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第三部 三章
貴方は俺のもの 5
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◆◆◆
(朔真に酷いことをしてしまった)
昨夜だけで幾度も身体を繋げ、泣いても『嫌だ』と言っても止めてやれなかった。
その後愛しい男は気絶するように眠ってしまったため、自身も含めてさっと身を清めると、逃げるように部屋を後にしたのだ。
しかし呼び寄せた部屋は近々貴族が使う事を思い出し、加えてベッドの上に朝まで放っておくのも可哀想で、起こさないようアルトを抱えてそっと寝室に戻った。
そこまではいいものの寝ようにも寝付けなかったため、レオンに頼んで隣りの執務室まで酒を運んで来させたのが、実に四時間ほど前。
『こんな夜更けに貴方は……陛下が聞いたらさぞ呆れましょう。大体、あと数時間でお父上と叔父上が辺境伯領へ出立されるというのに──』
その場で小言を言われたものの右から左へ受け流し、いざ酒を喉奥に流し込んでも不思議と酔えなかった。
エルの心情を察してくれたのか、気の利く側近がひと瓶持ってきてくれたのを幸いに、翌日のことを考えずすべて飲んだ。
だというのに一向に酔えず、どんどん悪い方向へ酒の力が強まってしまったようだった。
そこからは自責の念に苛まれ、結局のところ一睡もできていない。
それもこれもライアンの元へ出向く前にネロと楽しそうに話すところを見てしまったからで、自分自身の心の狭さに嫌気が差す。
(こんなに嫉妬深くなかったはずなのに)
思い返すと、こちらがなんと言おうと王宮に来ない『アルト』を待っていた時は、今か今かとやきもきしていただけだった。
それがやっと来たと思えば、後になって『自分はアルトではない』と告げられ、驚愕した反面そこで自身の想いを自覚したのだ。
いつの間にか『朔真』を好きになっており、正式な婚約を経て最短の準備期間で結婚するまでに至った。
そこから先は何も考えていない訳ではなかったが、無意識に気付かないふりをしていただけで、その心の内では嫉妬に駆られていたのだと思う。
自身のことを幼い頃から知っているミハルドやレオンと居るところを見ても、なんの害も無いであろうケイトと居るところを見ても、ここまで感情を乱される事は無かった。
だからネロと少し話しているさまを見て、昨夜のような事をした自分が怖くてならないのだ。
(身体に痕も付けてしまったし……きっと痛むだろうな)
首筋もだが特に腰は摑んで離さなかったため、数日は痣が消えないことは明白だ。
ある程度は服で隠れるとはいえ、痛みがないとは言いきれない。
(早く顔を見たい。それから、ちゃんと話したい)
呼び出す前は早朝の出来事を話し合う気持ちでいたが、一度でもアルトの顔を見てしまっては止められなかった。
その瞳や声がネロに向けられていたと思ったが最後、身体の内からふつふつと怒りが湧き出て来て、気付けば酷く抱いていたのだ。
何度となく心の中で謝罪の言葉を思い浮かべては消し、気付けば朝になっていた時は笑うしかなかった。
(俺は一生朔真に敵わないのかもしれない)
多少のすれ違いや嫉妬で一喜一憂している己を、愛しい男はどう思うのだろうか。
もし軽蔑されでもしたら立ち直れず、その後どうなってしまうのか自分でも分からないのだが。
「──ル、エルヴィズ!」
「っ!」
すぐ側から鋭い声が飛び、エルはびくりと肩を竦ませる。
声がした方を見れば父王──ライアンが眉を下げ、どこか心配そうな顔付きでこちらを見つめていた。
「お前にしてはいつになく上の空だ。やはり見送りなどせず、ゆっくり寝ていれば良かったんじゃないか?」
はぁ、と溜め息を吐く父の顔には、色濃い陰りがあった。
しかし少しも疲れを感じさせないのは年を重ねているからか、はたまた己が分かりやすいだけなのか。
どちらにしろライアンを心配させてしまった事に変わりはなく、己の鍛錬不足を恥じた。
「いえ、失礼しました。お見送りは私が望んだ事ですので」
エルは先程までの考えを打ち消すように、淡く口元に笑みを浮かべた。
城門の前には三台の馬車が着けられており、既にナハトはその一つに乗り込んでいた。
国王が数日不在のため、最終確認も兼ねて前日に早朝の見送りを申し出たが、自分でも知らずのうちにぼうっとしていたようだ。
これ以上感情を悟られてはならない、と思いながらエルはかすかに目を伏せて続ける。
「……ただ、やはり気掛かりなのです。数日とはいえ、私に留守を任せて頂けた事が」
半分は本音で半分は嘘だ。
近いうちに攻めてくるかもしれない一部の暴徒らを、果たして王宮内の騎士らを統率して守り抜く事が出来るのか──そんな不安が今日まであった。
ライアンとて争いを止めて欲しくて辺境伯領へ向かうというのに、何を弱気になっているのだと思う。
しかしこうまで考えてしまうのは、頭の痛くなる事がいくつも重なっているからだと十分過ぎるほど理解している。
ネロがいなければ、と考えこそすれライアンやナハトと共に辺境伯領へ行けとは思っていない。
わざわざ幼い息子を王宮に連れて来た本当の意味を、あの男は予感していたと思うのだ。
父であるナハトですら気付いていない機微をいち早く感じ取り、ネロの字で『王宮へ向かう』と手紙を寄越して来た。
目を通したライアンだけでなくエルも不思議に思ったものの、丁度今の辺境伯領の様子を知りたかったため、ナハトが代筆を頼んだと結論付けて了承の手紙を送った。
しかし蓋を開けてみれば一部で争いが起きている、と各地に放っていた配下の者から言われるとはネロ以外思わないだろう。
「……ここのところ、引き継ぎであまり寝ていないと聞いた。ネロもだが、お前こそ休むべきだ」
ライアンの言葉に、エルはじろりと隣りに立つ側近を睨む。
「何か?」
しかし常に無表情を貫くレオンには珍しく、にこりと笑みを浮かべられ空恐ろしくなった。
「いや。……騎士を配置に着かせた後、仮眠を取ります。なので心配無用です」
そんなレオンを見なかったことにして、ライアンに向けて言った。
実際、公務や雑務の引き継ぎをしている間の睡眠時間が短くなったのは事実だ。
しかしそれとこれとは別で、つい数時間前の出来事をレオンなりに心配しているのだと頭では理解している。
酒を飲んだ弊害は今のところないが、いつ倒れるか分からない──自分が言っても王太子は頑として聞かないため、父の口で諫めてはくれないか。
そう、出立前にライアンに言ったのだと思う。
言葉の力はよく分かっているが、何もここまでしなくてもいいのではないか。
(ミハルドの代わりに言ってくれてるのは分かる。分かる、けど……)
常日頃からエルに意見するのはミハルドで、レオンはあまり自分の感情を見せない。
それでもそう遠くない未来で自身は国王となるのが決まっており、レオンも自動的に地位が上がる。
一見何を考えているか分からず周囲を困惑させるが、その実誰よりもエルを思いやってくれる男だ。
味方であれば頼もしく、敵であれば厄介な人間の一人でもあった。
ただ、ミハルドとはまた違った意味で過保護な節があるのは否めない。
「──ほっといてくれてもいいんだが」
ぼそりと吐き捨て、しかしすぐにはっとしたように口元に手をあてる。
ただの独り言でも失言に変わりなく、ちらりとライアンの方を見ると柔らかく目元を緩ませていた。
「すぐに戻るからそんな顔をするな」
どうやら先程の言葉から寂しいと思ったようで、しかし独り言が聞こえていなかったのを幸いに、エルは父に向けてにこりと微笑んだ。
「もう子供ではないのですよ? ……頭を撫でなかっただけまだ良いですが」
「なんだ、撫でて欲しかったのか」
「違います」
すぐさま自身に伸ばされるライアンの手を避けるように、素早く一歩下がった。
こうした軽口は久しぶりだなと思う反面、酒の弊害がじんわりと脳を侵食しているようで、先程よりも視界がぼやけている自覚がある。
ふらつきそうになった脚を気合いで持ち堪え、エルは奥歯を噛み締めた。
(駄目だな、父上には当たりたくないのに。早いところ配置を確認して寝ないと)
その前に愛しい男の──アルトの顔を見たい。
まだ寝ている時間だと思うが、ひと目でも姿を見て見て安心したかった。
「早ければ三日で戻る。──それまで留守を頼んだぞ、エルヴィズ」
ライアンは淡く浮かべていた笑みを消し、王としての顔に変わった。
すっと研ぎ澄まされた深い青の瞳は冷淡で、しかしその奥には温かな色が滲んでいた。
「しかと承りりました」
エルはゆっくりと頭を下げて言うと、ライアンが馬車に乗り込む。
やがて御者に合図をしたのか、緩やかな音を立てて走り去って行った。
「行ってらっしゃいませ」
レオンが澄んだ声で言葉を紡ぐのを隣りで聞きながら、エルは思う。
(父上達に何も無ければいいんだけど)
どちらも一度問題が起これば長引くのは確実で、特に辺境伯領へ向かう父と叔父が気掛かりだった。
「──それで仮眠は取られるのですか?」
ふとレオンの声がすぐ側で聞こえ、エルは緩くそちらを振り向返った。
赤い瞳にはなんの感情も見えないが、その口振りからは憂いが隠し切れていない。
いつになく感情を露わにしている側近を見ていると、ふっと肩の力が抜けていく心地がした。
「私をなんだと思っているんだ。配置に着かせたら寝る、と言っただろう」
聞いていなかったのか、とやや高い声で続けた。
「放っておくと貴方はすぐに無茶をしますから。兄にとやかく言われないだけ、私はまだまだ優しい方かと」
ミハルドの過保護さを、エル以上によく分かっているから出る言葉だ。
二人の幼い頃の事を聞いた事はないが、きっと苦労してきたと予想している。
そうでなければ、王宮での地位を盤石なものにはできないと自身が一番分かっているからだ。
「……俺からしたらお前が怖い」
「何か仰いましたか?」
心の中で呟いたはずが声に出ていたらしく、今度はエルが睨まれる番だった。
「いいや、何も」
さすがに無表情な男に凄まれるのはこちらとしても嫌で、エルはへらりと笑った。
「それより早く寝たいんだ。手伝ってくれるだろう?」
「言われずとも」
そう聞くが否や誤魔化すようにエルは城門から歩き出すと、その後をレオンが静かに着いてくる。
(地獄耳だな)
声に出してしまった己にも非はあるが、同時に少しでも睡眠を取らないといけない衝動に駆られる。
「無粋かもしれませんが、王配殿下と何かあったのでしょう。早急にお話をした方が良いかと」
ややあって扉に手を掛けようとすると、背後からレオンの抑揚のない声が響いた。
「……気付いていたのか」
エルは振り返らないまま続ける。
「あれほど取り乱された貴方は久しぶりに見ましたから。気付かない方がおかしい」
「そう、だったか」
はは、と乾いた笑いを抑えられない。
よもや感情を乱すほどの醜態を晒し、あまつさえアルトとの事を心配されるとは思わなかった。
しかしそれほど異常だったならば、自分がどうにかなってしまうのも時間の問題だろう。
「──配置の確認を頼んでも構わないか」
「はい」
ふと呟いた言葉へ即座に短い声が返され、エルはそのまま扉に手を掛けて中に入る。
「どちらに」
背後から言葉を投げ掛けられ、エルは一瞬考えた後ややあって唇を開く。
「王配のところだ」
太陽は空から顔を出していないためまだ寝ていても仕方ないが、ライアンを見送る前よりもアルトに会いたい、と思っている自分がいる。
もし起きていたら昨夜の謝罪と、それまでの経緯を話して仲直りしたい。
そして、今度こそ早朝にあった事をきちんと話したかった。
他の者にとってはつまらない事だとしても、己の口から話さなければいけないと思ったから。
「用がお済みになられたら寝てくださいね」
レオンの静かな、しかしいつになく優しい声がゆっくりと空気に溶けていった。
(朔真に酷いことをしてしまった)
昨夜だけで幾度も身体を繋げ、泣いても『嫌だ』と言っても止めてやれなかった。
その後愛しい男は気絶するように眠ってしまったため、自身も含めてさっと身を清めると、逃げるように部屋を後にしたのだ。
しかし呼び寄せた部屋は近々貴族が使う事を思い出し、加えてベッドの上に朝まで放っておくのも可哀想で、起こさないようアルトを抱えてそっと寝室に戻った。
そこまではいいものの寝ようにも寝付けなかったため、レオンに頼んで隣りの執務室まで酒を運んで来させたのが、実に四時間ほど前。
『こんな夜更けに貴方は……陛下が聞いたらさぞ呆れましょう。大体、あと数時間でお父上と叔父上が辺境伯領へ出立されるというのに──』
その場で小言を言われたものの右から左へ受け流し、いざ酒を喉奥に流し込んでも不思議と酔えなかった。
エルの心情を察してくれたのか、気の利く側近がひと瓶持ってきてくれたのを幸いに、翌日のことを考えずすべて飲んだ。
だというのに一向に酔えず、どんどん悪い方向へ酒の力が強まってしまったようだった。
そこからは自責の念に苛まれ、結局のところ一睡もできていない。
それもこれもライアンの元へ出向く前にネロと楽しそうに話すところを見てしまったからで、自分自身の心の狭さに嫌気が差す。
(こんなに嫉妬深くなかったはずなのに)
思い返すと、こちらがなんと言おうと王宮に来ない『アルト』を待っていた時は、今か今かとやきもきしていただけだった。
それがやっと来たと思えば、後になって『自分はアルトではない』と告げられ、驚愕した反面そこで自身の想いを自覚したのだ。
いつの間にか『朔真』を好きになっており、正式な婚約を経て最短の準備期間で結婚するまでに至った。
そこから先は何も考えていない訳ではなかったが、無意識に気付かないふりをしていただけで、その心の内では嫉妬に駆られていたのだと思う。
自身のことを幼い頃から知っているミハルドやレオンと居るところを見ても、なんの害も無いであろうケイトと居るところを見ても、ここまで感情を乱される事は無かった。
だからネロと少し話しているさまを見て、昨夜のような事をした自分が怖くてならないのだ。
(身体に痕も付けてしまったし……きっと痛むだろうな)
首筋もだが特に腰は摑んで離さなかったため、数日は痣が消えないことは明白だ。
ある程度は服で隠れるとはいえ、痛みがないとは言いきれない。
(早く顔を見たい。それから、ちゃんと話したい)
呼び出す前は早朝の出来事を話し合う気持ちでいたが、一度でもアルトの顔を見てしまっては止められなかった。
その瞳や声がネロに向けられていたと思ったが最後、身体の内からふつふつと怒りが湧き出て来て、気付けば酷く抱いていたのだ。
何度となく心の中で謝罪の言葉を思い浮かべては消し、気付けば朝になっていた時は笑うしかなかった。
(俺は一生朔真に敵わないのかもしれない)
多少のすれ違いや嫉妬で一喜一憂している己を、愛しい男はどう思うのだろうか。
もし軽蔑されでもしたら立ち直れず、その後どうなってしまうのか自分でも分からないのだが。
「──ル、エルヴィズ!」
「っ!」
すぐ側から鋭い声が飛び、エルはびくりと肩を竦ませる。
声がした方を見れば父王──ライアンが眉を下げ、どこか心配そうな顔付きでこちらを見つめていた。
「お前にしてはいつになく上の空だ。やはり見送りなどせず、ゆっくり寝ていれば良かったんじゃないか?」
はぁ、と溜め息を吐く父の顔には、色濃い陰りがあった。
しかし少しも疲れを感じさせないのは年を重ねているからか、はたまた己が分かりやすいだけなのか。
どちらにしろライアンを心配させてしまった事に変わりはなく、己の鍛錬不足を恥じた。
「いえ、失礼しました。お見送りは私が望んだ事ですので」
エルは先程までの考えを打ち消すように、淡く口元に笑みを浮かべた。
城門の前には三台の馬車が着けられており、既にナハトはその一つに乗り込んでいた。
国王が数日不在のため、最終確認も兼ねて前日に早朝の見送りを申し出たが、自分でも知らずのうちにぼうっとしていたようだ。
これ以上感情を悟られてはならない、と思いながらエルはかすかに目を伏せて続ける。
「……ただ、やはり気掛かりなのです。数日とはいえ、私に留守を任せて頂けた事が」
半分は本音で半分は嘘だ。
近いうちに攻めてくるかもしれない一部の暴徒らを、果たして王宮内の騎士らを統率して守り抜く事が出来るのか──そんな不安が今日まであった。
ライアンとて争いを止めて欲しくて辺境伯領へ向かうというのに、何を弱気になっているのだと思う。
しかしこうまで考えてしまうのは、頭の痛くなる事がいくつも重なっているからだと十分過ぎるほど理解している。
ネロがいなければ、と考えこそすれライアンやナハトと共に辺境伯領へ行けとは思っていない。
わざわざ幼い息子を王宮に連れて来た本当の意味を、あの男は予感していたと思うのだ。
父であるナハトですら気付いていない機微をいち早く感じ取り、ネロの字で『王宮へ向かう』と手紙を寄越して来た。
目を通したライアンだけでなくエルも不思議に思ったものの、丁度今の辺境伯領の様子を知りたかったため、ナハトが代筆を頼んだと結論付けて了承の手紙を送った。
しかし蓋を開けてみれば一部で争いが起きている、と各地に放っていた配下の者から言われるとはネロ以外思わないだろう。
「……ここのところ、引き継ぎであまり寝ていないと聞いた。ネロもだが、お前こそ休むべきだ」
ライアンの言葉に、エルはじろりと隣りに立つ側近を睨む。
「何か?」
しかし常に無表情を貫くレオンには珍しく、にこりと笑みを浮かべられ空恐ろしくなった。
「いや。……騎士を配置に着かせた後、仮眠を取ります。なので心配無用です」
そんなレオンを見なかったことにして、ライアンに向けて言った。
実際、公務や雑務の引き継ぎをしている間の睡眠時間が短くなったのは事実だ。
しかしそれとこれとは別で、つい数時間前の出来事をレオンなりに心配しているのだと頭では理解している。
酒を飲んだ弊害は今のところないが、いつ倒れるか分からない──自分が言っても王太子は頑として聞かないため、父の口で諫めてはくれないか。
そう、出立前にライアンに言ったのだと思う。
言葉の力はよく分かっているが、何もここまでしなくてもいいのではないか。
(ミハルドの代わりに言ってくれてるのは分かる。分かる、けど……)
常日頃からエルに意見するのはミハルドで、レオンはあまり自分の感情を見せない。
それでもそう遠くない未来で自身は国王となるのが決まっており、レオンも自動的に地位が上がる。
一見何を考えているか分からず周囲を困惑させるが、その実誰よりもエルを思いやってくれる男だ。
味方であれば頼もしく、敵であれば厄介な人間の一人でもあった。
ただ、ミハルドとはまた違った意味で過保護な節があるのは否めない。
「──ほっといてくれてもいいんだが」
ぼそりと吐き捨て、しかしすぐにはっとしたように口元に手をあてる。
ただの独り言でも失言に変わりなく、ちらりとライアンの方を見ると柔らかく目元を緩ませていた。
「すぐに戻るからそんな顔をするな」
どうやら先程の言葉から寂しいと思ったようで、しかし独り言が聞こえていなかったのを幸いに、エルは父に向けてにこりと微笑んだ。
「もう子供ではないのですよ? ……頭を撫でなかっただけまだ良いですが」
「なんだ、撫でて欲しかったのか」
「違います」
すぐさま自身に伸ばされるライアンの手を避けるように、素早く一歩下がった。
こうした軽口は久しぶりだなと思う反面、酒の弊害がじんわりと脳を侵食しているようで、先程よりも視界がぼやけている自覚がある。
ふらつきそうになった脚を気合いで持ち堪え、エルは奥歯を噛み締めた。
(駄目だな、父上には当たりたくないのに。早いところ配置を確認して寝ないと)
その前に愛しい男の──アルトの顔を見たい。
まだ寝ている時間だと思うが、ひと目でも姿を見て見て安心したかった。
「早ければ三日で戻る。──それまで留守を頼んだぞ、エルヴィズ」
ライアンは淡く浮かべていた笑みを消し、王としての顔に変わった。
すっと研ぎ澄まされた深い青の瞳は冷淡で、しかしその奥には温かな色が滲んでいた。
「しかと承りりました」
エルはゆっくりと頭を下げて言うと、ライアンが馬車に乗り込む。
やがて御者に合図をしたのか、緩やかな音を立てて走り去って行った。
「行ってらっしゃいませ」
レオンが澄んだ声で言葉を紡ぐのを隣りで聞きながら、エルは思う。
(父上達に何も無ければいいんだけど)
どちらも一度問題が起これば長引くのは確実で、特に辺境伯領へ向かう父と叔父が気掛かりだった。
「──それで仮眠は取られるのですか?」
ふとレオンの声がすぐ側で聞こえ、エルは緩くそちらを振り向返った。
赤い瞳にはなんの感情も見えないが、その口振りからは憂いが隠し切れていない。
いつになく感情を露わにしている側近を見ていると、ふっと肩の力が抜けていく心地がした。
「私をなんだと思っているんだ。配置に着かせたら寝る、と言っただろう」
聞いていなかったのか、とやや高い声で続けた。
「放っておくと貴方はすぐに無茶をしますから。兄にとやかく言われないだけ、私はまだまだ優しい方かと」
ミハルドの過保護さを、エル以上によく分かっているから出る言葉だ。
二人の幼い頃の事を聞いた事はないが、きっと苦労してきたと予想している。
そうでなければ、王宮での地位を盤石なものにはできないと自身が一番分かっているからだ。
「……俺からしたらお前が怖い」
「何か仰いましたか?」
心の中で呟いたはずが声に出ていたらしく、今度はエルが睨まれる番だった。
「いいや、何も」
さすがに無表情な男に凄まれるのはこちらとしても嫌で、エルはへらりと笑った。
「それより早く寝たいんだ。手伝ってくれるだろう?」
「言われずとも」
そう聞くが否や誤魔化すようにエルは城門から歩き出すと、その後をレオンが静かに着いてくる。
(地獄耳だな)
声に出してしまった己にも非はあるが、同時に少しでも睡眠を取らないといけない衝動に駆られる。
「無粋かもしれませんが、王配殿下と何かあったのでしょう。早急にお話をした方が良いかと」
ややあって扉に手を掛けようとすると、背後からレオンの抑揚のない声が響いた。
「……気付いていたのか」
エルは振り返らないまま続ける。
「あれほど取り乱された貴方は久しぶりに見ましたから。気付かない方がおかしい」
「そう、だったか」
はは、と乾いた笑いを抑えられない。
よもや感情を乱すほどの醜態を晒し、あまつさえアルトとの事を心配されるとは思わなかった。
しかしそれほど異常だったならば、自分がどうにかなってしまうのも時間の問題だろう。
「──配置の確認を頼んでも構わないか」
「はい」
ふと呟いた言葉へ即座に短い声が返され、エルはそのまま扉に手を掛けて中に入る。
「どちらに」
背後から言葉を投げ掛けられ、エルは一瞬考えた後ややあって唇を開く。
「王配のところだ」
太陽は空から顔を出していないためまだ寝ていても仕方ないが、ライアンを見送る前よりもアルトに会いたい、と思っている自分がいる。
もし起きていたら昨夜の謝罪と、それまでの経緯を話して仲直りしたい。
そして、今度こそ早朝にあった事をきちんと話したかった。
他の者にとってはつまらない事だとしても、己の口から話さなければいけないと思ったから。
「用がお済みになられたら寝てくださいね」
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