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第一部 三章
ソルライト商会 4
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「ルシエラ、来てくれたのね!」
一時間ほどして、慌てた女性の足音と声が部屋の中に響いた。
外で遊んでいたらしい子供たちに手を引かれ、修道女のような装いをした老女が姿を現す。
最初は少女──メシア一人だったが、いつの間にか増えている子供に本を読み聞かせていたアルトは、声の主の方に視線を向けた。
手にはバスケットを持っており、果物やパンなどの食べ物がこれでもかと入っているのが見て取れた。
「いやぁ……待ちくたびれましたよ、フランツ先生」
いつの間にか大の字で寝転がり、子供たちの好きなように遊ばせていたルシエラが間延びした声を出す。
「まったく貴方は行儀の悪い……公爵様を連れて来てくれたのはいいけれど、もっとしっかりなさい」
失礼でしょう、とフランツはやや怒り口調で言った。
「お待たせしてしまって申し訳ございません。少し道に迷ってしまって……」
アルトが見ていることに気付いたフランツは、バスケットを少年の手に任せると丁重に頭を下げた。
「子供たちのために手を尽くして頂いて……本当に、本当にありがたい限りです」
ありがとうございます、とフランツは瞳に涙を浮かべて微笑んだ。
「あ、いや。俺が好きでルシエラに着いてきただけなんで。むしろ、これくらいならいつでもお安い御用です」
微笑みを浮かべて言うとそこで言葉を切り、本を閉じる。
半円になって読み聞かせを聞いていた少年少女たちの顔を、一人ずつ見回した。
「フランツ先生と話してくるから、少しの間ミハルド──あの人の所に行っててくれるか?」
すぐに済むから、と続けながらアルトはミハルドのいる方向を指し示す。
ミハルドは窓際にあるテーブルで、院内での年長らしい少年とチェスをしていた。
頭を使うのは苦手なようで、周囲で野次を飛ばしている幼い者たちに教えられながら時折唸っている。
「……わかった」
「ぜったい、ぜーったいつづきよんでね!」
「ミハルドさーん!」
ある子は落ち込み、ある子は目を輝かせて約束の指切りをし、またある子はアルトが言い終わるよりも早くミハルドの元に一目散に駆けて行った。
「うっ……!」
それなりの体重のある子供にいきなり突撃され、さすがのミハルドも悲痛な声を出した。
それに苦笑し、アルトは心の中で謝罪する。
(ごめん、ミハルドさん)
さすがのミハルドであっても、一人でほとんどの相手をするのは疲れてしまうだろう。
「それじゃ、早いとこ終わらせましょうか」
すると、アルトの心情に呼応するように、いつの間にかルシエラがフランツの隣りに立っており、薄く笑みを浮かべて言った。
どうやらアルトが何を言うか、この男には既に分かっているらしい。
(そもそも、これはルシエラが頼んできた事なんだ)
アルトは呼吸を整え、ゆっくりと唇を開く。
「ルシエラから病気の子が何人か居ると聞きました。いつから体調が悪くなったのか教えてくれますか」
フランツはやや目を見開いたものの、何事もなかったように微笑んだ。
「ええ。……子供たちの前で話すのもなんですし、こちらにいらしてください」
フランツの先導で孤児院を出ると、敷地内にひっそりとあった小屋のような場所に連れて行かれた。
「どうぞお入りになって」
フランツに促され、アルトはゆっくりと扉の前に立った。
(ここに……)
この扉の先には病に冒された子供たちが居る──そう分かってはいても、どうにも扉を開ける勇気が出なかった。
どれほど酷いのかこの目で見ない事には手の施しようがないのに、アルトは最後の最後で怖気付いてしまっている。
(俺は……いつもこうだ)
肝心なところで決断できず、やっと行動に移そうとした時には手遅れになっている。
そうした理由もあってか、元の世界で仕事をするにしても要領が悪く、周囲に迷惑を掛けてしまった事も多々あった。
己の変化を恐れ、その場でずっと足踏みしている──頭では分かっていても、意思と身体は真逆の行動を取ってしまうのだ。
(でも自分の出来る事は出来るだけする、って決めたんだ。今更投げ出しちゃ、子供たちにも悪い)
アルトが悩んでいるわずかな時間を取っても、刻一刻と命の灯火が消えていく可能性もあった。
すると肩に温かいものが触れる。
そろりと背後を振り向けば、ルシエラの瞳と視線が交わった。
(あ……)
大丈夫だ、と夜空に似た瞳が言っている。
それでもアルトの不安を感じ取ったらしいルシエラが、柔らかく微笑んで言った。
「大丈夫、何かあれば俺がいるから。お前はただ、思ったまま命じてくれたらいいんだ」
いつになくゆっくりとしたルシエラの言葉は、アルトの耳にじんわりと響いた。
その言葉は『アルト』が無茶振りを繰り返していたのが確定し、笑いが込み上げる。
(馬鹿だな、俺も。こんな事で悩むなんて)
元からルシエラが傍にいるのなら、アルトが心配する必要はないのだ。
ルシエラは『アルト』の対応に慣れてしまっているためか、ちょっとやそっとの事ではそう驚かない。
そんな確信にも似た感情がアルトの中に湧き上がった。
アルトはもう一度呼吸を整え、扉に手を伸ばす。
「……っ」
扉を開けると、薬の充満した得も言われない臭いが一気に鼻腔に入り、アルトは図らずも鼻を覆う。
薄暗い部屋には簡易ベッドが並べられており、十歳前後ほどの少年少女が五人寝かされていた。
「──この近辺は」
扉の境目に佇むフランツが、悲痛な声で言葉を紡ぐ。
「貴族の方が多くいらっしゃいますが、小さな孤児院には資金の手が行き渡っていないのが現状です」
フランツが言うにはこうだ。
ここレノシクス孤児院は、フランツの祖母の代に設立されたという。
しかし、自分の代になってからは大きな孤児院が点在するようになり、貴族はこぞってそちらに資金を入れるようになった。
新たに都市開発が進み、お零れのような土地に半ば追いやられてしまった事。
孤児院に居る子供たちは、フランツが街に買い物や働きに出ている時に出会ったのだという。
「メシアなどがそうです。……あの子は物心付いてすぐ、親に捨てられたと言います。薄汚れて、自慢の髪も黒くなっていて……今思い出しても胸が苦しくなります」
フランツは小屋に入り、消えかかっている蝋燭を一つずつ灯していく。
ぼんやりと病に冒されている子供たちの顔が目に入り、アルトはぎゅうと手の平を握り締めた。
全員を医者にかからせる金はなく、このままでは次第に儚くなってしまうのも時間の問題だといえた。
幼い命をなんとしても救いたい──フランツの言葉の節々からは、そんな感情が込められていた。
「公爵様」
最後の蝋燭を灯したフランツが、ゆっくりとアルトに視線を向けた。
「私がどんなに頑張ろうと、このままではすべての子供たちは救われません」
フランツは瞳を伏せ、ベッドで眠る一人の少年の額を撫でた。
ぼうっと浮かんだ顔色はどんよりと青白く、苦しそうに胸が上下していた。
今にもくずおれてしまいそうなフランツに気付いてか、そっとルシエラが彼女の肩を支える。
「どうか、どうか、この子たちを助けては頂けませんか……?」
どうかお願いでございます、とフランツは涙混じりの声で頭を下げた。
(この人、は)
アルトはその姿に一種の同情の念すら覚える。
フランツは悔しいのだ。
成長期の子供たちを満足に食べさせていける余裕も、病気になった時に満足な治療を受けさせてやれない不甲斐なさも。
本来ならば先に死に行くのはフランツだが、あまりにも短い命の灯火が消えるのを間近で見るのはどんなに辛いか想像に難くない。
「……分かりました」
アルトはこれからの事をどうするか考えるよりも早く、そう言葉にしていた。
フランツの姿を見て匙を投げるなど、きっと『アルト』はしないはずだ。
まっすぐにフランツを見据え、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「どれほど必要かはルシエラに伝えてください。出来るだけ、いや……もういらないって言うくらい支援させて頂きます」
それは紛れもない了承で、次第にフランツの瞳から涙が一筋伝った。
「ありがとうございます……!ありがとう、ありがとう、本当に……」
フランツは顔を両手で覆い、肩を震わせながら何度も礼を述べた。
「……な、先生。アルトなら大丈夫って言っただろ」
小さな肩を支えるルシエラの手も心なしか震え、しかしすぐに支え直すように肩を抱く。
「これから忙しくなるぞ、公爵様」
アルトを見つめ、ルシエラは片頬を上げた。
それがどういう意味なのか理解しているが、子供たちの命を救えるのならば己の睡眠など易いものだ。
「任せろ、徹夜してでも孤児院の皆を助けるから」
「──そろそろ戻らないとじゃないか?」
ふと窓の外を見たルシエラが言う。
「……もうそんな時間なのか」
アルトはテーブルに向けていた視線を上げ、ルシエラに倣って窓の方に顔を向ける。
小屋から出た時はまだ日が高く昇っていたが、今では空が宵闇に染まっていた。
昼前に邸を出たため、午後のほとんどは孤児院に居たといってもいい。
アルトはミハルドの姿を探すため、椅子から立った。
「……うわっ」
アルトは図らずも素っ頓狂な声を出す。
椅子の近くにまでぬいぐるみが落ちており、少し視線を移せば積み木や絵本などがそこかしこに散乱している。
身体はルシエラの方に向いていたが、背後が少し騒がしいとは思ったものの、まさかこれ程とは思ってもいなかった。
「──あの、もう少しだけ。あと少しお待ちを……!」
不意に悲鳴じみた声が聞こえ、そちらに視線を動かす。
「やぁだー!」
「もっと動いてー!」
ミハルドは孤児院の皆に懐かれていたようで、床に突っ伏したままの状態で六人の幼い子供に馬乗りにされていた。
どうやらミハルドがその場を少しも動かなくなったため、遊び足りない子供たちらしい。
なんとも助けようか迷う構図にアルトが悩んでいると、そっとルシエラの声が掛かった。
「アルト、ちょっと」
「どうした」
手招きされ、ミハルドから視線を外す。
「毎日鍛錬しているのに、こんな体たらくでは……陛下に、ライアン様に嫌われてしまう……」
ミハルドはボソボソと同じ言葉を繰り返しているが、既にアルトには聞こえていなかった。
「お前、確かこのまま王宮に戻るんだろ?」
「へ、なんでそれを……」
ルシエラにはその話をしておらず、どこから伝わったのかアルトの中に疑問が浮かぶ。
「ミハルドさんが言ってた」
それから、とルシエラはぐいと肩を抱いてくる。
「何かあれば王宮に宛てて手紙を書いてくれ、ってのも聞いたけど……邸には帰れないのか?」
「あ、ああ……ちょっと、な」
そもそも、このまま帰ろうものなら直々に王太子が邸にやってくる、とはとても言えずアルトは曖昧に濁した。
(俺だって王宮より邸に帰りたいよ……)
しかしエルとの約束を破っては、その後何をされるか分かったものではない。
アルトはそれが怖かった。
(あ、気にしだしたらまた痛くなってきた……)
今までなんともなかった身体、特に下半身に鈍痛にも似た痛みが走る。
昨日の今日で、さすがに手を出す事はないと信じたいが、エルは腹の底が読めないのだ。
眩しいほどの美しい微笑みで迫られ、結局のところ流されてしまう己にも問題はあるのだが。
(でも、なんであいつは俺を離してくれないんだろう)
そういえば、とアルトは思いを巡らせる。
聞こうにも聞けなかったが、エルが自身に執着する意味が未だに分からなかった。
一目惚れしたという、天地がひっくり返っても有り得ない事が起こらない限り、エルが『アルト』と接触する機会はほとんどないはずなのだ。
「そもそも公爵だし、前みたく広間で謁見とか……何かのイベントとかに参加するよな、多分」
「お? 何か言った?」
アルトの独り言を耳ざとく拾ったらしいルシエラが、さも面白そうな声音で問うた。
「なんでもない。──皆、もう帰るからミハルドさんから退いてやってくれるかな?」
ルシエラが重ねて問い掛けようとするより前に、アルトは逃げるように未だ顔を伏せているミハルドの元に向かう。
「えー」
「公爵様もいればいいじゃん、ここ楽しいよー?」
「そうだよ、今日くらい一緒にいようよー」
「ごめんな。そういう訳にもいかないんだ」
目に見えてつまらなそうにする子供たちにアルトは苦笑し、一人一人の頭をそっと撫でる。
「お前たちのためにやる事が沢山あるんだ。……小屋に居る友達とも、元気になったら遊びたいだろ?」
ゆっくりと語り掛けるように言うと、一人の少女が小さく頷いた。
それは瞬く間に伝播していき、軽く背後から上着を引かれる感覚に、アルトは振り向く。
見れば、メシアが瞳に涙をいっぱいに溜めて見上げていた。
「アリアナとまた、遊べる……?」
きっと小屋に居る少女の名前だろう。
「ああ、俺もあの子達のために頑張らないといけない。全部終わったら必ずここに来るから、約束できるか?」
安心させるようにメシアの頭も撫で、アルトは自身の言葉を聞いてくれる幼子たちの顔を見回した。
なんとしても病に罹っている子供たち全員を助け、この孤児院も立て直さなければいけない。
どうだ、とアルトが重ねて問い掛けると、一拍ほどして次々に元気な声が上がった。
「わかった! やくそくね!」
「……水を刺すようだけど、そろそろ私の上から退いてくれるかな」
いやに震えた声に視線を下げれば、ミハルドがうっすらと額に汗を滲ませていた。
今にも身体全体が限界なのか、このままでは早朝のアルトの二の舞になるのは明白だ。
「わー、ごめんミハルドさん!」
アルトの慌てた声を合図に、ミハルドの上に乗っていた子らが退く。
「大丈夫か?」
小声で問い掛けると、ミハルドが腰を摩りながらもようよう立ち上がった。
「……幼い子たちの相手がこれほど辛いとは、舐めておりました。世の親は強いのですね……」
ミハルドの目から、汗なのか涙なのか分からない雫が顎を伝う。
アルトはそれに見て見ぬふりをし、次は姿の見えなくなったルシエラを呼びに行った。
一時間ほどして、慌てた女性の足音と声が部屋の中に響いた。
外で遊んでいたらしい子供たちに手を引かれ、修道女のような装いをした老女が姿を現す。
最初は少女──メシア一人だったが、いつの間にか増えている子供に本を読み聞かせていたアルトは、声の主の方に視線を向けた。
手にはバスケットを持っており、果物やパンなどの食べ物がこれでもかと入っているのが見て取れた。
「いやぁ……待ちくたびれましたよ、フランツ先生」
いつの間にか大の字で寝転がり、子供たちの好きなように遊ばせていたルシエラが間延びした声を出す。
「まったく貴方は行儀の悪い……公爵様を連れて来てくれたのはいいけれど、もっとしっかりなさい」
失礼でしょう、とフランツはやや怒り口調で言った。
「お待たせしてしまって申し訳ございません。少し道に迷ってしまって……」
アルトが見ていることに気付いたフランツは、バスケットを少年の手に任せると丁重に頭を下げた。
「子供たちのために手を尽くして頂いて……本当に、本当にありがたい限りです」
ありがとうございます、とフランツは瞳に涙を浮かべて微笑んだ。
「あ、いや。俺が好きでルシエラに着いてきただけなんで。むしろ、これくらいならいつでもお安い御用です」
微笑みを浮かべて言うとそこで言葉を切り、本を閉じる。
半円になって読み聞かせを聞いていた少年少女たちの顔を、一人ずつ見回した。
「フランツ先生と話してくるから、少しの間ミハルド──あの人の所に行っててくれるか?」
すぐに済むから、と続けながらアルトはミハルドのいる方向を指し示す。
ミハルドは窓際にあるテーブルで、院内での年長らしい少年とチェスをしていた。
頭を使うのは苦手なようで、周囲で野次を飛ばしている幼い者たちに教えられながら時折唸っている。
「……わかった」
「ぜったい、ぜーったいつづきよんでね!」
「ミハルドさーん!」
ある子は落ち込み、ある子は目を輝かせて約束の指切りをし、またある子はアルトが言い終わるよりも早くミハルドの元に一目散に駆けて行った。
「うっ……!」
それなりの体重のある子供にいきなり突撃され、さすがのミハルドも悲痛な声を出した。
それに苦笑し、アルトは心の中で謝罪する。
(ごめん、ミハルドさん)
さすがのミハルドであっても、一人でほとんどの相手をするのは疲れてしまうだろう。
「それじゃ、早いとこ終わらせましょうか」
すると、アルトの心情に呼応するように、いつの間にかルシエラがフランツの隣りに立っており、薄く笑みを浮かべて言った。
どうやらアルトが何を言うか、この男には既に分かっているらしい。
(そもそも、これはルシエラが頼んできた事なんだ)
アルトは呼吸を整え、ゆっくりと唇を開く。
「ルシエラから病気の子が何人か居ると聞きました。いつから体調が悪くなったのか教えてくれますか」
フランツはやや目を見開いたものの、何事もなかったように微笑んだ。
「ええ。……子供たちの前で話すのもなんですし、こちらにいらしてください」
フランツの先導で孤児院を出ると、敷地内にひっそりとあった小屋のような場所に連れて行かれた。
「どうぞお入りになって」
フランツに促され、アルトはゆっくりと扉の前に立った。
(ここに……)
この扉の先には病に冒された子供たちが居る──そう分かってはいても、どうにも扉を開ける勇気が出なかった。
どれほど酷いのかこの目で見ない事には手の施しようがないのに、アルトは最後の最後で怖気付いてしまっている。
(俺は……いつもこうだ)
肝心なところで決断できず、やっと行動に移そうとした時には手遅れになっている。
そうした理由もあってか、元の世界で仕事をするにしても要領が悪く、周囲に迷惑を掛けてしまった事も多々あった。
己の変化を恐れ、その場でずっと足踏みしている──頭では分かっていても、意思と身体は真逆の行動を取ってしまうのだ。
(でも自分の出来る事は出来るだけする、って決めたんだ。今更投げ出しちゃ、子供たちにも悪い)
アルトが悩んでいるわずかな時間を取っても、刻一刻と命の灯火が消えていく可能性もあった。
すると肩に温かいものが触れる。
そろりと背後を振り向けば、ルシエラの瞳と視線が交わった。
(あ……)
大丈夫だ、と夜空に似た瞳が言っている。
それでもアルトの不安を感じ取ったらしいルシエラが、柔らかく微笑んで言った。
「大丈夫、何かあれば俺がいるから。お前はただ、思ったまま命じてくれたらいいんだ」
いつになくゆっくりとしたルシエラの言葉は、アルトの耳にじんわりと響いた。
その言葉は『アルト』が無茶振りを繰り返していたのが確定し、笑いが込み上げる。
(馬鹿だな、俺も。こんな事で悩むなんて)
元からルシエラが傍にいるのなら、アルトが心配する必要はないのだ。
ルシエラは『アルト』の対応に慣れてしまっているためか、ちょっとやそっとの事ではそう驚かない。
そんな確信にも似た感情がアルトの中に湧き上がった。
アルトはもう一度呼吸を整え、扉に手を伸ばす。
「……っ」
扉を開けると、薬の充満した得も言われない臭いが一気に鼻腔に入り、アルトは図らずも鼻を覆う。
薄暗い部屋には簡易ベッドが並べられており、十歳前後ほどの少年少女が五人寝かされていた。
「──この近辺は」
扉の境目に佇むフランツが、悲痛な声で言葉を紡ぐ。
「貴族の方が多くいらっしゃいますが、小さな孤児院には資金の手が行き渡っていないのが現状です」
フランツが言うにはこうだ。
ここレノシクス孤児院は、フランツの祖母の代に設立されたという。
しかし、自分の代になってからは大きな孤児院が点在するようになり、貴族はこぞってそちらに資金を入れるようになった。
新たに都市開発が進み、お零れのような土地に半ば追いやられてしまった事。
孤児院に居る子供たちは、フランツが街に買い物や働きに出ている時に出会ったのだという。
「メシアなどがそうです。……あの子は物心付いてすぐ、親に捨てられたと言います。薄汚れて、自慢の髪も黒くなっていて……今思い出しても胸が苦しくなります」
フランツは小屋に入り、消えかかっている蝋燭を一つずつ灯していく。
ぼんやりと病に冒されている子供たちの顔が目に入り、アルトはぎゅうと手の平を握り締めた。
全員を医者にかからせる金はなく、このままでは次第に儚くなってしまうのも時間の問題だといえた。
幼い命をなんとしても救いたい──フランツの言葉の節々からは、そんな感情が込められていた。
「公爵様」
最後の蝋燭を灯したフランツが、ゆっくりとアルトに視線を向けた。
「私がどんなに頑張ろうと、このままではすべての子供たちは救われません」
フランツは瞳を伏せ、ベッドで眠る一人の少年の額を撫でた。
ぼうっと浮かんだ顔色はどんよりと青白く、苦しそうに胸が上下していた。
今にもくずおれてしまいそうなフランツに気付いてか、そっとルシエラが彼女の肩を支える。
「どうか、どうか、この子たちを助けては頂けませんか……?」
どうかお願いでございます、とフランツは涙混じりの声で頭を下げた。
(この人、は)
アルトはその姿に一種の同情の念すら覚える。
フランツは悔しいのだ。
成長期の子供たちを満足に食べさせていける余裕も、病気になった時に満足な治療を受けさせてやれない不甲斐なさも。
本来ならば先に死に行くのはフランツだが、あまりにも短い命の灯火が消えるのを間近で見るのはどんなに辛いか想像に難くない。
「……分かりました」
アルトはこれからの事をどうするか考えるよりも早く、そう言葉にしていた。
フランツの姿を見て匙を投げるなど、きっと『アルト』はしないはずだ。
まっすぐにフランツを見据え、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「どれほど必要かはルシエラに伝えてください。出来るだけ、いや……もういらないって言うくらい支援させて頂きます」
それは紛れもない了承で、次第にフランツの瞳から涙が一筋伝った。
「ありがとうございます……!ありがとう、ありがとう、本当に……」
フランツは顔を両手で覆い、肩を震わせながら何度も礼を述べた。
「……な、先生。アルトなら大丈夫って言っただろ」
小さな肩を支えるルシエラの手も心なしか震え、しかしすぐに支え直すように肩を抱く。
「これから忙しくなるぞ、公爵様」
アルトを見つめ、ルシエラは片頬を上げた。
それがどういう意味なのか理解しているが、子供たちの命を救えるのならば己の睡眠など易いものだ。
「任せろ、徹夜してでも孤児院の皆を助けるから」
「──そろそろ戻らないとじゃないか?」
ふと窓の外を見たルシエラが言う。
「……もうそんな時間なのか」
アルトはテーブルに向けていた視線を上げ、ルシエラに倣って窓の方に顔を向ける。
小屋から出た時はまだ日が高く昇っていたが、今では空が宵闇に染まっていた。
昼前に邸を出たため、午後のほとんどは孤児院に居たといってもいい。
アルトはミハルドの姿を探すため、椅子から立った。
「……うわっ」
アルトは図らずも素っ頓狂な声を出す。
椅子の近くにまでぬいぐるみが落ちており、少し視線を移せば積み木や絵本などがそこかしこに散乱している。
身体はルシエラの方に向いていたが、背後が少し騒がしいとは思ったものの、まさかこれ程とは思ってもいなかった。
「──あの、もう少しだけ。あと少しお待ちを……!」
不意に悲鳴じみた声が聞こえ、そちらに視線を動かす。
「やぁだー!」
「もっと動いてー!」
ミハルドは孤児院の皆に懐かれていたようで、床に突っ伏したままの状態で六人の幼い子供に馬乗りにされていた。
どうやらミハルドがその場を少しも動かなくなったため、遊び足りない子供たちらしい。
なんとも助けようか迷う構図にアルトが悩んでいると、そっとルシエラの声が掛かった。
「アルト、ちょっと」
「どうした」
手招きされ、ミハルドから視線を外す。
「毎日鍛錬しているのに、こんな体たらくでは……陛下に、ライアン様に嫌われてしまう……」
ミハルドはボソボソと同じ言葉を繰り返しているが、既にアルトには聞こえていなかった。
「お前、確かこのまま王宮に戻るんだろ?」
「へ、なんでそれを……」
ルシエラにはその話をしておらず、どこから伝わったのかアルトの中に疑問が浮かぶ。
「ミハルドさんが言ってた」
それから、とルシエラはぐいと肩を抱いてくる。
「何かあれば王宮に宛てて手紙を書いてくれ、ってのも聞いたけど……邸には帰れないのか?」
「あ、ああ……ちょっと、な」
そもそも、このまま帰ろうものなら直々に王太子が邸にやってくる、とはとても言えずアルトは曖昧に濁した。
(俺だって王宮より邸に帰りたいよ……)
しかしエルとの約束を破っては、その後何をされるか分かったものではない。
アルトはそれが怖かった。
(あ、気にしだしたらまた痛くなってきた……)
今までなんともなかった身体、特に下半身に鈍痛にも似た痛みが走る。
昨日の今日で、さすがに手を出す事はないと信じたいが、エルは腹の底が読めないのだ。
眩しいほどの美しい微笑みで迫られ、結局のところ流されてしまう己にも問題はあるのだが。
(でも、なんであいつは俺を離してくれないんだろう)
そういえば、とアルトは思いを巡らせる。
聞こうにも聞けなかったが、エルが自身に執着する意味が未だに分からなかった。
一目惚れしたという、天地がひっくり返っても有り得ない事が起こらない限り、エルが『アルト』と接触する機会はほとんどないはずなのだ。
「そもそも公爵だし、前みたく広間で謁見とか……何かのイベントとかに参加するよな、多分」
「お? 何か言った?」
アルトの独り言を耳ざとく拾ったらしいルシエラが、さも面白そうな声音で問うた。
「なんでもない。──皆、もう帰るからミハルドさんから退いてやってくれるかな?」
ルシエラが重ねて問い掛けようとするより前に、アルトは逃げるように未だ顔を伏せているミハルドの元に向かう。
「えー」
「公爵様もいればいいじゃん、ここ楽しいよー?」
「そうだよ、今日くらい一緒にいようよー」
「ごめんな。そういう訳にもいかないんだ」
目に見えてつまらなそうにする子供たちにアルトは苦笑し、一人一人の頭をそっと撫でる。
「お前たちのためにやる事が沢山あるんだ。……小屋に居る友達とも、元気になったら遊びたいだろ?」
ゆっくりと語り掛けるように言うと、一人の少女が小さく頷いた。
それは瞬く間に伝播していき、軽く背後から上着を引かれる感覚に、アルトは振り向く。
見れば、メシアが瞳に涙をいっぱいに溜めて見上げていた。
「アリアナとまた、遊べる……?」
きっと小屋に居る少女の名前だろう。
「ああ、俺もあの子達のために頑張らないといけない。全部終わったら必ずここに来るから、約束できるか?」
安心させるようにメシアの頭も撫で、アルトは自身の言葉を聞いてくれる幼子たちの顔を見回した。
なんとしても病に罹っている子供たち全員を助け、この孤児院も立て直さなければいけない。
どうだ、とアルトが重ねて問い掛けると、一拍ほどして次々に元気な声が上がった。
「わかった! やくそくね!」
「……水を刺すようだけど、そろそろ私の上から退いてくれるかな」
いやに震えた声に視線を下げれば、ミハルドがうっすらと額に汗を滲ませていた。
今にも身体全体が限界なのか、このままでは早朝のアルトの二の舞になるのは明白だ。
「わー、ごめんミハルドさん!」
アルトの慌てた声を合図に、ミハルドの上に乗っていた子らが退く。
「大丈夫か?」
小声で問い掛けると、ミハルドが腰を摩りながらもようよう立ち上がった。
「……幼い子たちの相手がこれほど辛いとは、舐めておりました。世の親は強いのですね……」
ミハルドの目から、汗なのか涙なのか分からない雫が顎を伝う。
アルトはそれに見て見ぬふりをし、次は姿の見えなくなったルシエラを呼びに行った。
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『君の心臓にたどりつけたら』というゲーム。体が弱くて一生の大半をベットの上で過ごした僕が命を賭けてやり込んだゲーム。
そのクラウス・フォン・シルヴェスターという推しの大好きな完璧超人兄貴に成り代わってしまった。
ずっと好きで好きでたまらなかった推し。その推しに好かれるためならなんだってできるよ。
そんなBLゲーム世界で生きる僕のお話。
ヤリチン伯爵令息は年下わんこに囚われ首輪をつけられる
桃瀬さら
BL
「僕のモノになってください」
首輪を持った少年はレオンに首輪をつけた。
レオンは人に誇れるような人生を送ってはこなかった。だからといって、誰かに狙われるようないわれもない。
ストーカーに悩まされていたレある日、ローブを着た不審な人物に出会う。
逃げるローブの人物を追いかけていると、レオンは気絶させられ誘拐されてしまう。
マルセルと名乗った少年はレオンを閉じ込め、痛めつけるでもなくただ日々を過ごすだけ。
そんな毎日にいつしかレオンは安らぎを覚え、純粋なマルセルに毒されていく。
近づいては離れる猫のようなマルセル×囚われるレオン
お兄ちゃんができた!!
くものらくえん
BL
ある日お兄ちゃんができた悠は、そのかっこよさに胸を撃ち抜かれた。
お兄ちゃんは律といい、悠を過剰にかわいがる。
「悠くんはえらい子だね。」
「よしよ〜し。悠くん、いい子いい子♡」
「ふふ、かわいいね。」
律のお兄ちゃんな甘さに逃げたり、逃げられなかったりするあまあま義兄弟ラブコメ♡
「お兄ちゃん以外、見ないでね…♡」
ヤンデレ一途兄 律×人見知り純粋弟 悠の純愛ヤンデレラブ。
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