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1巻
1-3
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眉を寄せて抵抗していた燐は、宦官の言葉に力を抜いた。
「……行きます」
朝から晩まで床磨きをしていては指輪を探すどころではない。とにかく早く仙郷に帰りたい。そのためにも、今より動きやすい環境が必要だとずっと考えていた。
「面倒を見てやったのに! 恩知らずめ!」
老女は杖を床に何度も叩きつけて怒っていたが、諦めたように燐たちに背を向けて床磨きを再開した。
燐は、小声でブツクサと文句を言っている老女をチラッと見る。
「悪いことしちゃったな」
「気にするな。床磨きは他にもいるんだ。あの婆さんは話し相手が欲しかっただけだろうさ。そもそもあの婆さんは相当な変わり者でな、大昔には宮女をしていたそうだ。年季が明けた後も、何度も後宮に戻ってきて、ずーっと働いていたんだと。年寄りになってもう掃除しかできなくなっても、まだ後宮にしがみついてるんだ。きっと外には居場所がないんだろうな」
「へえ」
宦官もそれなりの年齢に見えたが、そんな彼でも知らないくらい昔から、老女は後宮にいるらしい。確かに顔は皺に埋もれ、老女の年齢は見当もつかなかった。
外に居場所がないという言葉に、燐には少しだけ老女の気持ちがわかる気がした。
宦官は姜と名乗った。
彼は燐を連れて、これまで行ったことがない後宮の奥へ向かっていく。いくつもの宮殿を通り過ぎ、一際立派な宮殿の前で足を止めた。
丹で塗られた鮮やかな壁に巨大な扁額、装飾は金だ。大扉に使われた白い大理石には花が彫り込まれていて、その白さが目に眩しいくらいだった。
燐は宮殿を見上げ、ほうと息を吐く。
建物に詳しくない燐でも、その美しさくらいは理解できた。
「立派な建物だろう。神獣殿だ。近々ここで行う華妃選定の儀という式典のために宮女を集めているのさ。準備のために色んな仕事をしてもらうからな。大変だが頑張ってくれよ」
そう言われて燐は曖昧に頷く。
「――おや、姜。その娘は新しい宮女か?」
突然聞こえた声に、燐はギクリと肩を震わせた。
「これは、紫貴様ではありませんか!」
姜が畏まった声を出す。
「このお方は太子の紫貴様だ。ご挨拶を――」
姜がみなまで言う前に、燐は慌ててその場に膝をつき、紫貴から顔が見えないように顔を伏せた。
「お、おい、燐。宮女なら平時は立礼でいいんだっ!」
姜が慌てて燐に囁く。
しかし顔を見られたくない燐は顔を伏せたままブンブンと首を横に振った。
「驚かせてしまったか。立ちなさい」
直接そう言われては燐も立たないわけにはいかない。
渋々立ち上がると、紫貴は思いの外、燐の近くに立って彼女を見下ろしていた。
近くで見ると、顔立ちが整いすぎていて怖いくらいだ。
ふと、かつて見た冷たい月の光を思い出した。
じっと見つめてくる切れ長の目は、燐を睨んでいるようにも見えて、怯んでしまう。笑みを浮かべていないせいか、酷薄そうな雰囲気を感じて背中に汗が流れた。
覚えていませんようにと祈りながら、改めて立礼をした。
「その髪の色は床磨きをしていた娘だな。名前は?」
その言葉に肩が震えそうになるのを必死に堪える。
やはり燐の珍しい髪の色は、紫貴に覚えられていたようだ。
獣操の力を使った時、布を被っていてよかったと心底思う。
「り、燐と申します」
声を聞いて、燐が馬を操った時のことを思い出されたらという焦りから、つい声が掠れてしまった。しかし燐の声を聞いても紫貴の顔色は変わらない。
「ふむ、燐か」
(――あれ、気付かれてない?)
あの時とは目の色が違うし、まさかこんなところにいるとは、思ってもいないのかもしれない。
内心でホッと息を吐いた。
「人手が足りないため忙しい思いをさせるが、どうか頼む。姜も、宮女を集めてくれて感謝する」
燐は紫貴の言葉に目を瞬かせた。あまり皇子らしくない言葉だ。
腰が低いのとも違う。凛としているのに、どこか柔らかい。
老女から聞いていた、腹を立てて床磨きを蹴飛ばしたという皇子の印象と、まったく異なっていた。
紫貴はすぐにその場を去っていく。燐は彼の揺れる長い髪を目で追いながら、ふう、と息を吐いた。
緊張したせいでまだ心臓が激しい音を立てていた。
「おい、大丈夫か。まあ、びっくりするくらいお綺麗なお顔だもんなぁ」
姜は燐の緊張をそう受け取ったらしい。燐は否定せず、頷いておく。
「でも、全然怖くないというか……。太子ってすごく偉いんだから、もっと威張っているものじゃないんですか?」
燐の質問に、姜は困った顔をして声を潜めた。
「そりゃ、皇帝陛下の次に偉いさ。でも、紫貴様の産みの母君は正妃じゃないんだ。そのせいで幼い頃から正妃から嫌がらせをされていたって噂さ。威張ったりしたら、これ幸いにとばかりに足を引っ張られるだろう?」
「なるほど……」
燐もかつて、些細なことを咎められ、殴られた経験がある。
隙を見せないようにする重要さは理解できた。
「ああ見えて、苦労されている方なんだ。仕えていた従者が立て続けに死んでしまって、殺されたなんて噂もあるものだから、式典のために新しく宮女を募集しても、怖がられてしまって、なかなか集まらんというわけさ。儂も大変なんだぞ」
燐は人間の醜さを感じ、鼻に皺を寄せた。
しかし、今はそんなことより、指輪を探せる環境の方が大事だ。
「それより早く案内してください」
「ああ、こっちだ」
姜から宮女のお仕着せをもらい、下級宮女の寮舎に案内された。
お仕着せの上衣は鴇色をした筒袖の袖衫に、下衣は薄緑色の丈長の裙という華やかな組み合わせである。下っ端のお仕着せとはいえ、柔らかく上質な布で、着心地もいい。
また、寮舎も立派な建物だった。姜が言っていた通り、食事や寝台は、床磨きの時より格段にいいものだ。
しかし宮女の寮舎は相部屋なのである。
床磨きの時は、床にギリギリ布団を敷ける程度の広さしかなく、壁も強く押したら倒れそうなくらいだったが、一応一人部屋だった。
新しい燐の部屋は広い部屋を衝立で仕切った四人部屋だった。広くて綺麗だし、しっかりした寝台もある。だが、燐は他人と一緒の空間が不安だった。
(だ、大丈夫。床磨きの仕事で少しは人間に慣れたし……)
そう自分に言い聞かせても、警戒心はどうにもならない。
同室になった三人は、全員燐と同じ年頃の若い娘だった。
「ねえ、燐ってどこ出身なの?」
「ええと……北の方。すごい田舎だから、言ってもわからないと思う」
「燐ってなんで宮女を目指そうと思ったの?」
「後宮に来る前は何をしていたの?」
矢継ぎ早に質問攻めにされ、言葉を濁して誤魔化した。
「燐って紫貴様にご挨拶したことがあるんでしょう。いいなあ、震えが走るくらい綺麗な顔だよねえ」
「皇子の方々だと誰が好き? 私は楓葉様が優しそうで好きだな」
「わかる。物腰も優雅だし、上品で素敵だよねえ」
「ああ、うん……」
彼女たちの話題はポンポン飛びまくるが、燐はどれも上手く答えられない。
そもそも紫貴以外の皇子の顔など知らない。
他にも皇子がいるということさえ、今知ったくらいだ。
「はあ……あんたってつまんない子ね」
ろくに答えられない燐に、三人のうちの二人の宮女から、呆れた様子でそう告げられてしまった。
燐はこっそりため息を吐く。
瞳の色を変えてもやっぱり同じ。
人間なんて、ちょっと違うところがあるだけで、すぐに爪弾きしようとするのだ。そんな思いで心が重くなっていく。
「み、みんな、仲良くしようよっ!」
そんな声が響き、燐は思わず仰け反った。
残る一人が突然大きな声を出したのだ。
「べ、別に仲間外れにしようっていうんじゃないわよ……」
燐だけでなく、同室の宮女二人も呆気に取られたようで、ゴニョゴニョ言い訳を口にしている。
「私、秀雲。わからないことがあったらなんでも聞いてね!」
声と同じくらい背の大きい宮女、秀雲は燐にそう言って手を差し出した。
握手をしたいようだ。燐はするつもりはなかったが、秀雲は燐の手を掴み、ぶんぶんと振った。背だけでなく手まで大きい。
慌てて振り払った燐に、秀雲はニコッと笑いかけてくる。
(なんのつもり……?)
自分と仲良くしたところで秀雲に利点なんてないだろうに、親切ぶって、何か企んでいるのだろうか。
同室ということで、仕事でも燐は秀雲と組むことになった。
だが、実際に組んでみると、秀雲は少々不器用で、仕事も失敗が多い。
空気を読むのも苦手なようで、休憩の時もなかなか燐を一人にしてくれないから、正直鬱陶しい。
食堂でも必ず燐の隣に座った。
「ねえ、燐の髪の色って変わってるね。それ、白髪じゃないんでしょ。北の方の出身なんだっけ? 北の方ってそういう髪の色の人多いの? 家族も同じ色?」
「孤児だから知らない」
燐は秀雲の無遠慮な言い方に、ため息を堪えながらそう返した。
燐が少々冷たくあしらっても、秀雲は気にしないようだ。
「そうなんだぁ。私は兄弟がすっごく多いよ。下に弟と妹が合わせて十人いるんだ。おかげで貧乏だし、ご飯時もおかずの取り合いで大変なんだよぉ」
燐が孤児だと言えば、周囲は空気を読み、話を変えることが多かったが、秀雲はそれも気にしない。燐は日々纏わりついてくる秀雲にうんざりしていた。
そんなある日のこと。
寮舎の部屋に仕掛けられていた鼠取りの罠に鼠が引っ掛かっていた。
餌に釣られて籠に入ると、出口が閉まって出られなくなる種類のものだ。
籠の中の鼠は必死に暴れ回り、ガシャガシャと激しい音を立てていた。
同室の二人の宮女は生きた鼠に、きゃあきゃあと甲高い悲鳴を上げる。
秀雲でさえも青い顔をして大きな体を精一杯縮こめていたくらいだ。
若い娘は一般的に鼠が苦手だというのは燐も知っている。
だが、燐としては絶好の機会だ。
「私が処分しておくから」
「助かるわ。お願いね」
燐は鼠取りの籠を手に、寮舎の裏手にあるゴミ捨て場付近にやってきた。昼間でも薄暗いので、宮女はあまり寄りつかない場所だ。
「もう大丈夫だよ。逃がしてあげる」
燐がそう話しかけると、鼠はギョッとしたように、黒い胡麻粒のような目を見開いた。人間の燐が鼠にわかる言葉を喋ったから驚いたのだろう。
「お、お前、ニンゲンだよな」
「そうだよ。でも、鼠を殺したりしないよ。ただお願いがあるんだけど」
そう言いながら、籠を開ける。
鼠はおそるおそる外に出てきた。
「お、お願いってなんだよぉ……」
「探し物を手伝ってほしい。食べ物をあげるから」
燐は残しておいた麺麭のかけらを鼠の前に置く。鼠は罠にかかったばかりだというのに、まったく警戒せずに麺麭のかけらに飛びついた。よっぽどお腹が空いていたのか、それともただ単に食いしん坊なのだろうか。
麺麭のかけらをペロッと食べ尽くした鼠はハッと顔を上げた。
「や、やべえ、食べちまった! ……わかった。何を探してるんだ?」
「仙女の弟子が持ち去った指輪なんだけど……金色で、青い石が付いていて……」
「キンイロってなんだ。食えるのか? アオってどんなだ」
「んん……そうきたか」
燐は眉を寄せ、腕組みをした。
異能の力で意思疎通ができるにしても、鼠が見たことのないものを説明し、理解してもらうのは難しい。
そもそも動物によって賢さは異なり、個体差も大きい。色の見え方も動物の種類によって違うようだ。燐の見ている色を、鼠が違う色に認識する可能性もあるから、青を『空の色のような』と喩えても理解してもらえるとは限らない。
「えーと、じゃあ、光る物! 小さくてピカピカ光る物を探してくれない? 見つけたら持ってきてほしい。食べ物と交換するから」
「わ、わかった! ちょっと待ってろ!」
鼠はタタッと走り去り、すぐにピカピカ光る物を集めてきてくれた。
「どうだ、どれもピカピカだ!」
「鎖の破片にこっちは銅銭か」
それ以外にも艶々の木の実やら、水晶が混じった石ころやら。どれも確かに光っている。燐が頼んだ通りだ。
ただし、そこに目当ての指輪はない。
とはいえ今回はどれも外れだったが、この調子で探してもらえば、いつか見つかるかもしれない。ほんの少しだが、希望の光が灯る。
約束通り、残しておいた麺麭と炒り豆をあげた。
「んー! 美味え! ニンゲンの食べ物ってすげえ美味えよなあ」
ガツガツと貪る鼠に、燐はクスッと笑う。
「でも、人間の住処で食べ物を探そうとすると、また罠にかかるから気を付けなよ」
「あっ、そうだったな」
「ねえ、他に鼠がたくさんいる場所って知ってる?」
「ああ。あっちの方にニンゲンが入ってこないとこがあって、そこにたくさん住んでる。すっげー強い王様がいるんだ!」
「王様? へえ、鼠の王様がいるんだ」
燐は鼠から王様について聞き出した。
「私も王様に会いたいんだけど」
「そんなら、今度、王様に話しといてやろうか」
「うん、助かるよ」
(鼠の王様……たくさんの鼠に命令できたりするのかな)
一匹ずつにこうして頼むより、鼠の王様と仲良くなれたら指輪探しが捗るかもしれない。鼠の王様が住んでいるという場所も聞いたので、時間のある時に訪ねてみようと思ったのだった。
動物と会話するたびに思うのだが、動物はとてもわかりやすい。
嘘をつかないわけではないが、基本的に正直で、人間相手のような腹の探り合いも必要ない。
この鼠はあまり賢くないが、素直な性格らしく、話していて安らぐ。
(くだらない噂話ばかりの人間とは全然違う)
少し話した後、鼠と別れて寮舎に戻った。
部屋の荷物入れの籠に、鼠の探してきたものを適当に放り込む。
その時、同室の宮女二人が燐の前に立ち塞がった。
燐のことをギロッと睨む。
「ねえ、さっき、外で何してたの?」
「別に何も……」
「何もしてないわけないよね? 私たち、あんたが鼠に餌やってるのを見たんだけど。なんで殺してないわけ?」
「そうよ! しかも鼠にぶつぶつ話しかけてさ、気持ち悪いったらありゃしない」
どうやら鼠とのやり取りを見られていたようだ。
さすがに、ただの独り言だと思われたようだが。
ずっと文句を言い続ける彼女たちに、燐もだんだん腹が立ってきた。
「殺すなんて最初から言ってないけど。罠にかかった鼠にキャーキャー言ってただけのくせに、自分にできないことを人に強制しないで」
思わず燐がそう反論すれば、宮女の片方がカッと気色ばんだ。
「なっ、なんなの、あんた!」
怒鳴り声を上げた宮女を、もう一人の宮女が止める。
「……もういいよ。そろそろ仕事の時間だし、行こう」
彼女たちはフンッとそっぽを向いて出ていった。すっかり嫌われたようだ。
「燐、喧嘩はよくないよぉ……」
「向こうが文句言ってきただけ」
煩わしい人間関係にはウンザリする。
早く指輪を見つけて、こんな場所から出ていきたい。
燐はそう思って大きく息を吐いた。
「でも、仲良くした方がいいよぉ」
「じゃあ、あっちの仲間に入れてもらいな。私と一緒にいると、秀雲まであの子たちに嫌われるよ」
燐がそう言えば、秀雲はブンブンと首を横に振った。
「ダ、ダメだよ! そうしたら燐が一人になっちゃうじゃない!」
(……そんなこと言っても、どうせ私の立場がもっと悪くなれば離れるでしょ)
一部の人間に嫌われるのはただの始まりでしかない。味方みたいな顔をして擦り寄ってくるやつこそ、本当の最後には、燐に騙されたのだと被害者面をして苛烈に責め立ててくる。これまでの経験から燐はそう思った。
もう、誰にも期待など、したくなかった。
「そんなことより、私たちも早く仕事に行こう。遅れたら怒られるよ」
「あっ、そうだね!」
同室の宮女たちと一緒に仕事をするのは嫌だったが、やらないわけにはいかない。
指輪を見つけ出すまでは、後宮から追い出されるわけにはいかないのだから。
燐と秀雲も急いで仕事に向かったのだった。
そんな日々を過ごしていたある日のこと。一日の仕事を終え倉庫を閉めて寮舎に戻ろうとした時、宦官から鍵を預かっていたはずの秀雲がバサバサと体のあちこちを探し始めた。その顔色がどんどん悪くなる。
「あれ、鍵……どこにやったっけ」
彼女はだいぶおっとりしている。はっきり言ってしまえば、ドジだった。
サーッと顔色を青くした秀雲が、オロオロしながら言った。
「ご、ごめん……鍵、なくしちゃったかも」
「ちょっと何してんのよ! あんたが預かるって言ったんじゃない!」
同室の宮女が怒鳴り、秀雲は大きな体を縮こませる。
「でも、どうするの? 倉庫に鍵をかけなきゃ仕事が終わらないじゃない。さっさと鍵をなくしたって宦官に言ってきなさいよ」
「そうよ。私たち、連帯責任とか真っ平だから、一人で謝ってよね!」
「ごめん……」
「ごめんで済むと思ってるの?」
「仕事でも、いつもチンタラしてさぁ」
「そうそう。不器用だし。アンタがいない方が仕事も早く済むんじゃない?」
「確かに。周りの足を引っ張ってないで、さっさと辞めたら?」
二人の宮女から厳しく言われ、秀雲は目に涙を浮かべた。
「――あのさ。今関係ないことでまで責める必要ないと思うけど」
燐は思わずそう口を出していた。
秀雲を庇うつもりなんてなかったが、二人がかりで責め立てられる秀雲の姿がかつての自分に重なって、つい黙っていられなくなったのだ。
「燐には関係ないでしょ!」
「同室なんだから多少は関係あるよ。とりあえず鍵を見つければいいんだよね。私と秀雲で探すから、二人は先に戻っていれば?」
燐が二人を真っ直ぐに見つめると、さっきまで強気に出ていたのが嘘のように、二人は目を逸らした。
彼女たちも、秀雲を責め立てたのが八つ当たりだとわかっているのだろう。
「ま……まあ、あんたらだけで鍵を探して、もし見つからなくてもあんたら二人が怒られるっていうなら、別に構わないけど」
「じゃあ、それで決まり。もう秀雲を責めないでよね」
「そ、そんな、燐も戻ってていいよぉ。私が一人で探すから……」
燐は首を横に振る。
「秀雲一人じゃ日が暮れたって見つからないよ。二人で手分けした方が、少しはマシだろうから」
それに、燐には考えがあった。
「燐……ごめんね……」
泣きそうな秀雲の肩を燐はポンと叩いた。
「いいって。手分けして早く探そう。秀雲は今日通ったところを見てきて。私も心当たりを探してみるから」
「う、うん」
燐は秀雲と別れ、かつて鼠から聞いていた方角へ向かった。
鼠の王に会い、探すのを手伝ってもらうよう頼むつもりだ。
秀雲には悪いが、鍵はついで。本命は指輪である。
鼠の王であれば、たくさんの鼠が仕えているだろう。
その鼠たちに後宮内を探してもらえたら、きっと簡単に指輪も見つかるはずだ。
(……早く指輪を見つけて、こんな場所から出ていってやる)
あんな意地悪な同室の宮女たちとずっと一緒にいるなんて、耐えられない。
不意に今にも泣きそうな顔をした秀雲の顔が脳裏を過る。
――鍵も見つかるといいな。
燐は慌ててそんな甘い考えを頭から追い払い、目的の場所までひた走った。
すぐにそれらしい建物を発見した。
近くを通りかかった宦官に聞いたところ、何代か前の皇帝に寵愛を受けた宮女が愛妾となって与えられた屋敷だそうだ。今は鼠の巣になっていて、鼠屋敷と呼ばれているらしい。探していた場所で間違いなさそうだ。
鼠屋敷はそう大きな建物ではなく、外から見た様子だとあまり荒れていない。
鍵もかかっておらず、扉を開けてみたが、埃っぽいだけで変な匂いもしない。
中に入り、扉や窓を開けて風を通すが、室内は長く放置されていた割に綺麗だ。
元の建物の質がよかったのだろう。それに使わなくなってからも、たまに手入れはされていたのかもしれない。
軽く埃を払って掃除をすれば、すぐに住めそうなくらいだ。
燐は屋敷に入った時から、ずっと鼠の気配を感じていた。
天井裏をトトトトと走る足音も聞こえる。一匹や二匹ではない。おそらく数十匹以上の鼠がいるのに、室内には鼠の糞や死骸などがまったくない。
おそらく、鼠の王とやらは普通ではない力を持っているのではないだろうか。
燐は居間の一段高い場所に座って姿勢を正してから口を開いた。
「鼠の王よ、いらっしゃいますか?」
そのまま耳を澄ますと、天井裏から鼠が驚きの声を上げたのが聞こえた。燐が鼠の言葉を話したから驚いたのだ。だが、今のは普通の鼠だろう。
それから少しして、他より大きな足音が聞こえる。
「――娘よ。汝は何者だ」
来た。鼠の王だ。
当たりが引けたことに、燐の心は高揚していた。
「私は燐と申します。鼠の王のお噂を伺って参りました。お願いがございます。どうか、お姿を見せていただけませんか?」
「配下の鼠から汝の話は聞いておる。人間ながら礼儀をわきまえているようだな。矮小なる汝を、この偉大なる采王様に拝謁させてやろうではないか!」
高慢を通り越して傲慢な言葉が響いた。
「ありがとうございます」
燐が姿勢を正した時、燐の膝の上に、ボトッと何かが落ちてきた。
「はーっはっはっは! この俺様が、鼠の王、采王様だ!」
燐の膝の上で、鼠がビシリと桃色の指を突きつける。
彼が鼠の王か。
燐は目を見張った。
普通の鼠の数倍の大きさはあるだろうか。小柄な猫くらいの大きさで、膝にずっしりと重みを感じる。
燐の髪と同じ灰色で、ふわふわとした毛並みに、紅玉のような赤い目をしている。普通の鼠は尻尾に毛が生えていないのだが、鼠の王は尻尾までふさふさだ。
「お、お目にかかれて光栄にございます」
燐は鼠の王――采王を膝に乗せたまま、なかなか苦しい姿勢で頭を下げた。
「ふむ、頭が高いと言いたいところだが、許す」
采王は長い髭を払い、そよそよとそよがせた。
大きさだけでなく、普通の鼠とはまったく違う。
少し、いや、かなり偉そうではあるが、豊富な語彙からしても、かなりの知性があると感じた。こんなに賢い鼠は初めてだ。
「して、何が望みだ」
「実は探しているものがございます」
燐は、秀雲がなくした倉庫の鍵と、それから仙女の指輪のことを伝えた。
采王は普通の鼠とは賢さが段違いらしく、燐の説明を理解してくれた。
「ふうむ。なるほど、俺様の配下の鼠に鍵と指輪を探してほしいと言うのだな」
「そうです」
「だが、しかし汝は獣操の力を持っているではないか。わざわざ面倒な頼み事をせんでも、俺様を操るという選択肢もあったのではないか?」
「えっ……ど、どうして私の力を」
「……行きます」
朝から晩まで床磨きをしていては指輪を探すどころではない。とにかく早く仙郷に帰りたい。そのためにも、今より動きやすい環境が必要だとずっと考えていた。
「面倒を見てやったのに! 恩知らずめ!」
老女は杖を床に何度も叩きつけて怒っていたが、諦めたように燐たちに背を向けて床磨きを再開した。
燐は、小声でブツクサと文句を言っている老女をチラッと見る。
「悪いことしちゃったな」
「気にするな。床磨きは他にもいるんだ。あの婆さんは話し相手が欲しかっただけだろうさ。そもそもあの婆さんは相当な変わり者でな、大昔には宮女をしていたそうだ。年季が明けた後も、何度も後宮に戻ってきて、ずーっと働いていたんだと。年寄りになってもう掃除しかできなくなっても、まだ後宮にしがみついてるんだ。きっと外には居場所がないんだろうな」
「へえ」
宦官もそれなりの年齢に見えたが、そんな彼でも知らないくらい昔から、老女は後宮にいるらしい。確かに顔は皺に埋もれ、老女の年齢は見当もつかなかった。
外に居場所がないという言葉に、燐には少しだけ老女の気持ちがわかる気がした。
宦官は姜と名乗った。
彼は燐を連れて、これまで行ったことがない後宮の奥へ向かっていく。いくつもの宮殿を通り過ぎ、一際立派な宮殿の前で足を止めた。
丹で塗られた鮮やかな壁に巨大な扁額、装飾は金だ。大扉に使われた白い大理石には花が彫り込まれていて、その白さが目に眩しいくらいだった。
燐は宮殿を見上げ、ほうと息を吐く。
建物に詳しくない燐でも、その美しさくらいは理解できた。
「立派な建物だろう。神獣殿だ。近々ここで行う華妃選定の儀という式典のために宮女を集めているのさ。準備のために色んな仕事をしてもらうからな。大変だが頑張ってくれよ」
そう言われて燐は曖昧に頷く。
「――おや、姜。その娘は新しい宮女か?」
突然聞こえた声に、燐はギクリと肩を震わせた。
「これは、紫貴様ではありませんか!」
姜が畏まった声を出す。
「このお方は太子の紫貴様だ。ご挨拶を――」
姜がみなまで言う前に、燐は慌ててその場に膝をつき、紫貴から顔が見えないように顔を伏せた。
「お、おい、燐。宮女なら平時は立礼でいいんだっ!」
姜が慌てて燐に囁く。
しかし顔を見られたくない燐は顔を伏せたままブンブンと首を横に振った。
「驚かせてしまったか。立ちなさい」
直接そう言われては燐も立たないわけにはいかない。
渋々立ち上がると、紫貴は思いの外、燐の近くに立って彼女を見下ろしていた。
近くで見ると、顔立ちが整いすぎていて怖いくらいだ。
ふと、かつて見た冷たい月の光を思い出した。
じっと見つめてくる切れ長の目は、燐を睨んでいるようにも見えて、怯んでしまう。笑みを浮かべていないせいか、酷薄そうな雰囲気を感じて背中に汗が流れた。
覚えていませんようにと祈りながら、改めて立礼をした。
「その髪の色は床磨きをしていた娘だな。名前は?」
その言葉に肩が震えそうになるのを必死に堪える。
やはり燐の珍しい髪の色は、紫貴に覚えられていたようだ。
獣操の力を使った時、布を被っていてよかったと心底思う。
「り、燐と申します」
声を聞いて、燐が馬を操った時のことを思い出されたらという焦りから、つい声が掠れてしまった。しかし燐の声を聞いても紫貴の顔色は変わらない。
「ふむ、燐か」
(――あれ、気付かれてない?)
あの時とは目の色が違うし、まさかこんなところにいるとは、思ってもいないのかもしれない。
内心でホッと息を吐いた。
「人手が足りないため忙しい思いをさせるが、どうか頼む。姜も、宮女を集めてくれて感謝する」
燐は紫貴の言葉に目を瞬かせた。あまり皇子らしくない言葉だ。
腰が低いのとも違う。凛としているのに、どこか柔らかい。
老女から聞いていた、腹を立てて床磨きを蹴飛ばしたという皇子の印象と、まったく異なっていた。
紫貴はすぐにその場を去っていく。燐は彼の揺れる長い髪を目で追いながら、ふう、と息を吐いた。
緊張したせいでまだ心臓が激しい音を立てていた。
「おい、大丈夫か。まあ、びっくりするくらいお綺麗なお顔だもんなぁ」
姜は燐の緊張をそう受け取ったらしい。燐は否定せず、頷いておく。
「でも、全然怖くないというか……。太子ってすごく偉いんだから、もっと威張っているものじゃないんですか?」
燐の質問に、姜は困った顔をして声を潜めた。
「そりゃ、皇帝陛下の次に偉いさ。でも、紫貴様の産みの母君は正妃じゃないんだ。そのせいで幼い頃から正妃から嫌がらせをされていたって噂さ。威張ったりしたら、これ幸いにとばかりに足を引っ張られるだろう?」
「なるほど……」
燐もかつて、些細なことを咎められ、殴られた経験がある。
隙を見せないようにする重要さは理解できた。
「ああ見えて、苦労されている方なんだ。仕えていた従者が立て続けに死んでしまって、殺されたなんて噂もあるものだから、式典のために新しく宮女を募集しても、怖がられてしまって、なかなか集まらんというわけさ。儂も大変なんだぞ」
燐は人間の醜さを感じ、鼻に皺を寄せた。
しかし、今はそんなことより、指輪を探せる環境の方が大事だ。
「それより早く案内してください」
「ああ、こっちだ」
姜から宮女のお仕着せをもらい、下級宮女の寮舎に案内された。
お仕着せの上衣は鴇色をした筒袖の袖衫に、下衣は薄緑色の丈長の裙という華やかな組み合わせである。下っ端のお仕着せとはいえ、柔らかく上質な布で、着心地もいい。
また、寮舎も立派な建物だった。姜が言っていた通り、食事や寝台は、床磨きの時より格段にいいものだ。
しかし宮女の寮舎は相部屋なのである。
床磨きの時は、床にギリギリ布団を敷ける程度の広さしかなく、壁も強く押したら倒れそうなくらいだったが、一応一人部屋だった。
新しい燐の部屋は広い部屋を衝立で仕切った四人部屋だった。広くて綺麗だし、しっかりした寝台もある。だが、燐は他人と一緒の空間が不安だった。
(だ、大丈夫。床磨きの仕事で少しは人間に慣れたし……)
そう自分に言い聞かせても、警戒心はどうにもならない。
同室になった三人は、全員燐と同じ年頃の若い娘だった。
「ねえ、燐ってどこ出身なの?」
「ええと……北の方。すごい田舎だから、言ってもわからないと思う」
「燐ってなんで宮女を目指そうと思ったの?」
「後宮に来る前は何をしていたの?」
矢継ぎ早に質問攻めにされ、言葉を濁して誤魔化した。
「燐って紫貴様にご挨拶したことがあるんでしょう。いいなあ、震えが走るくらい綺麗な顔だよねえ」
「皇子の方々だと誰が好き? 私は楓葉様が優しそうで好きだな」
「わかる。物腰も優雅だし、上品で素敵だよねえ」
「ああ、うん……」
彼女たちの話題はポンポン飛びまくるが、燐はどれも上手く答えられない。
そもそも紫貴以外の皇子の顔など知らない。
他にも皇子がいるということさえ、今知ったくらいだ。
「はあ……あんたってつまんない子ね」
ろくに答えられない燐に、三人のうちの二人の宮女から、呆れた様子でそう告げられてしまった。
燐はこっそりため息を吐く。
瞳の色を変えてもやっぱり同じ。
人間なんて、ちょっと違うところがあるだけで、すぐに爪弾きしようとするのだ。そんな思いで心が重くなっていく。
「み、みんな、仲良くしようよっ!」
そんな声が響き、燐は思わず仰け反った。
残る一人が突然大きな声を出したのだ。
「べ、別に仲間外れにしようっていうんじゃないわよ……」
燐だけでなく、同室の宮女二人も呆気に取られたようで、ゴニョゴニョ言い訳を口にしている。
「私、秀雲。わからないことがあったらなんでも聞いてね!」
声と同じくらい背の大きい宮女、秀雲は燐にそう言って手を差し出した。
握手をしたいようだ。燐はするつもりはなかったが、秀雲は燐の手を掴み、ぶんぶんと振った。背だけでなく手まで大きい。
慌てて振り払った燐に、秀雲はニコッと笑いかけてくる。
(なんのつもり……?)
自分と仲良くしたところで秀雲に利点なんてないだろうに、親切ぶって、何か企んでいるのだろうか。
同室ということで、仕事でも燐は秀雲と組むことになった。
だが、実際に組んでみると、秀雲は少々不器用で、仕事も失敗が多い。
空気を読むのも苦手なようで、休憩の時もなかなか燐を一人にしてくれないから、正直鬱陶しい。
食堂でも必ず燐の隣に座った。
「ねえ、燐の髪の色って変わってるね。それ、白髪じゃないんでしょ。北の方の出身なんだっけ? 北の方ってそういう髪の色の人多いの? 家族も同じ色?」
「孤児だから知らない」
燐は秀雲の無遠慮な言い方に、ため息を堪えながらそう返した。
燐が少々冷たくあしらっても、秀雲は気にしないようだ。
「そうなんだぁ。私は兄弟がすっごく多いよ。下に弟と妹が合わせて十人いるんだ。おかげで貧乏だし、ご飯時もおかずの取り合いで大変なんだよぉ」
燐が孤児だと言えば、周囲は空気を読み、話を変えることが多かったが、秀雲はそれも気にしない。燐は日々纏わりついてくる秀雲にうんざりしていた。
そんなある日のこと。
寮舎の部屋に仕掛けられていた鼠取りの罠に鼠が引っ掛かっていた。
餌に釣られて籠に入ると、出口が閉まって出られなくなる種類のものだ。
籠の中の鼠は必死に暴れ回り、ガシャガシャと激しい音を立てていた。
同室の二人の宮女は生きた鼠に、きゃあきゃあと甲高い悲鳴を上げる。
秀雲でさえも青い顔をして大きな体を精一杯縮こめていたくらいだ。
若い娘は一般的に鼠が苦手だというのは燐も知っている。
だが、燐としては絶好の機会だ。
「私が処分しておくから」
「助かるわ。お願いね」
燐は鼠取りの籠を手に、寮舎の裏手にあるゴミ捨て場付近にやってきた。昼間でも薄暗いので、宮女はあまり寄りつかない場所だ。
「もう大丈夫だよ。逃がしてあげる」
燐がそう話しかけると、鼠はギョッとしたように、黒い胡麻粒のような目を見開いた。人間の燐が鼠にわかる言葉を喋ったから驚いたのだろう。
「お、お前、ニンゲンだよな」
「そうだよ。でも、鼠を殺したりしないよ。ただお願いがあるんだけど」
そう言いながら、籠を開ける。
鼠はおそるおそる外に出てきた。
「お、お願いってなんだよぉ……」
「探し物を手伝ってほしい。食べ物をあげるから」
燐は残しておいた麺麭のかけらを鼠の前に置く。鼠は罠にかかったばかりだというのに、まったく警戒せずに麺麭のかけらに飛びついた。よっぽどお腹が空いていたのか、それともただ単に食いしん坊なのだろうか。
麺麭のかけらをペロッと食べ尽くした鼠はハッと顔を上げた。
「や、やべえ、食べちまった! ……わかった。何を探してるんだ?」
「仙女の弟子が持ち去った指輪なんだけど……金色で、青い石が付いていて……」
「キンイロってなんだ。食えるのか? アオってどんなだ」
「んん……そうきたか」
燐は眉を寄せ、腕組みをした。
異能の力で意思疎通ができるにしても、鼠が見たことのないものを説明し、理解してもらうのは難しい。
そもそも動物によって賢さは異なり、個体差も大きい。色の見え方も動物の種類によって違うようだ。燐の見ている色を、鼠が違う色に認識する可能性もあるから、青を『空の色のような』と喩えても理解してもらえるとは限らない。
「えーと、じゃあ、光る物! 小さくてピカピカ光る物を探してくれない? 見つけたら持ってきてほしい。食べ物と交換するから」
「わ、わかった! ちょっと待ってろ!」
鼠はタタッと走り去り、すぐにピカピカ光る物を集めてきてくれた。
「どうだ、どれもピカピカだ!」
「鎖の破片にこっちは銅銭か」
それ以外にも艶々の木の実やら、水晶が混じった石ころやら。どれも確かに光っている。燐が頼んだ通りだ。
ただし、そこに目当ての指輪はない。
とはいえ今回はどれも外れだったが、この調子で探してもらえば、いつか見つかるかもしれない。ほんの少しだが、希望の光が灯る。
約束通り、残しておいた麺麭と炒り豆をあげた。
「んー! 美味え! ニンゲンの食べ物ってすげえ美味えよなあ」
ガツガツと貪る鼠に、燐はクスッと笑う。
「でも、人間の住処で食べ物を探そうとすると、また罠にかかるから気を付けなよ」
「あっ、そうだったな」
「ねえ、他に鼠がたくさんいる場所って知ってる?」
「ああ。あっちの方にニンゲンが入ってこないとこがあって、そこにたくさん住んでる。すっげー強い王様がいるんだ!」
「王様? へえ、鼠の王様がいるんだ」
燐は鼠から王様について聞き出した。
「私も王様に会いたいんだけど」
「そんなら、今度、王様に話しといてやろうか」
「うん、助かるよ」
(鼠の王様……たくさんの鼠に命令できたりするのかな)
一匹ずつにこうして頼むより、鼠の王様と仲良くなれたら指輪探しが捗るかもしれない。鼠の王様が住んでいるという場所も聞いたので、時間のある時に訪ねてみようと思ったのだった。
動物と会話するたびに思うのだが、動物はとてもわかりやすい。
嘘をつかないわけではないが、基本的に正直で、人間相手のような腹の探り合いも必要ない。
この鼠はあまり賢くないが、素直な性格らしく、話していて安らぐ。
(くだらない噂話ばかりの人間とは全然違う)
少し話した後、鼠と別れて寮舎に戻った。
部屋の荷物入れの籠に、鼠の探してきたものを適当に放り込む。
その時、同室の宮女二人が燐の前に立ち塞がった。
燐のことをギロッと睨む。
「ねえ、さっき、外で何してたの?」
「別に何も……」
「何もしてないわけないよね? 私たち、あんたが鼠に餌やってるのを見たんだけど。なんで殺してないわけ?」
「そうよ! しかも鼠にぶつぶつ話しかけてさ、気持ち悪いったらありゃしない」
どうやら鼠とのやり取りを見られていたようだ。
さすがに、ただの独り言だと思われたようだが。
ずっと文句を言い続ける彼女たちに、燐もだんだん腹が立ってきた。
「殺すなんて最初から言ってないけど。罠にかかった鼠にキャーキャー言ってただけのくせに、自分にできないことを人に強制しないで」
思わず燐がそう反論すれば、宮女の片方がカッと気色ばんだ。
「なっ、なんなの、あんた!」
怒鳴り声を上げた宮女を、もう一人の宮女が止める。
「……もういいよ。そろそろ仕事の時間だし、行こう」
彼女たちはフンッとそっぽを向いて出ていった。すっかり嫌われたようだ。
「燐、喧嘩はよくないよぉ……」
「向こうが文句言ってきただけ」
煩わしい人間関係にはウンザリする。
早く指輪を見つけて、こんな場所から出ていきたい。
燐はそう思って大きく息を吐いた。
「でも、仲良くした方がいいよぉ」
「じゃあ、あっちの仲間に入れてもらいな。私と一緒にいると、秀雲まであの子たちに嫌われるよ」
燐がそう言えば、秀雲はブンブンと首を横に振った。
「ダ、ダメだよ! そうしたら燐が一人になっちゃうじゃない!」
(……そんなこと言っても、どうせ私の立場がもっと悪くなれば離れるでしょ)
一部の人間に嫌われるのはただの始まりでしかない。味方みたいな顔をして擦り寄ってくるやつこそ、本当の最後には、燐に騙されたのだと被害者面をして苛烈に責め立ててくる。これまでの経験から燐はそう思った。
もう、誰にも期待など、したくなかった。
「そんなことより、私たちも早く仕事に行こう。遅れたら怒られるよ」
「あっ、そうだね!」
同室の宮女たちと一緒に仕事をするのは嫌だったが、やらないわけにはいかない。
指輪を見つけ出すまでは、後宮から追い出されるわけにはいかないのだから。
燐と秀雲も急いで仕事に向かったのだった。
そんな日々を過ごしていたある日のこと。一日の仕事を終え倉庫を閉めて寮舎に戻ろうとした時、宦官から鍵を預かっていたはずの秀雲がバサバサと体のあちこちを探し始めた。その顔色がどんどん悪くなる。
「あれ、鍵……どこにやったっけ」
彼女はだいぶおっとりしている。はっきり言ってしまえば、ドジだった。
サーッと顔色を青くした秀雲が、オロオロしながら言った。
「ご、ごめん……鍵、なくしちゃったかも」
「ちょっと何してんのよ! あんたが預かるって言ったんじゃない!」
同室の宮女が怒鳴り、秀雲は大きな体を縮こませる。
「でも、どうするの? 倉庫に鍵をかけなきゃ仕事が終わらないじゃない。さっさと鍵をなくしたって宦官に言ってきなさいよ」
「そうよ。私たち、連帯責任とか真っ平だから、一人で謝ってよね!」
「ごめん……」
「ごめんで済むと思ってるの?」
「仕事でも、いつもチンタラしてさぁ」
「そうそう。不器用だし。アンタがいない方が仕事も早く済むんじゃない?」
「確かに。周りの足を引っ張ってないで、さっさと辞めたら?」
二人の宮女から厳しく言われ、秀雲は目に涙を浮かべた。
「――あのさ。今関係ないことでまで責める必要ないと思うけど」
燐は思わずそう口を出していた。
秀雲を庇うつもりなんてなかったが、二人がかりで責め立てられる秀雲の姿がかつての自分に重なって、つい黙っていられなくなったのだ。
「燐には関係ないでしょ!」
「同室なんだから多少は関係あるよ。とりあえず鍵を見つければいいんだよね。私と秀雲で探すから、二人は先に戻っていれば?」
燐が二人を真っ直ぐに見つめると、さっきまで強気に出ていたのが嘘のように、二人は目を逸らした。
彼女たちも、秀雲を責め立てたのが八つ当たりだとわかっているのだろう。
「ま……まあ、あんたらだけで鍵を探して、もし見つからなくてもあんたら二人が怒られるっていうなら、別に構わないけど」
「じゃあ、それで決まり。もう秀雲を責めないでよね」
「そ、そんな、燐も戻ってていいよぉ。私が一人で探すから……」
燐は首を横に振る。
「秀雲一人じゃ日が暮れたって見つからないよ。二人で手分けした方が、少しはマシだろうから」
それに、燐には考えがあった。
「燐……ごめんね……」
泣きそうな秀雲の肩を燐はポンと叩いた。
「いいって。手分けして早く探そう。秀雲は今日通ったところを見てきて。私も心当たりを探してみるから」
「う、うん」
燐は秀雲と別れ、かつて鼠から聞いていた方角へ向かった。
鼠の王に会い、探すのを手伝ってもらうよう頼むつもりだ。
秀雲には悪いが、鍵はついで。本命は指輪である。
鼠の王であれば、たくさんの鼠が仕えているだろう。
その鼠たちに後宮内を探してもらえたら、きっと簡単に指輪も見つかるはずだ。
(……早く指輪を見つけて、こんな場所から出ていってやる)
あんな意地悪な同室の宮女たちとずっと一緒にいるなんて、耐えられない。
不意に今にも泣きそうな顔をした秀雲の顔が脳裏を過る。
――鍵も見つかるといいな。
燐は慌ててそんな甘い考えを頭から追い払い、目的の場所までひた走った。
すぐにそれらしい建物を発見した。
近くを通りかかった宦官に聞いたところ、何代か前の皇帝に寵愛を受けた宮女が愛妾となって与えられた屋敷だそうだ。今は鼠の巣になっていて、鼠屋敷と呼ばれているらしい。探していた場所で間違いなさそうだ。
鼠屋敷はそう大きな建物ではなく、外から見た様子だとあまり荒れていない。
鍵もかかっておらず、扉を開けてみたが、埃っぽいだけで変な匂いもしない。
中に入り、扉や窓を開けて風を通すが、室内は長く放置されていた割に綺麗だ。
元の建物の質がよかったのだろう。それに使わなくなってからも、たまに手入れはされていたのかもしれない。
軽く埃を払って掃除をすれば、すぐに住めそうなくらいだ。
燐は屋敷に入った時から、ずっと鼠の気配を感じていた。
天井裏をトトトトと走る足音も聞こえる。一匹や二匹ではない。おそらく数十匹以上の鼠がいるのに、室内には鼠の糞や死骸などがまったくない。
おそらく、鼠の王とやらは普通ではない力を持っているのではないだろうか。
燐は居間の一段高い場所に座って姿勢を正してから口を開いた。
「鼠の王よ、いらっしゃいますか?」
そのまま耳を澄ますと、天井裏から鼠が驚きの声を上げたのが聞こえた。燐が鼠の言葉を話したから驚いたのだ。だが、今のは普通の鼠だろう。
それから少しして、他より大きな足音が聞こえる。
「――娘よ。汝は何者だ」
来た。鼠の王だ。
当たりが引けたことに、燐の心は高揚していた。
「私は燐と申します。鼠の王のお噂を伺って参りました。お願いがございます。どうか、お姿を見せていただけませんか?」
「配下の鼠から汝の話は聞いておる。人間ながら礼儀をわきまえているようだな。矮小なる汝を、この偉大なる采王様に拝謁させてやろうではないか!」
高慢を通り越して傲慢な言葉が響いた。
「ありがとうございます」
燐が姿勢を正した時、燐の膝の上に、ボトッと何かが落ちてきた。
「はーっはっはっは! この俺様が、鼠の王、采王様だ!」
燐の膝の上で、鼠がビシリと桃色の指を突きつける。
彼が鼠の王か。
燐は目を見張った。
普通の鼠の数倍の大きさはあるだろうか。小柄な猫くらいの大きさで、膝にずっしりと重みを感じる。
燐の髪と同じ灰色で、ふわふわとした毛並みに、紅玉のような赤い目をしている。普通の鼠は尻尾に毛が生えていないのだが、鼠の王は尻尾までふさふさだ。
「お、お目にかかれて光栄にございます」
燐は鼠の王――采王を膝に乗せたまま、なかなか苦しい姿勢で頭を下げた。
「ふむ、頭が高いと言いたいところだが、許す」
采王は長い髭を払い、そよそよとそよがせた。
大きさだけでなく、普通の鼠とはまったく違う。
少し、いや、かなり偉そうではあるが、豊富な語彙からしても、かなりの知性があると感じた。こんなに賢い鼠は初めてだ。
「して、何が望みだ」
「実は探しているものがございます」
燐は、秀雲がなくした倉庫の鍵と、それから仙女の指輪のことを伝えた。
采王は普通の鼠とは賢さが段違いらしく、燐の説明を理解してくれた。
「ふうむ。なるほど、俺様の配下の鼠に鍵と指輪を探してほしいと言うのだな」
「そうです」
「だが、しかし汝は獣操の力を持っているではないか。わざわざ面倒な頼み事をせんでも、俺様を操るという選択肢もあったのではないか?」
「えっ……ど、どうして私の力を」
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