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16 木の根
しおりを挟む「ああ……、なんて素敵なんだ! こんなにヒカリゴケの生息地が拡大しているだなんて! その上見たことない新種もある! なんで僕はもっと大きな採取箱を持ってこなかったんだ!」
六階まで到達し、エルンは目を輝かせながら周囲を見渡した。
五年ぶりの景色は、かつての記憶とは大きく異なっている。ダンジョンの様子は変貌し、以前はほとんど見られなかった植物が、今では至るところに根を張っていた。
壁際には新種のコケが広がり、床の隙間からは色とりどりのキノコが顔を覗かせている。さらに、複雑に絡み合う植物の根が、まるで地面の奥深くまで息づいているかのように張り巡らされていた。
「この木の根は前回はなかったものだね。何の植物だろう……。特徴からすると、アシュヴァリーかな? たった五年でこんなにも成長するだなんて、脅威の生命力だ!」
「……ワウ」
慣れたもので、エルンがうきうきと観察している様子をルーヴェルはじっと眺めている。毎回の素材探索の際の恒例行事なのだ。時には、ルーヴェルは待っているのに飽きてそのまま寝てしまい、モンスターが襲ってきた時だけ目を覚まして撃退することもある。
けれど今日はどこかソワソワしており、いつもなら座って待つのに、落ち着きなく動き回っていた。
「どうしたんだい?」
尋ねられると、ルーヴェルは首に巻き付けていた小さな黒板を外した。
器用に石灰を指先につけると、滑らかな動きで黒板に文字を書き始める。これも、この五年で磨かれてきた彼の意思伝達方法だった。
『なんだか、イライラする』
「イライラ?」
『胸がむかむかするんだ』
「……むかむか」
周囲を見渡す。猫に対するマタタビのように、何か興奮させる匂いでも発せられているのだろうか。
「それはいい! あ、いや、よくないんだけど、君のことをもっと知れるチャンスかも知れない。色んな物の匂いを嗅いでみてくれないかい?」
「……ワウ」
こうして新たな発見を前にエルンが目を輝かせるのもよくあることなので、ルーヴェルは諦めたような視線を返してきていた。
そこら辺を動き回り、彼は一つ一つ匂いを嗅いでいく。
「……ウゥ」
そうして、アシュヴァリーの木の根に見える植物の前でブワリと毛を逆立てた。
「これか……」
ふぅ、ふぅと息が荒くなっていく。エルンは近づくと手袋をしてナイフで根を切り取ろうとした。
「ワウ!」
急に腕に痛みが走り、何事かと見るとルーヴェルが噛みついていた。思わず倒れ込む。だらだらと血が流れる腕を押さえてルーヴェルを見上げると、彼は戸惑ったように後ずさっていた。
「……ワウ」
頭を垂れ、根からもエルンからも遠ざかる。
「……大丈夫かい?」
自分の腕を魔法で治療しながら尋ねる。エルンはヒーラーなのだ。このくらいの傷ならすぐに治してしまえる。
『悪かった。エルンが根に刃を当てた瞬間、操られたかのように理性がなくなった』
黒板に文字を書く。エルンは眉間にシワを寄せた。
「……一説によると、植物はストレスを感じると独自の匂いを発するものもあるというし……、それがルーヴェル君に効いてしまったということなのかな」
ぶつぶつと呟き、手袋越しに根を撫でる。
「少し離れておいてくれるかい?」
言われた通り、ルーヴェルは反対の壁の方にまで近寄った。エルンは根を手のひら大の大きさくらい切り取ると、採取箱に入れた。
そうしてルーヴェルを振り返ると、彼はグルル……、と警戒したようにエルンを見つめていた。
「……ルーヴェル君?」
「ワウ!」
尋常じゃない怒りように、エルンはその場で立ち止まる。
「ワウ! ワウワウ!」
毛を逆立て、エルンに向かって吠えている様子は近寄るなと言っているようだった。これは普通ではない。エルンは立ち止まると、先程採取した根をその場に捨てた。
「これでどうだい?」
それでもルーヴェルは警戒したままだ。
「……ここじゃ、匂いが強いのかも知れないね。まず、君が先に別の部屋に移動してくれるかい? その後、僕も移動する」
ルーヴェルはそろそろと廊下に向かう。そうして、彼の姿が見えなくなった。
エルンは名残惜しく思いながらも床に置いたままになっていた黒板と石灰の入った袋を手に取ると彼の後ろをついていく。
隣の部屋はそこまでコケや木の根に覆われておらず、ルーヴェルも落ち着いている様子だった。
「どうだい?」
黒板と小袋を渡しながら尋ねる。
『大丈夫だ。抑えられている』
よかった、と胸を撫で下ろした。真面目な顔でルーヴェルは尋ねた。
「色々聞かせてもらいたいんだけど、いいかい?」
ルーヴェルは頷く。
「まずは今の体調を教えて欲しい。気分は?」
『悪くない。あの根に会うまでと同じだ』
「心臓の鼓動の速さを知りたいから、触らせてもらうね」
ルーヴェルは一瞬後ろに下がりかけたが、コクコクと頷いた。そのまま彼の心臓のあたりに手を当て、時計を見る。平常時よりも少し早かった。
そうした状況をノートに書き記していく。
「……なるほどなぁ。できることならきちんと採取して実験したいけど、君といると採取が難しい。となると……」
ぶつぶつ呟くエルンの言葉に、ルーヴェルの耳もしっぽも落ちていく。
「次回はここに実験器具を持ってきて、数日実験してから帰るほうがいいのかな」
エルンの顔はノートに向けられたままだ。彼の言葉にルーヴェルは彼をまじまじと見た。
「……ん? どうしたんだい?」
『誰か別の人と行くのかと思った』
黒板に綴られた文字を見て、エルンは眉尻を下げた。
実のところ、この五年の間にエルンが日常的に冒険に誘える相手は、ルーヴェルただ一人になっていた。皆結婚したり、別の仕事についたりして疎遠になっていたのだ。
けれど、そんな事情をルーヴェルに話したことはなかった。
自分だけがあがいていて、他の人々がルーヴェルのことを諦めていると知られたくなかったのだ。
単純にエルンが友だちを作るのがうまくなくて、新しく冒険仲間が出来ていないだけという見方もあるが。
「……ルーヴェル君は、もう来たくない?」
誤魔化し半分に尋ねてみると、彼は首を横に振る。ホッとして頬が緩んだ。
「よかった。じゃあ、また頼むよ」
がしがしとルーヴェルの頬のあたりを撫でる。彼はコクコクと何度も頷いた。
それからエルンは数度唇を引き結んでは緩めてを繰り返して、ルーヴェルに問いかける。
「……君は、元の姿に戻りたいんだよね?」
ルーヴェルはぽかんと口を開けてエルンを見つめた。聞いてしまってから、慌ててエルンは取り繕う。
「あ、いや、もちろんそうだと思っているけど……」
ルーベルは少し間をおいて黒板に書く。
『戻りたい。また、人間として生活したい』
そうだよな、とエルンは引きつった笑みを貼り付ける。
じくじくと痛む胸を押し隠し、エルンは明るく返した。
「そうだよね! うん! じゃあ、また次回も頑張ろう!」
その日は一晩六階に泊まり、翌日七階に降りた。隅々まで調べつくしたが、それ以上に有益な情報は見つからなかった。
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