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第1章 逃げ出した花嫁
2話 そして花嫁は逃げ出した⑵
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シャナス公国はソルダン島とリングール島の中間に位置する、ソルダニア帝国に属する島国だ。
レインリット・メアリエール・オフラハーティは、第十六代ソランスター伯オーウィンの長女として生を受けた。強く逞しい父と美しく優しい母、そして面倒見のよい七歳上の兄ファーガルに囲まれて、レインリットはすくすくと成長していった。
美しく輝く紅い髪とこぼれ落ちそうなほど大きな緑色の瞳、そして日焼けしない白い肌。そんなレインリットは、密かに『ソランスターの妖精』と呼ばれていた。もっとも、負けず嫌いなレインリットは、兄の後を追って勉強や乗馬に励んだり、内緒で公国海兵の戦艦に乗せてもらうようなお転婆な性格だ。父や兄からは、妖精は妖精でも『いたずら妖精』と揶揄われていたものだ。
そんな幸せな一家の生活は、ソルダニア帝国と長らく対立するバルタイユ王国との戦争が始まったことを機に終わりを告げる。ティルケット砦の戦いにおいて兄ファーガルが戦死したのだ。元々肺を患っていた母はその凶報を受けた後に倒れ、回復することもなく他界した。そして遺された父オーウィンも悲しみから酒に溺れ、去年の冬に酔った状態で馬に乗り事故死してしまった。
――叔父様が……いえ、クロナンがこの家にやって来てからよ。お父様の様子がおかしくなったのは。
馬車に揺られながら、レインリットはヴェールの隙間からクロナンを睨みつける。クロナンが屋敷に出入りし始めたのは兄が戦死した後からだ。レインリットからしてみれば、いきなり現れたクロナンから、シャナス公国海軍の少将として部下や領民たちから慕われていた父が「酒に溺れて賭博に手を出し、莫大な借金を作ってしまった」などと説明されても到底信じられなかった。
――この男のせいで死に追いやられたに違いないわ。
しかしレインリットは兄や母の喪に服しており、社交界デビューを果たしていなかった。そのせいで大人とはみなされず、どうしようもなかった。まだ十八歳になっていなかった当時は、遺産すら凍結されており、後見人なくしては何もできなかったからだ。後見人が誰なのかレインリットは知らない。荒れた生活を送っていたという父の書斎は書類や酒瓶などが散乱しており、そこに都合よく『異母弟』として名乗り出たクロナンにより、あれよあれよという間にすべてを奪われてしまった。
――お父様、何故この男を信用なさったのですか?
思い出が詰まった屋敷に、レインリットの居場所はもうない。昔から仕えてくれいた家令も執事も侍女も従僕も、みんないなくなってしまった。唯一、レインリットの侍女であるエファが残されたものの、女二人では何もできなかった。
――絶対、この男の言いなりになんてならない。
レインリットが小窓の外に目をやると、馬車は街中を通り過ぎ、教会に繋がる道に差し掛かっていた。もうすぐレインリットは、半ば売られるようにして結婚しなければならない。喪が明けた今年、クロナンの手引きにより屈辱の社交界デビューを果たしたレインリットは、強引な縁談により親子ほど年の離れたオードラン・ウェルシュと結婚することが決まったのだから。
――この男にソランスター伯の称号を渡すくらいなら。
ソランスター伯の称号は、生きていれば兄が、兄がいない今はレインリットの夫となる者が受け継ぐはずであった。クロナンは子爵位を持つウェルシュと何らかの取り引きをし、ソランスター伯の称号を辞退させるつもりだ。そして称号を我が物にしようと企んでいる。
「初代ソランスター伯の名に誓って、必ず阻止してみせます」
「何だ、言いたいことでもあるのか?」
思わず口に出してしまったレインリットの決意が、クロナンの耳に聞こえたようだ。にやにやとしたいやらしい笑みを浮かべながら、クロナンは立て掛けてあった杖を握るとレインリットのドレスの裾を突く。
「いえ……よくもまあ、このように無駄に豪華なドレスを作ったものだと思いまして」
「素晴らしいではないか。我らがソルダニア帝国ジリアン妃殿下の婚礼衣装よりも豪華に! 縫い付けてある宝石は遥か遠くイリオハンから取り寄せたと聞いている。お前が従順な限りその財はお前のものだ」
「子爵様の財に興味はありません」
「はっ! 口だけの子供が。お前がどんなに嫌だろうとこの結婚は無効にならない。ほら見てみろ、教会に着いたぞ」
クロナンの言葉に外に目を向けると荘厳な教会が見えた。生け贄の花嫁たるレインリットにとって、そこはまるで地獄の門のように思える。
愉悦の笑みをたたえるクロナンを尻目に、レインリットは居住まいを正して立ち上がる準備を始めた。キラキラと光る虹色の宝石を指で摘むと、馬車の音に紛れさせてブチブチと千切っていく。興味はないとは言ったものの、この宝石があれば換金してお金に変えることもできる。
やがて馬車が止まると、前に乗っていた御者が降りた。ガチャガチャと鍵を開ける音に、レインリットはじっと機を待つ。
「さて、我が姪レインリット……お別れだよ」
御者の差し伸べた手に掴まり、よろめきながら身を起こしたクロナンは馬車の中を振り返り――
「永遠にご機嫌よう叔父様……いえ、地獄に落ちなさい、クロナン・ヒギンズ!」
「な、何だこれはぁぁぁっ!」
ドレスの裾を捲り上げたレインリットは、手をかざしてキラキラと光る粒のようなものをクロナンの顔に噴きかける。そしてヒールを履いた右脚でお尻を蹴り飛ばすと、不意を突かれたクロナンは鈍い音を立てて馬車から転がり落ちた。
レインリット・メアリエール・オフラハーティは、第十六代ソランスター伯オーウィンの長女として生を受けた。強く逞しい父と美しく優しい母、そして面倒見のよい七歳上の兄ファーガルに囲まれて、レインリットはすくすくと成長していった。
美しく輝く紅い髪とこぼれ落ちそうなほど大きな緑色の瞳、そして日焼けしない白い肌。そんなレインリットは、密かに『ソランスターの妖精』と呼ばれていた。もっとも、負けず嫌いなレインリットは、兄の後を追って勉強や乗馬に励んだり、内緒で公国海兵の戦艦に乗せてもらうようなお転婆な性格だ。父や兄からは、妖精は妖精でも『いたずら妖精』と揶揄われていたものだ。
そんな幸せな一家の生活は、ソルダニア帝国と長らく対立するバルタイユ王国との戦争が始まったことを機に終わりを告げる。ティルケット砦の戦いにおいて兄ファーガルが戦死したのだ。元々肺を患っていた母はその凶報を受けた後に倒れ、回復することもなく他界した。そして遺された父オーウィンも悲しみから酒に溺れ、去年の冬に酔った状態で馬に乗り事故死してしまった。
――叔父様が……いえ、クロナンがこの家にやって来てからよ。お父様の様子がおかしくなったのは。
馬車に揺られながら、レインリットはヴェールの隙間からクロナンを睨みつける。クロナンが屋敷に出入りし始めたのは兄が戦死した後からだ。レインリットからしてみれば、いきなり現れたクロナンから、シャナス公国海軍の少将として部下や領民たちから慕われていた父が「酒に溺れて賭博に手を出し、莫大な借金を作ってしまった」などと説明されても到底信じられなかった。
――この男のせいで死に追いやられたに違いないわ。
しかしレインリットは兄や母の喪に服しており、社交界デビューを果たしていなかった。そのせいで大人とはみなされず、どうしようもなかった。まだ十八歳になっていなかった当時は、遺産すら凍結されており、後見人なくしては何もできなかったからだ。後見人が誰なのかレインリットは知らない。荒れた生活を送っていたという父の書斎は書類や酒瓶などが散乱しており、そこに都合よく『異母弟』として名乗り出たクロナンにより、あれよあれよという間にすべてを奪われてしまった。
――お父様、何故この男を信用なさったのですか?
思い出が詰まった屋敷に、レインリットの居場所はもうない。昔から仕えてくれいた家令も執事も侍女も従僕も、みんないなくなってしまった。唯一、レインリットの侍女であるエファが残されたものの、女二人では何もできなかった。
――絶対、この男の言いなりになんてならない。
レインリットが小窓の外に目をやると、馬車は街中を通り過ぎ、教会に繋がる道に差し掛かっていた。もうすぐレインリットは、半ば売られるようにして結婚しなければならない。喪が明けた今年、クロナンの手引きにより屈辱の社交界デビューを果たしたレインリットは、強引な縁談により親子ほど年の離れたオードラン・ウェルシュと結婚することが決まったのだから。
――この男にソランスター伯の称号を渡すくらいなら。
ソランスター伯の称号は、生きていれば兄が、兄がいない今はレインリットの夫となる者が受け継ぐはずであった。クロナンは子爵位を持つウェルシュと何らかの取り引きをし、ソランスター伯の称号を辞退させるつもりだ。そして称号を我が物にしようと企んでいる。
「初代ソランスター伯の名に誓って、必ず阻止してみせます」
「何だ、言いたいことでもあるのか?」
思わず口に出してしまったレインリットの決意が、クロナンの耳に聞こえたようだ。にやにやとしたいやらしい笑みを浮かべながら、クロナンは立て掛けてあった杖を握るとレインリットのドレスの裾を突く。
「いえ……よくもまあ、このように無駄に豪華なドレスを作ったものだと思いまして」
「素晴らしいではないか。我らがソルダニア帝国ジリアン妃殿下の婚礼衣装よりも豪華に! 縫い付けてある宝石は遥か遠くイリオハンから取り寄せたと聞いている。お前が従順な限りその財はお前のものだ」
「子爵様の財に興味はありません」
「はっ! 口だけの子供が。お前がどんなに嫌だろうとこの結婚は無効にならない。ほら見てみろ、教会に着いたぞ」
クロナンの言葉に外に目を向けると荘厳な教会が見えた。生け贄の花嫁たるレインリットにとって、そこはまるで地獄の門のように思える。
愉悦の笑みをたたえるクロナンを尻目に、レインリットは居住まいを正して立ち上がる準備を始めた。キラキラと光る虹色の宝石を指で摘むと、馬車の音に紛れさせてブチブチと千切っていく。興味はないとは言ったものの、この宝石があれば換金してお金に変えることもできる。
やがて馬車が止まると、前に乗っていた御者が降りた。ガチャガチャと鍵を開ける音に、レインリットはじっと機を待つ。
「さて、我が姪レインリット……お別れだよ」
御者の差し伸べた手に掴まり、よろめきながら身を起こしたクロナンは馬車の中を振り返り――
「永遠にご機嫌よう叔父様……いえ、地獄に落ちなさい、クロナン・ヒギンズ!」
「な、何だこれはぁぁぁっ!」
ドレスの裾を捲り上げたレインリットは、手をかざしてキラキラと光る粒のようなものをクロナンの顔に噴きかける。そしてヒールを履いた右脚でお尻を蹴り飛ばすと、不意を突かれたクロナンは鈍い音を立てて馬車から転がり落ちた。
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