この契約結婚は君を幸せにしないから、破棄して、逃げて、忘れます。

箱根ハコ

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51 アッシュ2

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 ぽろり、と彼の眦から涙がこぼれる。ルーヴェルは指の腹で優しく拭った。
「離れているとは?」

 ぐ、とフローリアンは唇を引き結ぶ。この場においてもなお言いたくないのだろう。

「……ワウ」

 エルンはフローリアンの顔を覗き込む。フローリアンはまじまじとエルンを見て、苦しそうに顔を歪めた。
 ルーヴェルがエルンの前足に手を置いた。

「君が兄をかばい続けたら、エルンはずっとこの姿でいなければいけない。意思の疎通にも時間がかかる。人間からは討伐対象としてみなされる。それがどんなに辛いことか、あなたに想像できるだろうか」

 彼はフローリアンの情に訴えることにしたようだ。銀髪の麗人の目が潤み、涙がこぼれてきた。

「……私はあくまで、虫やネズミといった、人間以外を魔獣化する魔術具を作っただけだ。そして、魔獣化した彼らがその姿を維持できるように……、栄養のある蜜を出せるように、アシュヴァリーの木の根に魔術具でもって、薬を投与した」

 つまり、アーランドのダンジョンで木の根に突き刺さっていた魔術具は、フローリアンが作ったものだったのだろう。

「けれど、そこであの木は独自の進化を遂げてしまったんだ。……蜜を出す栄養を取るために、魔獣化した獣を食べるようになった。どうやら、動物が死ぬ際の匂いに反応して捕食するようだね。食虫植物のように、体内の細胞を収縮させることによって根を死体に巻き付けて、そこから栄養を得るようになったんだ」

 思わず息を呑む。しかし、植物や動物などの生き物を対象とした研究においては、研究者の予想を超えた成長を遂げることが稀にある。

「そうして、より栄養を得た木の蜜を飲むことで、魔獣は虫やネズミと言った小動物だけではなく、人間や、他の魔獣まで四つ目の魔獣とすることができるようになってしまったんだ。そして、死んだら木の栄養となる……。ゴーレムの件も、この副産物なんだろうね」

 以前、フローリアンが観測小屋でアッシュに語っていた内容は、こういうことだったのかとエルンは思い出す。

「エルン君が以前言っていた、アシュヴァリーの木の根を削いだらルーヴェル君が凶暴化したり、その木の根をゴーレム達が奪い合ったのも、あの木が微小な物質を常に発しているからだ。以前話しただろう? アブラナは、アブラムシに葉を食べられると、アブラムシにとって苦い物質を放って食べられないようにするって。それが、今回の木でも起きていたんだと思う……」

 どうやら、その件についてはまだ十分に調査されておらず、話し方からしても憶測の域を出ないもののようだった。それでも、エルンは彼の推察に納得してしまう。

「それを兄に報告したら、私の研究ノートと論文を奪われて、彼の私設研究班に横流しされたんだ。その結果、人間を魔獣に出来る魔道具を作り出してしまったようだ……」

 コホ、と彼の唇の端から血が流れ落ち、口を伝って地面に落ちた。エルンは爪を立てないように肉球で彼の頬を拭う。

「……なるほど。それもこれも全ては商売のためというものか?」

 ルーヴェルはじっとフローリアンを見つめる。フローリアンは苦笑を返した。

「もうそこまで見当がついているんだね……。そうだよ。魔術具があっても、使う対象がいなければ意味がない。だから、ダンジョンに魔獣を増やすことでまずは需要を作り、そこで簡単に倒せるように攻撃系の魔術具を供給していったんだ」

 はっとエルンは息を呑む。
 アッシュの仕事は魔術具の開発と販売である。
 そして、大体五年前には敵を簡単に倒せるような魔術具が普及し、多くの人間がダンジョンの中に入っていっていた。
 ルーヴェルは重い口調で尋ねる。

「俺が魔獣になったのは七年前だから、その頃にはもうある程度は研究は進められていたということか?」

 フローリアンは首肯する。

「そうだね……。もともと、十年前には着手していた」
「そのために、オーリストだけではなく、アーランド近辺のダンジョンにまで入ったというのか?」

 ルーヴェルの問に、さらにフローリアンは頷いた。

「植生のせいかな……? アーランドのダンジョンのほうではすぐに独自の進化が起こった」

 ふいに、アーランドのダンジョンではヒカリゴケがやたら繁茂していたことを思い出す。あれも、今思えば独自進化している植生の一つだろう。

「……でも、こちらの、オーリストの方では最近わかったことだから、対応が遅れてしまっていたんだ」
「……なんだよ、それ」

 シーダが震える声で呟く。

「じゃあ、魔獣サセリアも、その後人間が魔獣になるようになっていったのも、元を正せばアンタやアンタの兄が金目当てに始めたことだったってのかよ」

 彼の声は低く、拳は血管が浮き出るほどに握りしめられていた。

「サセリアに殺されたやつもいる。魔獣になったまま、行方不明になった人もいれば、戻れない人だっている。騎士団からもそういう奴らが何人も出た。悪いことをしたって思わないのかよ!」

 シーダはフローリアンに近づいて、胸ぐらを掴んだ。急に揺り動かされたからか、フローリアンが血を吐き出す。

「……っ、げほっ」
「おい、シーダ……」

 ルーヴェルが止めようとする。シーダはそんな先輩に向かって悪態をついた。

「先輩だって未だ戻りきれていないじゃないですか! 憎くないんですか!?」
「…………」

 顔を歪め、ルーヴェルは口を閉ざす。それでも、シーダの手を止めて、フローリアンを地面に横たえさせた。
 彼はか細い声で返す。

「……もちろん悪いと思っている。ルーヴェル君にしても、五年も時間を奪ってしまって……。謝っても、許されないかも知れないけれど、謝らせてほしい……。本当に、申し訳ないことをした……」

 彼の声は涙声で、嗚咽混じりだったのでうまく聞き取れなかった。それでも、ルーヴェルの眉間のシワが消え、憐れむような表情が浮かんでいた。

「もうやめようと何度も言った。……ルーヴェル君が現れてからは、なんとか元に戻れる薬を作れないか試行錯誤していた。……でも、そのたびに兄さんが止めるんだ。そんな薬を作ってしまったら、商売に支障が出るからって……」

 彼の瞳が潤んでいる。まるで胎児のように横向きに寝転がり、自分の身を抱えた。

「兄さんに言われたことは、絶対なんだ……。幼い頃に両親をなくしたから、兄さんが必死になって育ててくれた。私が高い学費がかかる学校に行きたいと言ったときも、必死にお金を工面してくれた。私がそんな彼を愛してしまったときも、応えてくれた……。私に愛をくれたんだ……。裏切れるわけがない」

 嗚咽をもらしながら訴える様子は、赤ん坊のようだった。エルンは泣きそうになる。あの、いつも飄々として、輝いているように見えていたフローリアンが、こうしてボロボロになってか細い声で心情を吐露する様子をかわいそうだと思ってしまったのだ。
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