天使の隣 〜駅伝むすめバンビ〜

鉄紺忍者

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【6区 6.4km 小泉 柚希(2年)】

③ 強くなりたい

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「もしもし、ラギか? おつかれさま」

「おつかれさまです。バンビですよね? 今、代わります」

すぐ横にいたから、一部始終が聞こえていた。楓は少し身構えながらも、スマホを受け取った。

「はい、もしもし、栗原です」

「おう。調子はどうだ?」

「うーん。ドキドキして苦しいです」

「あはは。そうかそうか」

駅伝選手は、レース本番が近づくと練習量をセーブするのが通例らしい。ジョグの量は半分に、やるべき高強度の練習は強化合宿のうちに済ませてある。にもかかわらず、不安や緊張からくるストレス、あるいは気持ちのたかぶりりでアドレナリンが出ているせいなのか、走っていないのに勝手に痩せていく。

ランナーの繊細な身体は、ただでさえ少ない体脂肪率が擦り減り、風邪などの病気にもかかりやすくなる。しっかりと栄養も取らなくてはいけない。

今この身体で走ったら、どんな感じだろうか。すごく軽いんじゃないだろうか。どんどん膨らんでいくジェット風船を、破裂寸前で止めているみたいな、そんな感覚だ。

前日はまたムクムクとグラウンドに出てきて刺激走をしたけど、それもほんの短い時間だけ。そうしておあずけを食らった走りたい気持ちで、風船の中はさらに満たされた。今はただ、噴射の瞬間をひたすらに待っている。

「大丈夫だよ。仕上げの練習もちゃんとできていたんだ。走っている後ろから指示は出すつもりだけど、例のごとく途中で聞こえなくなるだろうから、無理して聞こうとしなくていい。走りに集中しちゃっていいから」

「あ、はい、すみません、はい」

毎度のことだが、楓は走り出すと他のことが耳に入らなくなる。監督が理解してくれていて、少しだけ気持ちがラクになった。

「ただ、7キロあるってのだけは覚えておいてね。予選の5キロよりも長いんだからな」

「はい」

復帰してからまだ一ヶ月も経っていない中で、急ピッチで仕上げてきた。一時は12・9キロを走るつもりで練習してきたのだから、7キロなら大丈夫かと思いきや、監督からは「俺は7キロでもまだ長いと思っているよ」とオーダー発表の際に言われた。

「それから」

電話越しに、監督が何かを飲み込むような音が聞こえてきた。その一瞬の沈黙で、何か重要なことを伝えようとしていると察知した。

「すまなかったな。5区走らせてやれなくて」

楓はその言葉を、しばらく額の前に浮かべて見つめてしまった。走れなかったのは自分の無力さのせいだ。あの時、無理をしなければ、楓が5区を走っていた未来があったのかもしれない。監督が謝ることではない。そんな考えが頭をよぎった。

「い、いえ……」

「俺の指導力不足だ。来年こそは5区で勝負できる力をつけさせたい」

想像もしていなかった。監督がそんな風に思っていたこともそうだし、来年のことも。

(来年……)

もし今回エース区間を走ることになっても、それは楓が大黒柱になるという意味合いではなく、他の区間に蓮李先輩がいてくれる安心感込みでのことだ。蓮李先輩は、卒業する。チームを太陽のように照らしてくれるあの存在がいなくなる。そんな光景は、今はとても想像がつかなかった。

ひょっとして、楓が「エリカさんと走りたい5区」は、次回には「走らなければいけない5区」になるのではないだろうか。エリカさんは3年生だから、一緒に走れるのは来年がラストチャンスになる。楓はモタモタしてなどいられない。

「……私、強くなります」

「あぁ。これから1年間かけて一緒に準備していこう」

「はいっ」

「よし。4回走るうちの1回目だと思って、気楽に走ってよ。それじゃ、10分後ぐらいに出番だからな。よろしく頼むよ」

楓はラギちゃんにスマホを返し、心の中で静かに、少しずつ覚悟が固まり始めた。監督に任された区間でしっかり走りたい。そして、楓の胸の内にはもう一つ、強烈なモチベーションが渦巻いていた。思い出さずにはいられない。昨日の開会式の直後、エリカさんにもらった言葉。

『私に見せてちょうだい。今の楓の走りを』



みなと駅伝前日の夕方。パシフィコ横浜のホールにて、ブラスバンドの壮大な演奏を皮切りに、横浜みなと駅伝の開会式が催された。もちろん楓たちアイリスのメンバーも出席し、ローズ大学の黒薔薇副キャプテン・姫路さんによる優勝旗返還、白薔薇キャプテン・松永さんによる選手宣誓を見届けた。

式が終わると、アイリス以外の選手たちは会場横のホテルへと吸い込まれていく。海に面した窓のパネルがきらめいていて、あそこからの眺めはどんなに良いだろうかと想像した。

「みなさんホテルに泊まるんですね。いいなぁ」

楓がのんきに呟くと、朝陽先輩が首を傾げて言った。

「そうか? 泊まる必要がなくて、自分たちの寮で寝てから臨めるほうがラッキーだと思うけどな」

言われてみればその通りかもしれない。普段と変わらない環境でリラックスできるのは、明日のレースで力を発揮するには大きなアドバンテージだ。楓は歩きながら、納得して頷いた。

「確かに。枕が変わると寝られないですもん」

「でしょー? 私もだよ」

隣の芝生は青いと言うが、せっかく地元開催なのだから、ホテルに宿泊する選手たちを羨んでいてはもったいない。そんなことを考えながらまさにその隣の芝生を眺めていると、ホテルの入り口に向かって階段を上がっていく軍団に、楓の視線が止まった。

(あの緑のジャージ、ってことは……)

やっぱり。その姿を確認した瞬間、急に鼓動が速くなった。楓はふらりとチームのかたまりを離れる。

「すみません! 先に戻っててください」

「あ、バンビ」

楓の特技。人混みの中で、を見つけること。楓は、どうしても伝えたいことがあった。

「エリカさん!」

呼びかけると、その人は優雅に振り返った。

「楓、どうしたの」

「少しお話ししたくて……」

楓が息を整えながら答えると、人通りの邪魔にならないように建物の柱のほうへ二人で寄った。

「楓、焼けたんじゃない? なんだか顔つきも別人みたい」

夏休みに部活漬けだった女の子に対して「焼けた」は、普通は傷つくワードなのかもしれないけど、楓は、どうして自分が頑張れたのかを知ってもらいたくなった。

「……私、エリカさんが5区で『待ってる』って言ってくれて、それからずっと5区を走りたくて、色々なことがあっても頑張ってきました」

胸につかえていた言葉を吐き出すように言うと、知らずのうちに声が大きくなっていた。エリカさんも驚いた様子で楓のことを見た。

「でもごめんなさい、ダメでした……。力、足りませんでした……」

声が掠れた。だめだめ、泣くつもりなどなかったのに。チームメイトにも監督にも言えず、蓋をしていた気持ちが溢れてしまった。

エリカさんのほうは、有言実行。明日のオーダー表の5区の欄に、当然のごとく名前が載っていた。憧れの人が手を差し伸べてくれたのに、届かなかった。楓だけが待ち合わせ場所にたどり着けなかった。申し訳なくて、情けなかった。

「そう。それは確かに残念だわね」

エリカさんはしばらく沈黙した後、静かに続けた。

「でも私は、同じコースを走らない時にも、見える景色はあると思うわ」

(えっ?)

楓は顔を上げた。

「明日私は、楓に見せるためのレースをする。だからあなたも、私に見せてちょうだい。今の楓の走りを」

そこでタイミングの良く「監督が探しています」とエリカさんを呼びにきたのは、当然というか、想像通りというか、やっぱり伊織ちゃんだった。あいかわらず苦手な人だけど、怯えたりはしなかった。楓の胸の内は、満たされていた。

「私、目に焼きつけます! エリカさんの走り!」

(……そして。見ていてください。私、強くなりました!)

* * *

ホテルの自室に戻ったエリカは、楓が道場破りに来た日の帰りを思い返していた。確かに、エリカは言った。5区で待っている、と。けれどそれを、楓は勘違いして受け取っていた。いや、この場合は、エリカの言葉が足りなかったと認めざるをえないか。

(なにも、今年の話ではなかったのに)

ほんの数ヶ月前の彼女とは、別人のように感じられた。楓が、今年の5区を走るつもりだったことに驚いた。今年のアイリスには二神蓮李がいる。普通に考えて、5区を走るのは彼女だ。

いや、普通って、楓に一番似合わない言葉かもしれない。エリカにリベンジしたくて大学まで会いに来てしまったような子だから。目標に向かって一直線に走る時の楓の前では、常識や普通なんて言葉はもはや無力である。

この短期間で、一体どれだけ成長しているのだろうか。

明日が、楽しみになった。
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