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第5章『花と陰謀と、城を染める春嵐』
第四十二話『新参女中・お濃、嵐を呼ぶ女』
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花見の宴から数日。
清洲城の桜はすでに若葉をまとい、浮き立っていた空気も日常へと還りつつあった。
だが、その穏やかな春の空気に紛れるように──ひとりの女が、城に足を踏み入れた。
名は、お濃。
京から新たに仕官したと伝えられる女中。
だが、その美貌は尋常ではなかった。
絹のように滑らかな黒髪を肩まで垂らし、細い顎と吸い込まれそうな双眸。
立ち居振る舞いはまるで、宮中の姫か高貴な遊女か。
それが最初に現れたとき、女中たちの間に戦慄が走ったのは言うまでもない。
「──見た? あの新しい子……」
「なんやあの艶っぽさ……うちらと同じ女中やて、信じられる?」
「京から来たんやて。あっちではお姫さま級の美人なんやろな……」
城の各所で、お濃の話題でもちきりだった。
とくに、男たちの視線が彼女に吸い寄せられるのは避けられず──
「な、なんやろな……あの人、目が合うだけで、なんか吸い込まれそうになるがね……」
日吉丸もまた、そのひとりだった。
──春の午後。
日吉丸は、書状を届けるために城奥の渡り廊下を歩いていた。
そのとき、ふわりと甘い香が鼻をかすめた。
「……?」
振り返れば、そこに──彼女がいた。
「失礼を……日吉丸さま、でいらっしゃいますか?」
声もまた、糸を引くような艶のある声音だった。
「へ? あ、あんたが……噂の“お濃”さん?」
「ええ。やっと、お目にかかれました。
信長さまの……そして、城中の“注目の的”のお方に」
日吉丸は耳まで赤くなった。
「いやいやいやいや!? 注目の的ちゃいますて! ただの草履持ち……いえ、小姓頭ではありますが、いやいや……」
「あら、その“謙遜”もまた魅力ですわね」
にこりと笑ったお濃は、まっすぐに日吉丸の顔を見つめた。
視線が、熱い。
水のように静かなのに、底知れぬ熱をたたえているような──
「わたくし、まだ右も左も分かりませぬ。
どうか、いろいろとご指南いただければ……幸いです」
「え、いや、それは……まあ、ええけども……」
「ふふ、嬉しい」
軽く膝を折って頭を下げるお濃。
その所作の美しさに、日吉丸は固まるばかりだった。
──だがその夜。
お濃は、女中部屋ではなく、誰も使っていない倉庫の一角にいた。
手元には封のされた手紙。巻物の端に、紋が刻まれている。
“浅井家──西近江守より”
彼女はろうそくの火にかざしながら、その命をなぞった。
──「信長に接近せよ」
──「小姓頭・日吉丸との接触を深め、その動向を探れ」
──「必要とあらば、女として惑わせ、懐柔し、掌中に置け」
「ふふ……本当に、男というのは簡単」
お濃は文を畳むと、丁寧に再び懐へ仕舞い、夜の静寂に溶け込むように部屋を後にした。
──翌朝。
「日吉丸さま、ご機嫌よう」
寝所の前に差し入れの“朝茶”を携えた彼女がいた。
「……え!? ええええ!? な、なんで……!?」
「ご挨拶ですわ。新参者ゆえ、少しでも早く皆さまに溶け込めるよう……」
茶器の中から漂うのは、梅と昆布の絶妙な香。
ほっとさせる癒しの風味に、日吉丸の頭がじんわりと温まっていく。
「これ……うま……」
「ふふ、良かった」
目を細めるお濃。
その表情には、作り物とは思えない柔らかさがあった。
──本物か、偽物か。
その境界線を見極めるには、日吉丸の“女心レーダー”はまだ未熟すぎた。
だが確かに、この日を境に、城に吹く風は変わったのだった──。
春の陽気の中に、決して見えぬ“毒”が忍び込んだのだ。
清洲城の桜はすでに若葉をまとい、浮き立っていた空気も日常へと還りつつあった。
だが、その穏やかな春の空気に紛れるように──ひとりの女が、城に足を踏み入れた。
名は、お濃。
京から新たに仕官したと伝えられる女中。
だが、その美貌は尋常ではなかった。
絹のように滑らかな黒髪を肩まで垂らし、細い顎と吸い込まれそうな双眸。
立ち居振る舞いはまるで、宮中の姫か高貴な遊女か。
それが最初に現れたとき、女中たちの間に戦慄が走ったのは言うまでもない。
「──見た? あの新しい子……」
「なんやあの艶っぽさ……うちらと同じ女中やて、信じられる?」
「京から来たんやて。あっちではお姫さま級の美人なんやろな……」
城の各所で、お濃の話題でもちきりだった。
とくに、男たちの視線が彼女に吸い寄せられるのは避けられず──
「な、なんやろな……あの人、目が合うだけで、なんか吸い込まれそうになるがね……」
日吉丸もまた、そのひとりだった。
──春の午後。
日吉丸は、書状を届けるために城奥の渡り廊下を歩いていた。
そのとき、ふわりと甘い香が鼻をかすめた。
「……?」
振り返れば、そこに──彼女がいた。
「失礼を……日吉丸さま、でいらっしゃいますか?」
声もまた、糸を引くような艶のある声音だった。
「へ? あ、あんたが……噂の“お濃”さん?」
「ええ。やっと、お目にかかれました。
信長さまの……そして、城中の“注目の的”のお方に」
日吉丸は耳まで赤くなった。
「いやいやいやいや!? 注目の的ちゃいますて! ただの草履持ち……いえ、小姓頭ではありますが、いやいや……」
「あら、その“謙遜”もまた魅力ですわね」
にこりと笑ったお濃は、まっすぐに日吉丸の顔を見つめた。
視線が、熱い。
水のように静かなのに、底知れぬ熱をたたえているような──
「わたくし、まだ右も左も分かりませぬ。
どうか、いろいろとご指南いただければ……幸いです」
「え、いや、それは……まあ、ええけども……」
「ふふ、嬉しい」
軽く膝を折って頭を下げるお濃。
その所作の美しさに、日吉丸は固まるばかりだった。
──だがその夜。
お濃は、女中部屋ではなく、誰も使っていない倉庫の一角にいた。
手元には封のされた手紙。巻物の端に、紋が刻まれている。
“浅井家──西近江守より”
彼女はろうそくの火にかざしながら、その命をなぞった。
──「信長に接近せよ」
──「小姓頭・日吉丸との接触を深め、その動向を探れ」
──「必要とあらば、女として惑わせ、懐柔し、掌中に置け」
「ふふ……本当に、男というのは簡単」
お濃は文を畳むと、丁寧に再び懐へ仕舞い、夜の静寂に溶け込むように部屋を後にした。
──翌朝。
「日吉丸さま、ご機嫌よう」
寝所の前に差し入れの“朝茶”を携えた彼女がいた。
「……え!? ええええ!? な、なんで……!?」
「ご挨拶ですわ。新参者ゆえ、少しでも早く皆さまに溶け込めるよう……」
茶器の中から漂うのは、梅と昆布の絶妙な香。
ほっとさせる癒しの風味に、日吉丸の頭がじんわりと温まっていく。
「これ……うま……」
「ふふ、良かった」
目を細めるお濃。
その表情には、作り物とは思えない柔らかさがあった。
──本物か、偽物か。
その境界線を見極めるには、日吉丸の“女心レーダー”はまだ未熟すぎた。
だが確かに、この日を境に、城に吹く風は変わったのだった──。
春の陽気の中に、決して見えぬ“毒”が忍び込んだのだ。
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