくないからさ。」
いつもだったら、この弱った顔にほだされてしまうところだが、なんとなく先ほどの学生の言葉がちらつき、心がささくれ立つ。
「―――はいはい、分かりましたよ。おやすみー。」
まだ何か言いたそうな真志を置いて、部屋の中へ入る。扉を閉めて一拍、亜紀ははぁぁと大きなため息をついた。
『今度は何日で落とせるかなぁ』
なんだかんだと可愛くじゃれてくる姿に、兄弟のような気安さと親しみを覚えていた。でも、それがすべて計算されてのことだとしたら、なんとなくへこむ。
別にそんなつもりもなかったのに、年下の男の子とのラブロマンスを期待しているように思われていたなら心外だ。自身を軽んじられた気がして腹がたつ。
『でも、亜紀ちゃんには俺、嫌われたくないからさ。』
賭けでもしてんのかな………6つも年上の女を捕まえて、暇つぶしとは。学生さんはいいご身分ですこと。と、毒づき、亜紀はなんとなく晴れない気持ちに見ないふりをした。
高揚していた気分はすっかり冷めてしまっていた。
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