この契約結婚は君を幸せにしないから、破棄して、逃げて、忘れます。

箱根ハコ

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85 この結婚は君を幸せにしないから

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「……どうあっても、私に反抗するつもりか?」

 リチャードが苦々しそうに息子に尋ねる。ルーヴェルは一度だけ頷いた。

「私が私の幸せを望むことを反抗と言うのであれば」

 朝の会話を思い出し、エルンは身構えてしまう。ルーヴェルは気がついたようだったが、リチャードはエルンの姿を視界に入れることなく話を続けていた。

「子どもはどうする? 男同士では作れないだろう?」

 リチャードはルーヴェルに近づく。

「いいか? どう考えてもこの結婚はお前を幸せにしない。いますぐ破棄して彼のことは忘れるんだ!」

 父親の怒りの剣幕に対して、ルーヴェルの瞳がどんどん冷えていった。

「子どもがいたら必ず幸せになれますか? でしたら、今のあなたが幸せに見えないのはどういうことでしょう?」

 リチャードのこめかみがピクリと動く。
 エルンからしても、男女で結婚をして子どもを生んで、というのが幸せの図式だと思い込んでいたことに気がついた。もちろん、子どもがいて幸せになれることはあるし、実際エルンの両親はエルンが居て幸せだとたくさん言ってくれた。
 その一方で、リチャードとルーヴェルのように、関係がうまくいかなくて不幸せを感じる家族だっている。人それぞれなのだ。
 更にルーヴェルは続けた。

「エルンと別れれば幸せになれますか? 私からすると、エルンと別れるほうが幸せにはなれません。第一……」

 かつ、と息子が一歩前に出る。石畳に彼のブーツの足音がやけに響いた。

「それを決めるのは私自身です。あなたや、世間ではありません」

 はっきりとした彼の言葉に、つん、と鼻の先がしびれた。視界が滲み、エルンは奥歯を噛んでやり過ごす。
 かつて、彼を幸せにするためだと、エルンは自ら逃げ出した。彼の言葉はその時の自分に対する叱責であり、救いにも思えた。

「……将来、後悔しないように言っているのだ」
「私は、今、後悔しない道を選びたいんです」

 ルーヴェルの言葉には淀みがない。

「あの……、リチャードさん」

 黙っていられなくて、一歩前に出る。
 リチャードはやっと気がついたとばかりにエルンを見て目を丸くしていた。エルンは胸に手を当てて続ける。

「父親としてリチャードさんが不安に思う気持ちはよくわかります……。でも、僕、まだまだ稼ぎは少ないですけれど、将来もしもルーヴェル君に何かあった時に支えられるようにがんばります!」

 心臓がばくばくとうるさい。
 彼なりに、きっとルーヴェルのことを心配して言っているのだろうとわかっている。
 だからこそ、伝えたかった。ルーヴェルの言葉に応えたいのだ。

「確かに僕たちには子どもができない。でも、将来何が起きても、……もしもまたルーヴェル君が獣になっても、僕はずっと彼のそばにいると誓います! 彼が誰に見捨てられたとしても、僕だけは味方でいます!」

 まっすぐにリチャードを見つめる。
 視界が滲んで、鼻がつんと熱くなってきた。
 彼はルーヴェルの生きる場所は騎士団で、彼の後を継ぐものだと思っているのだろうが、彼はどこででもやっていけると信じているし、いくらでも支える。
 リチャードは唇を引き結んだ。
 彼は目を細めてルーヴェルを見る。その視線には、何か言いかけたような、戸惑いと痛みが混ざっていた。

「……ずっと、そばに」

 眉間にシワを寄せ、ルーヴェルの顔を見る彼の顔は普段の威厳は感じられず、力のないただ一人の壮年男性に見えた。肩は落ち、どこか途方に暮れているようにも感じる。

「……そうか」

 力なく呟いて、彼は踵を返すと去っていく。
 ルーヴェルはその後暫くの間、父親の背中を眺めた後、ため息をついてエルンに振り返った。

「すまなかったな……。変なところを見せて」

 いつものエルンの前で見せる穏やかで優しい彼に戻っていた。
 エルンの心臓がどくどくと鼓動を刻む。嬉しくて仕方がなかった。

「……僕は、かっこいいって思ったよ、ルーヴェル君」

 声が震えている。
 ルーヴェルはエルンに向き直ると頬を緩めた。その目が少し赤い。
 彼は無言でエルンに近づいてくると、両手を広げ、ぎゅっと抱きしめた。

「……ありがとう」
「え? ええ?」

 こんな往来で、とエルンは固まる。少し遠くで、女性が「きゃあ!」とさざめく声が聞こえた。
 すぐにルーヴェルはエルンから体を離し、柔らかく微笑む。

「まぁ……、今後俺の立場は厳しいものになるだろうけどな。とはいえ、すっきりとした気分だ」

 彼の表情は晴れ晴れとしたものだった。

「今回、ルーヴェル君はきちんと調べて、真実を裁判の場にさらしただろう? きっと色んな人が、君の価値を認めてくれるよ!」

 騎士団内のことはわからないながらも、エルンは告げる。

「一つの場所で成果を出せているんだから、ルーヴェル君ならきっと、どこにいっても大丈夫だよ」

 続けて告げると、ルーヴェルは嬉しそうに微笑んだ。

「……ありがとう。君に失望されないよう、がんばるよ」

 目を丸くし、エルンは即座に言い返した。

「君に失望することなんて、絶対にないよ!」

 彼が魔獣になってもそばにい続けたのである。自分の恋心のしぶとさにはエルンは自信を持っていた。
 ルーヴェルは複雑そうな顔をして、けれど頷きを返すと踵を返した。

「それじゃあ、俺は押収した資料をもっと詳しく調べるから……。エルン、気を付けて帰ってくれ」

 告げて、彼は騎士団の詰め所まで向かう。エルンはその場に留まり、ルーヴェルの後ろ姿をずっと見続けていたのだった。
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