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3章(4)
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泥のような眠りから目を覚ました晴は、ぼやけた視界できょろきょろとあたりを見回した。
ここは、自分の家の寝室ではない。晴が寝かされていたベッドも、あと三人は眠れるのではないかと思うほど広い。
寝室の片側の壁は、一面が窓になっていた。大きな窓から街の様子が見下ろせて、ミニカーのように小さな車がいくつも走っているのが見える。通りを歩く人も、ほとんど豆粒のような大きさに見えた。
徐々に意識がはっきりしてきて、晴はやっとここが静の住むタワーマンションの一室であることを思い出した。
一幸によって寝室に監禁されていたところを、静が救ってくれたのだ。そのまま静の住むこのタワーマンションに連れられて、お風呂に入って、食事もさせてもらって、眠くなってしまったのだった。
窓からは明るく日光が差し込んでいる。いまは何時なのだろう? 自分は、どのくらい眠っていたのだろうか。
晴はベッドを抜け出すと、大きな窓の前を通ってドアを開けた。そこははじめに通されたリビングだった。脚を伸ばして眠れるほど大きな革張りのソファに、誰かが眠っている。足の先が、ソファからはみ出していた。
ぐるりとソファを回って、眠っている人影をたしかめる。テーブルの上には耳から外したシルバーのピアスがいくつも転がっていた。少しだけ唇を開き、静が穏やかな顔で眠っている。
薄いまぶたに、緑の細い静脈が這っているのが見える。こうして見ると、静の目は猫のように目尻がわずかに吊り上がっているようだ。唇も、リップを塗っているみたいにやわらかなピンク色で血色がいい。
目を閉じていると、ほんの少しだけ子どもの頃の面影が見え隠れしていた。
「んん……」
静が身じろぎをして、うっすらと目を開ける。晴が驚いて飛び退くより先に、静の手が晴の頭を引き寄せた。胸のあたりに頭を抱き抱えられ、とくとくと心地いい心音が聞こえる。
「晴、起きたの」
「うん……」
「もう三日経ったよ」
晴は今度こそ、静の手を振り払って飛び退いた。
「三日? ……私がここに来てから?」
「そうだよ? ずっと眠ったままで、目を覚まさないから心配してたんだ」
まさかそんなに長い時間眠っていたとは思わなかった。晴の感覚では、ほんの数時間の昼寝くらいだと思っていたのだ。
それが三日も経っていたなんて。一幸はいまごろどうしているだろう? 三日も経てば、確実に晴がいなくなったと気づくはずだ。晴のことを捜し回る一幸の姿は、どうしても上手く思い描けなかった。なんとなく、自分はこのまま一幸に見捨てられるのだろうという予感があった。
静が気怠げにソファから身を起こす。ラフな長袖のスウェットを着た静は、寝癖もそのままに驚く晴をぼんやりと見ていた。普段はワイシャツの襟で隠れている首筋に精巧な龍の刺青が彫られているのを見つけ、晴はおそるおそる静の首筋に指を伸ばした。
「かっこいいでしょ、それ」
静が首を傾けて、絵柄がよく見えるようにしてくれる。ほとんど日焼けしていない白い肌に彫られた龍は黒々しく、しっかりとその存在を主張していた。
「晴も彫る?」
静の問いに、晴は首筋から手を離して首を振る。
「やめとく。痛そうだし」
「そう言うと思った」
静は喉の奥でかすかに笑うと、眠気を払うようにうんと伸びをした。晴も、起きてからずっと考えていたことを口にする。
「家に帰らないと」
なぜか静の反応を見るのが怖くて、まくしたてるように言葉を続ける。
「ずっとパート休んじゃってるから店長に謝らないといけないし、もしかしたら夫が私のこと捜して警察沙汰になってたりしたら大変だし、それにいつまでも静の家でお世話になってるままじゃいけないし……」
静はなにも言わなかった。黙って晴の言葉に耳を傾けている。晴は、いつも一幸に伺いを立てる時のように静の顔を見上げた。
「家に帰っても、いいかな?」
静が咎めるように眉をひそめる。静の真っ黒な瞳には、不安げな顔をした晴が映っていた。
「どうして俺に許可を求めるの?」
静の大きな手のひらが晴の肩に置かれる。
「自分のしたいようにしていいんだよ。誰の許可もいらない、晴は自分で自分のやることを決めるんだ」
「あ……」
ずっと忘れていたことだった。晴はそんな大事なことを忘れていた自分に愕然とした。思考がすっかり、一幸によって捻じ曲げられている。自分がなにかをするには、夫である一幸の許可が必要だと信じ込んでいた。一幸がいないいま、晴の行動を決めるのは静だと勝手に思っていたのだ。
「下にタクシーを待たせてあるから、行っておいで」
静の後押しを受けて、やっと身体が動きはじめる。晴は三日食べていないことも、お風呂に入っていないことも忘れて、来た時と同じサンダルを突っかけて静の部屋を飛び出した。
この時見たものを、晴は一生忘れないだろう。
入り口に閉店の貼り紙がされ、真っ暗でがらんとしたパート先のカフェ。閉店の日付は、三日前になっていた。
足の踏み場もないほど、めちゃくちゃに荒らされたリビング。オートロックなのになぜ? という疑問はもはやわいてこなかった。まるで室内を嵐が通り過ぎたように、なにもかもが破壊されつくしていた。
晴の居場所は、晴が帰るべき場所は、もうどこにも存在しなかった。
ここは、自分の家の寝室ではない。晴が寝かされていたベッドも、あと三人は眠れるのではないかと思うほど広い。
寝室の片側の壁は、一面が窓になっていた。大きな窓から街の様子が見下ろせて、ミニカーのように小さな車がいくつも走っているのが見える。通りを歩く人も、ほとんど豆粒のような大きさに見えた。
徐々に意識がはっきりしてきて、晴はやっとここが静の住むタワーマンションの一室であることを思い出した。
一幸によって寝室に監禁されていたところを、静が救ってくれたのだ。そのまま静の住むこのタワーマンションに連れられて、お風呂に入って、食事もさせてもらって、眠くなってしまったのだった。
窓からは明るく日光が差し込んでいる。いまは何時なのだろう? 自分は、どのくらい眠っていたのだろうか。
晴はベッドを抜け出すと、大きな窓の前を通ってドアを開けた。そこははじめに通されたリビングだった。脚を伸ばして眠れるほど大きな革張りのソファに、誰かが眠っている。足の先が、ソファからはみ出していた。
ぐるりとソファを回って、眠っている人影をたしかめる。テーブルの上には耳から外したシルバーのピアスがいくつも転がっていた。少しだけ唇を開き、静が穏やかな顔で眠っている。
薄いまぶたに、緑の細い静脈が這っているのが見える。こうして見ると、静の目は猫のように目尻がわずかに吊り上がっているようだ。唇も、リップを塗っているみたいにやわらかなピンク色で血色がいい。
目を閉じていると、ほんの少しだけ子どもの頃の面影が見え隠れしていた。
「んん……」
静が身じろぎをして、うっすらと目を開ける。晴が驚いて飛び退くより先に、静の手が晴の頭を引き寄せた。胸のあたりに頭を抱き抱えられ、とくとくと心地いい心音が聞こえる。
「晴、起きたの」
「うん……」
「もう三日経ったよ」
晴は今度こそ、静の手を振り払って飛び退いた。
「三日? ……私がここに来てから?」
「そうだよ? ずっと眠ったままで、目を覚まさないから心配してたんだ」
まさかそんなに長い時間眠っていたとは思わなかった。晴の感覚では、ほんの数時間の昼寝くらいだと思っていたのだ。
それが三日も経っていたなんて。一幸はいまごろどうしているだろう? 三日も経てば、確実に晴がいなくなったと気づくはずだ。晴のことを捜し回る一幸の姿は、どうしても上手く思い描けなかった。なんとなく、自分はこのまま一幸に見捨てられるのだろうという予感があった。
静が気怠げにソファから身を起こす。ラフな長袖のスウェットを着た静は、寝癖もそのままに驚く晴をぼんやりと見ていた。普段はワイシャツの襟で隠れている首筋に精巧な龍の刺青が彫られているのを見つけ、晴はおそるおそる静の首筋に指を伸ばした。
「かっこいいでしょ、それ」
静が首を傾けて、絵柄がよく見えるようにしてくれる。ほとんど日焼けしていない白い肌に彫られた龍は黒々しく、しっかりとその存在を主張していた。
「晴も彫る?」
静の問いに、晴は首筋から手を離して首を振る。
「やめとく。痛そうだし」
「そう言うと思った」
静は喉の奥でかすかに笑うと、眠気を払うようにうんと伸びをした。晴も、起きてからずっと考えていたことを口にする。
「家に帰らないと」
なぜか静の反応を見るのが怖くて、まくしたてるように言葉を続ける。
「ずっとパート休んじゃってるから店長に謝らないといけないし、もしかしたら夫が私のこと捜して警察沙汰になってたりしたら大変だし、それにいつまでも静の家でお世話になってるままじゃいけないし……」
静はなにも言わなかった。黙って晴の言葉に耳を傾けている。晴は、いつも一幸に伺いを立てる時のように静の顔を見上げた。
「家に帰っても、いいかな?」
静が咎めるように眉をひそめる。静の真っ黒な瞳には、不安げな顔をした晴が映っていた。
「どうして俺に許可を求めるの?」
静の大きな手のひらが晴の肩に置かれる。
「自分のしたいようにしていいんだよ。誰の許可もいらない、晴は自分で自分のやることを決めるんだ」
「あ……」
ずっと忘れていたことだった。晴はそんな大事なことを忘れていた自分に愕然とした。思考がすっかり、一幸によって捻じ曲げられている。自分がなにかをするには、夫である一幸の許可が必要だと信じ込んでいた。一幸がいないいま、晴の行動を決めるのは静だと勝手に思っていたのだ。
「下にタクシーを待たせてあるから、行っておいで」
静の後押しを受けて、やっと身体が動きはじめる。晴は三日食べていないことも、お風呂に入っていないことも忘れて、来た時と同じサンダルを突っかけて静の部屋を飛び出した。
この時見たものを、晴は一生忘れないだろう。
入り口に閉店の貼り紙がされ、真っ暗でがらんとしたパート先のカフェ。閉店の日付は、三日前になっていた。
足の踏み場もないほど、めちゃくちゃに荒らされたリビング。オートロックなのになぜ? という疑問はもはやわいてこなかった。まるで室内を嵐が通り過ぎたように、なにもかもが破壊されつくしていた。
晴の居場所は、晴が帰るべき場所は、もうどこにも存在しなかった。
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