この契約結婚は君を幸せにしないから、破棄して、逃げて、忘れます。

箱根ハコ

文字の大きさ
53 / 92

52 アッシュ3

しおりを挟む

「ワウ……、ワウゥ……」

 なんとか泣き止んでほしくて、エルンはフローリアンを押さえつける。ぺろり、と彼の頬を舐めた。

「……え」

 きょとん、とフローリアンはエルンを凝視する。
 エルンは黒板を取り出すと、できる限り丁寧に文字を書いた。

『研究する楽しさを、苦しい気持ちで濁らせないで』

 短い文章で、意図が伝わっていたかどうかわからない。
 さらにエルンは続きを書いた。

『目を輝かせて、研究について語っているあなたが、好きです』

 みるみるうちに、フローリアンの瞳が潤んでいく。

「……っ」

 楽しげに植物を観察し、その成果を語るフローリアンの顔は生き生きとしていた。その表情を見るだけで、エルンの胸も弾んだ。

 エルン自身も植物学に心から惹かれ、夢中でのめり込んでいた一人である。しかし、その楽しさを理解してくれる人は少なく、孤独を感じることが多かった。だからこそ、フローリアンの研究室で共に研究を続けられることが、心から嬉しかったのだ。

 エルンはフローリアンもまた、自分と同じではないかと思っていた。高額な学費を払ってでもアカデミーに所属したのは、研究が好きで、共に語り合い、志を分かち合える仲間を求めていたから。そして、自分が愛する分野で成果を挙げ、それを兄が喜んでくれるのならと、張り切っていたのではないか。

 その結果、培った知識と頭脳を兄に悪用されるようになってしまった。

 抗議しても受け入れられることはなく、公に訴えることもできない。そんな状況に、フローリアンはどれほど苦しめられていたのだろう。想像すると、エルンの胸はひどく苦しくなった。
 エルンの想いが通じたのか、フローリアンの眦から涙がこぼれ落ちた。

「……ごめん」

 彼の手がエルンに手を伸ばした時だった。
 突然、木の根がフローリアンの体に絡みつく。
 彼自身が先程語っていたように、アシュヴァリーの木の根は動物が死ぬ際に発する臭いに反応する性質を持つ。その性質は魔獣に対するものだけだと思っていたが、人間にも有効なようだった。それとも、すぐ近くに魔獣であるエルンがいて、血の匂いと魔獣の匂いが混ざってしまったからだろうか。

 木の根はその性質通りに反応し、フローリアンの体を引っ張りながら地面へとめり込ませていく。

「……あっ」

 するすると伸びた根が、皮膚を割り開いて彼の体内に入っていった。

「ワウ!」

 慌ててエルンはフローリアンを追いかけようとしたが、どんどん彼の体が地面にめり込んでいくので、せめて服を引っ張るくらいしかできなかった。

「……因果応報というものかな」

 彼がつぶやき、抵抗を止めたその瞬間だった。

 ドガッ……!

 破壊音が響き渡り、砂埃が舞い上がる。

「ワウ! ワウワウ!?」

 匂いを頼りにフローリアンの所在を探り当てたが、一気に遠くへ移動してしまったようだった。
 やがて砂埃が収まり、視界が徐々にクリアになっていく。
 先ほどまでフローリアンが横たわっていた床はえぐられ、大きな丸い穴が空いていた。しかし、穴の奥を覗き込んでも、フローリアンの姿は見つけられない。

「……なぜ」

 彼のかすれた声は、エルンの背後から聞こえてきた。振り返ると、シーダが彼を抱きかかえている。彼は剣を抜いていたが、刀身はかなり傷んでいた。その隣でルーヴェルも剣を鞘に収めている。

「ワウ?」
「彼の周囲の木を根と地面ごと切り取ったんだ」

 なんでもないようにルーヴェルが説明してくれるが、かなりのことを一瞬でやってのけた事にぽかんと口を開いた。
 ルーヴェルは肩を竦める。

「シーダが合図を送ってくれたんだ」

 彼の言葉に、シーダに視線が集中した。

「当たり前だろ。フローリアンからはまだまだ聞き出さなくちゃいけないことがいっぱいあるんだ」

 フローリアンは苦しそうに唇を引き結ぶ。それに、とシーダが続けた。

「利用されていたことも、これまでこいつがやってきたことも、腹立つんだけどさ……、それでも、このまま死んだら、殴ることも出来ないだろ」

 シーダは肩に抱えているフローリアンに視線を送る。彼の体には、未だに木の根がまとわりついていた。シーダはそんな彼からぶちぶちと木の根を外していく。

「……殴る」

 フローリアンが体を強張らせる。

「流石にこんなけが人を殴るようなことはしねぇよ……。お前が兄貴を殴るんだ。ふざけんなって言ってやれよ。自分を散々弄びやがってって」

 フローリアンはきょとんと目を瞬かせた。
 散々苦しんできた恋心なのに、シーダの言い様では妙に俗っぽく感じられてしまった。

 その後、シーダはフローリアンの体から木の根を取り外し終えると、自分の鞄からポーションを取り出し、彼にかけた。

「それでさ、アンタはもう少し、自分の気持ちを大切にしたほうがいいと思うぜ。普通、そんなボロボロにされたら痛いだろ? だったら、素直に苦しいって言えばいいんだ。そして、俺をこんな目にあわせやがってって、ちゃんと怒れよ」

 彼の私物らしきポーションは、高級なものだったのだろう。みるみるうちに彼の傷が癒えていく。全身についた火傷の跡ですら、かなり薄くなっていた。

「……っ」

 ぽろぽろと、彼の瞳から涙がこぼれる。
 はぁ、と熱い吐息が漏らされた。フローリアンはシーダの腕から抜け出すと、その場に座り込む。

「……ルーヴェル君の言ったとおりだよ。兄さんは私にすべての罪を着せることにしたようだ」

 ようやく事の次第を教える気になったのだろう。

「だから、俺を愛しているんなら、ここから出ないでくれって……、こうして……」

 フローリアンの指先が、先程まで傷がつけられていたあたりをなぞる。

「……多分、兄さんは一人ずつ魔獣の姿に変えるつもりだったんだと思う。だから、君たちを魔法壁の中に保護しておいて、兄さんと交渉するために探していたんだ。このダンジョンに来る前に、兄さんに一通りのことを話してしまっていたからね。……エルン君が魔獣の姿になった時、きっと彼はここに来ると思っていた。……そして、その通りだった」

 つまり、エルンたちは閉じ込められていると思っていたが、フローリアン自身はそれを『守っている』と認識していたのだろう。

「クゥ……」

 エルンはしゅんと耳を下げ、フローリアンに近づく。彼は痛ましそうにエルンを見ると、エルンの前足に手を伸ばした。

「悪かった……。ここから出たら、逮捕してほしい。何を言っても結局、今回の原因を作ったのは私なんだから」
「…………」

 エルンはじっとルーヴェルを見つめる。可能であれば、情状酌量の余地は残してほしかった。
 ルーヴェルはエルンの視線から何が言いたいのかを察しているようだったが、あえて応えず冷たい表情を浮かべたままだった。

「……そうだな。けれどまずは、無事に出ることが先決だ。兄の行方はわかっているのか?」

 シーダも何かを言いたそうに先輩の姿を見つめるが、あえて口を挟まなかった。
 フローリアンは首肯する。

「彼の方は先に外へ出ようとしていると思う。……そうして、警察に行って私にすべての罪を着せるつもりなんだろう」
「……なるほど」

 ルーヴェルの眉間にシワが寄った。

「彼らにダンジョンの外に出られたら、魔獣になってしまったエルンを連れている以上、俺達はかなり動きづらくなるな。……エルン、彼の匂いを追ってもらえるか?」

 ワウ、とエルンは頷いて、周囲の匂いを嗅いだ。 
 かすかだが、フローリアンと似て非なる匂いが残っている。
 それを嗅いでいって、匂いの出どころを探っていった。
しおりを挟む
感想 12

あなたにおすすめの小説

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

冤罪で追放された王子は最果ての地で美貌の公爵に愛し尽くされる 凍てついた薔薇は恋に溶かされる

尾高志咲/しさ
BL
旧題:凍てついた薔薇は恋に溶かされる 🌟2025年11月アンダルシュノベルズより刊行🌟 ロサーナ王国の病弱な第二王子アルベルトは、突然、無実の罪状を突きつけられて北の果ての離宮に追放された。王子を裏切ったのは幼い頃から大切に想う宮中伯筆頭ヴァンテル公爵だった。兄の王太子が亡くなり、世継ぎの身となってからは日々努力を重ねてきたのに。信頼していたものを全て失くし向かった先で待っていたのは……。 ――どうしてそんなに優しく名を呼ぶのだろう。 お前に裏切られ廃嫡されて最北の離宮に閉じ込められた。 目に映るものは雪と氷と絶望だけ。もう二度と、誰も信じないと誓ったのに。 ただ一人、お前だけが私の心を凍らせ溶かしていく。 執着攻め×不憫受け 美形公爵×病弱王子 不憫展開からの溺愛ハピエン物語。 ◎書籍掲載は、本編と本編後の四季の番外編:春『春の来訪者』です。 四季の番外編:夏以降及び小話は本サイトでお読みいただけます。 なお、※表示のある回はR18描写を含みます。 🌟第10回BL小説大賞にて奨励賞を頂戴しました。応援ありがとうございました。 🌟本作は旧Twitterの「フォロワーをイメージして同人誌のタイトルつける」タグで貴宮あすかさんがくださったタイトル『凍てついた薔薇は恋に溶かされる』から思いついて書いた物語です。ありがとうございました。

「自由に生きていい」と言われたので冒険者になりましたが、なぜか旦那様が激怒して連れ戻しに来ました。

キノア9g
BL
「君に義務は求めない」=ニート生活推奨!? ポジティブ転生者と、言葉足らずで愛が重い氷の伯爵様の、全力すれ違い新婚ラブコメディ! あらすじ 「君に求める義務はない。屋敷で自由に過ごしていい」 貧乏男爵家の次男・ルシアン(前世は男子高校生)は、政略結婚した若き天才当主・オルドリンからそう告げられた。 冷徹で無表情な旦那様の言葉を、「俺に興味がないんだな! ラッキー、衣食住保証付きのニート生活だ!」とポジティブに解釈したルシアン。 彼はこっそり屋敷を抜け出し、偽名を使って憧れの冒険者ライフを満喫し始める。 「旦那様は俺に無関心」 そう信じて、半年間ものんきに遊び回っていたルシアンだったが、ある日クエスト中に怪我をしてしまう。 バレたら怒られるかな……とビクビクしていた彼の元に現れたのは、顔面蒼白で息を切らした旦那様で――!? 「君が怪我をしたと聞いて、気が狂いそうだった……!」 怒鳴られるかと思いきや、折れるほど強く抱きしめられて困惑。 えっ、放置してたんじゃなかったの? なんでそんなに必死なの? 実は旦那様は冷徹なのではなく、ルシアンが好きすぎて「嫌われないように」と身を引いていただけの、超・奥手な心配性スパダリだった! 「君を守れるなら、森ごと消し飛ばすが?」 「過保護すぎて冒険になりません!!」 Fランク冒険者ののんきな妻(夫)×国宝級魔法使いの激重旦那様。 すれ違っていた二人が、甘々な「週末冒険者夫婦」になるまでの、勘違いと溺愛のハッピーエンドBL。

5回も婚約破棄されたんで、もう関わりたくありません

くるむ
BL
進化により男も子を産め、同性婚が当たり前となった世界で、 ノエル・モンゴメリー侯爵令息はルーク・クラーク公爵令息と婚約するが、本命の伯爵令嬢を諦められないからと破棄をされてしまう。その後辛い日々を送り若くして死んでしまうが、なぜかいつも婚約破棄をされる朝に巻き戻ってしまう。しかも5回も。 だが6回目に巻き戻った時、婚約破棄当時ではなく、ルークと婚約する前まで巻き戻っていた。 今度こそ、自分が不幸になる切っ掛けとなるルークに近づかないようにと決意するノエルだが……。

何もしない悪役令息になってみた

ゆい
BL
アダマス王国を舞台に繰り広げられるBLゲーム【宝石の交響曲《シンフォニー》】 家名に宝石の名前が入っている攻略対象5人と、男爵令息のヒロイン?であるルテウスが剣と魔法で、幾多の障害と困難を乗り越えて、学園卒業までに攻略対象とハッピーエンドを目指すゲーム。 悪役令息として、前世の記憶を取り戻した僕リアムは何もしないことを選択した。 主人公が成長するにつれて、一人称が『僕』から『私』に変わっていきます。 またしても突発的な思いつきによる投稿です。 楽しくお読みいただけたら嬉しいです。 誤字脱字等で文章を突然改稿するかもです。誤字脱字のご報告をいただけるとありがたいです。 2025.7.31 本編完結しました。 2025.8.2 番外編完結しました。 2025.8.4 加筆修正しました。 2025.11.7 番外編追加しました。 2025.11.12 番外編追加分完結しました。

回帰したシリルの見る夢は

riiko
BL
公爵令息シリルは幼い頃より王太子の婚約者として、彼と番になる未来を夢見てきた。 しかし王太子は婚約者の自分には冷たい。どうやら彼には恋人がいるのだと知った日、物語は動き出した。 嫉妬に狂い断罪されたシリルは、何故だかきっかけの日に回帰した。そして回帰前には見えなかったことが少しずつ見えてきて、本当に望む夢が何かを徐々に思い出す。 執着をやめた途端、執着される側になったオメガが、次こそ間違えないようにと、可愛くも真面目に奮闘する物語! 執着アルファ×回帰オメガ 本編では明かされなかった、回帰前の出来事は外伝に掲載しております。 性描写が入るシーンは ※マークをタイトルにつけます。 物語お楽しみいただけたら幸いです。 *** 2022.12.26「第10回BL小説大賞」で奨励賞をいただきました! 応援してくれた皆様のお陰です。 ご投票いただけた方、お読みくださった方、本当にありがとうございました!! ☆☆☆ 2024.3.13 書籍発売&レンタル開始いたしました!!!! 応援してくださった読者さまのお陰でございます。本当にありがとうございます。書籍化にあたり連載時よりも読みやすく書き直しました。お楽しみいただけたら幸いです。

巻き戻った悪役令息のかぶってた猫

いいはな
BL
婚約者のアーノルドからある日突然断罪され、処刑されたルイ。目覚めるとなぜか処刑される一年前に時間が巻き戻っていた。 なんとか処刑を回避しようと奔走するルイだが、すでにその頃にはアーノルドが思いを寄せていたミカエルへと嫌がらせをしており、もはやアーノルドとの関係修復は不可能。断頭台は目の前。処刑へと秒読み。 全てがどうでも良くなったルイはそれまで被っていた猫を脱ぎ捨てて、せめてありのままの自分で生きていこうとする。 果たして、悪役令息であったルイは処刑までにありのままの自分を受け入れてくれる友人を作ることができるのか――!? 冷たく見えるが素は天然ポワポワな受けとそんな受けに振り回されがちな溺愛攻めのお話。   ※キスくらいしかしませんが、一応性描写がある話は※をつけます。※話の都合上、主人公が一度死にます。※前半はほとんど溺愛要素は無いと思います。※ちょっとした悪役が出てきますが、ざまぁの予定はありません。※この世界は男同士での婚約が当たり前な世界になっております。 初投稿です。至らない点も多々あるとは思いますが、空よりも広く、海よりも深い心で読んでいただけると幸いです。 また、この作品は亀更新になると思われます。あらかじめご了承ください。

ドジで惨殺されそうな悪役の僕、平穏と領地を守ろうとしたら暴虐だったはずの領主様に迫られている気がする……僕がいらないなら詰め寄らないでくれ!

迷路を跳ぶ狐
BL
いつもドジで、今日もお仕えする領主様に怒鳴られていた僕。自分が、ゲームの世界に悪役として転生していることに気づいた。このままだと、この領地は惨事が起こる。けれど、選択肢を間違えば、領地は助かっても王国が潰れる。そんな未来が怖くて動き出した僕だけど、すでに領地も王城も策略だらけ。その上、冷酷だったはずの領主様は、やけに僕との距離が近くて……僕は平穏が欲しいだけなのに! 僕のこと、いらないんじゃなかったの!? 惨劇が怖いので先に城を守りましょう!

処理中です...