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【6区 6.4km 小泉 柚希(2年)】
⑤ 全身全霊
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「サイ、ですかね」
ウサギ、犬ときて、サイか。急にごつくなった。
自分のところの後輩だから、気を遣って可愛いイメージの動物を探すのを諦めたかな。しかし、あまりに突然遠慮のスイッチを切るものだから、スタジオはどう反応すべきか、どうフォローしていいのか、微妙な空気になっていた。
【サイですか。それはどういう……】
真中アナが、恐る恐る聞いた。福山さんが苦笑いを浮かべつつ、続ける。
「いや、彼女、パワーでグイグイ登るタイプなので。前にいる選手を吹っ飛ばすくらいの勢いで、パワフルな走りを見せると思います」
(そいつは恐ろしいな)
【なるほど。見れば見る程に興味深い、三者三様の選手起用ですね】
真中アナが巧みに話をまとめた。さすが、みなと駅伝のスタジオ実況を任されるようなベテランアナウンサーだ。一言で、全てが丸く収まった。
「あっ、あっ……」
その時、鱒川さんが何か慌てたように声を上げた。
「……宮沢さん、出ましたね!」
(はっ?)
中継映像が、慌ただしく先頭へと切り替わった。
立花は監督車の助手席から、思わず身を乗り出す。何が起こったのか。画面に映る選手たちと、目の前を走る選手たち、その両方を交互に注視した。
決して油断していたわけではない。山手警察署前の信号を右折する際、ほんの数秒、選手たちの姿が監督車の視界から消えていた時間があった。カーブを抜けた時、目に飛び込んできたのは、一人になった柚希。そして、数メートル前を加速していく宮沢千種の後ろ姿であった。
(まだ4キロだぞ!?)
この先の6キロ付近に急激な上り坂を控えている。このタイミングでのスパートはあまりに無謀に思えた。にもかかわらず、立花はハッと息を呑み、「やられた」と感じた。それはなぜか。その理由を思案する間にも、千種はますます差を広げていく。
声掛けポイントはまだ先だ。今はただ、黙って見守るしかない。ひたすらもどかしい。焦燥感がじわじわと胸を焼き付ける。冷たい汗が首筋を伝い、呼吸も浅くなっていく。
数秒前までは、中継スタジオの空気が落ち着き、立花は安堵の息すら漏らしていた。いや、立花だけじゃない。
次の山場を6キロ地点と見越し、嵐の前の静けさのごとく、映像はスタジオへ切り替えられていた。談笑する解説席。ペースを落として、息を整えようとしていた柚希。誰もが一瞬の凪に入ったその時。千種は影を潜めていた草むらから突然飛び出し、勝負をかけた。
普段は明るく振る舞いながらも、内心はどこまでも疑り深く、計算高い。この6区では後半の上り坂に備えて体力を温存しておくのが定石だ。しかし、彼女はいつも、自分に王道は似合わないと言わんばかりに、最初から|そうした正攻法をスパッと捨ててしまう。
そして、予想だにしないタイミングで皆の前に現れ、夕空に向かって笑顔を浮かべるのだ。昔からそういう子だった。
立花は再び、前方の道に目を向けた。小湊橋交差点を直角に左折すると、長く続く直線道路が現れる。立花と反対側、右ハンドルの運転席の窓に何かがぶつかってきた。海風だ。ついに戻ってきたのだ。この先にはもうすぐ、みなとみらい地区が見えてくる。
『さあ、宮沢が一瞬の隙を突いてギアを上げました! 巧みなコーナーワークで一気に差を広げていきます。今、その差が10メートル。小泉、ついていけません!』
実況はいつの間にか1号車に切り替わっていた。スタジオの穏やかなトーンとは裏腹に、1号車に乗る市原アナウンサーはここぞとばかりに声を張り上げ、臨場感たっぷりに状況を伝えている。解説の高梨さんが、千種の走りを賞賛した。
「ジャスミン大学の選手は思い切りが良いですよね。先ほどの神宮寺さんも、ここと決めたら一気に切り替えて独走体勢に入りました。その神宮寺さんからタスキを貰った宮沢さんにも、まるで勢いが乗り移ったかのようです」
『一方アイリスの小泉ですが、宮沢のスパートに意表を突かれ、ペースを崩しているでしょうか?』
「そうですね。小泉さん、顎が上がって、上体も左右に振れるようになってしまいました。なんとか立て直してほしい場面です。6秒差を詰めた後、さてどこで仕掛けようかときっと考えていた矢先に、突然のカウンターを喰らいましたから。精神的なダメージも大きいでしょうね」
(どうした、柚希!? 反応できないか?)
柚希は眉間に深い皺を寄せ、険しい表情で苦しんでいる。腕振りにも力が入り過ぎだ。彼女本来の軽やかさが失われている。
『ジャスミンの宮沢のほうは、このロングスパートでスタミナは大丈夫なのでしょうか?』
市原アナウンサーが問いかけると、高梨さんが静かに語った。
「はい。確かに宮沢さんも、決して余裕のある走りではないですが、それ以上に、チームの初優勝に向けた覚悟が感じられます」
(覚悟……。確かに、この走りにふさわしい言葉だな)
* * *
柚希自身も、それを痛感していた。
(ちょっと、どういうことなの。前半あれだけ飛ばしておいて、アレのどこにまだそんな力が?)
覚悟の決まった走り。まるでラストの坂のことなんて考えていないかのような勢いだ。最後の上り坂で先頭に出る、という柚希のプランは完全に崩れてしまった。
(このままじゃ、チームの優勝が! MVPが!)
後ろに蹴り上げる足が、焦りと苛立ちで鉛のように重くなっていく。
◇
【という、1号車の映像、ご覧いただきましたが。スタジオ解説の鱒川さん。最後の上り坂までまだ2キロ近くあるのですが、宮沢が何か意を決したように、思い切って前に出ましたね?】
「もしかして、このままだとラストの坂では小泉さんのほうに分があると判断して、先手を打ったかもしれませんね」
【なるほど。そして後方には、追い上げてきているチームがあるようです。2号車、どうぞ?】
ウサギ、犬ときて、サイか。急にごつくなった。
自分のところの後輩だから、気を遣って可愛いイメージの動物を探すのを諦めたかな。しかし、あまりに突然遠慮のスイッチを切るものだから、スタジオはどう反応すべきか、どうフォローしていいのか、微妙な空気になっていた。
【サイですか。それはどういう……】
真中アナが、恐る恐る聞いた。福山さんが苦笑いを浮かべつつ、続ける。
「いや、彼女、パワーでグイグイ登るタイプなので。前にいる選手を吹っ飛ばすくらいの勢いで、パワフルな走りを見せると思います」
(そいつは恐ろしいな)
【なるほど。見れば見る程に興味深い、三者三様の選手起用ですね】
真中アナが巧みに話をまとめた。さすが、みなと駅伝のスタジオ実況を任されるようなベテランアナウンサーだ。一言で、全てが丸く収まった。
「あっ、あっ……」
その時、鱒川さんが何か慌てたように声を上げた。
「……宮沢さん、出ましたね!」
(はっ?)
中継映像が、慌ただしく先頭へと切り替わった。
立花は監督車の助手席から、思わず身を乗り出す。何が起こったのか。画面に映る選手たちと、目の前を走る選手たち、その両方を交互に注視した。
決して油断していたわけではない。山手警察署前の信号を右折する際、ほんの数秒、選手たちの姿が監督車の視界から消えていた時間があった。カーブを抜けた時、目に飛び込んできたのは、一人になった柚希。そして、数メートル前を加速していく宮沢千種の後ろ姿であった。
(まだ4キロだぞ!?)
この先の6キロ付近に急激な上り坂を控えている。このタイミングでのスパートはあまりに無謀に思えた。にもかかわらず、立花はハッと息を呑み、「やられた」と感じた。それはなぜか。その理由を思案する間にも、千種はますます差を広げていく。
声掛けポイントはまだ先だ。今はただ、黙って見守るしかない。ひたすらもどかしい。焦燥感がじわじわと胸を焼き付ける。冷たい汗が首筋を伝い、呼吸も浅くなっていく。
数秒前までは、中継スタジオの空気が落ち着き、立花は安堵の息すら漏らしていた。いや、立花だけじゃない。
次の山場を6キロ地点と見越し、嵐の前の静けさのごとく、映像はスタジオへ切り替えられていた。談笑する解説席。ペースを落として、息を整えようとしていた柚希。誰もが一瞬の凪に入ったその時。千種は影を潜めていた草むらから突然飛び出し、勝負をかけた。
普段は明るく振る舞いながらも、内心はどこまでも疑り深く、計算高い。この6区では後半の上り坂に備えて体力を温存しておくのが定石だ。しかし、彼女はいつも、自分に王道は似合わないと言わんばかりに、最初から|そうした正攻法をスパッと捨ててしまう。
そして、予想だにしないタイミングで皆の前に現れ、夕空に向かって笑顔を浮かべるのだ。昔からそういう子だった。
立花は再び、前方の道に目を向けた。小湊橋交差点を直角に左折すると、長く続く直線道路が現れる。立花と反対側、右ハンドルの運転席の窓に何かがぶつかってきた。海風だ。ついに戻ってきたのだ。この先にはもうすぐ、みなとみらい地区が見えてくる。
『さあ、宮沢が一瞬の隙を突いてギアを上げました! 巧みなコーナーワークで一気に差を広げていきます。今、その差が10メートル。小泉、ついていけません!』
実況はいつの間にか1号車に切り替わっていた。スタジオの穏やかなトーンとは裏腹に、1号車に乗る市原アナウンサーはここぞとばかりに声を張り上げ、臨場感たっぷりに状況を伝えている。解説の高梨さんが、千種の走りを賞賛した。
「ジャスミン大学の選手は思い切りが良いですよね。先ほどの神宮寺さんも、ここと決めたら一気に切り替えて独走体勢に入りました。その神宮寺さんからタスキを貰った宮沢さんにも、まるで勢いが乗り移ったかのようです」
『一方アイリスの小泉ですが、宮沢のスパートに意表を突かれ、ペースを崩しているでしょうか?』
「そうですね。小泉さん、顎が上がって、上体も左右に振れるようになってしまいました。なんとか立て直してほしい場面です。6秒差を詰めた後、さてどこで仕掛けようかときっと考えていた矢先に、突然のカウンターを喰らいましたから。精神的なダメージも大きいでしょうね」
(どうした、柚希!? 反応できないか?)
柚希は眉間に深い皺を寄せ、険しい表情で苦しんでいる。腕振りにも力が入り過ぎだ。彼女本来の軽やかさが失われている。
『ジャスミンの宮沢のほうは、このロングスパートでスタミナは大丈夫なのでしょうか?』
市原アナウンサーが問いかけると、高梨さんが静かに語った。
「はい。確かに宮沢さんも、決して余裕のある走りではないですが、それ以上に、チームの初優勝に向けた覚悟が感じられます」
(覚悟……。確かに、この走りにふさわしい言葉だな)
* * *
柚希自身も、それを痛感していた。
(ちょっと、どういうことなの。前半あれだけ飛ばしておいて、アレのどこにまだそんな力が?)
覚悟の決まった走り。まるでラストの坂のことなんて考えていないかのような勢いだ。最後の上り坂で先頭に出る、という柚希のプランは完全に崩れてしまった。
(このままじゃ、チームの優勝が! MVPが!)
後ろに蹴り上げる足が、焦りと苛立ちで鉛のように重くなっていく。
◇
【という、1号車の映像、ご覧いただきましたが。スタジオ解説の鱒川さん。最後の上り坂までまだ2キロ近くあるのですが、宮沢が何か意を決したように、思い切って前に出ましたね?】
「もしかして、このままだとラストの坂では小泉さんのほうに分があると判断して、先手を打ったかもしれませんね」
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