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第一章 ケイレブの街のアシェル
第五話
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「アシェル坊ちゃま。もうよろしいのですか……?」
朝食のテーブルの上を眺めていたネロが口を開いた。心配そうなその声音になんとかもう少し口に入れようとスプーンを手に取るが、スープの中を掻き回しているうちに段々と食欲が失せていってしまう。
「うん……ごめんね」
しょんぼり肩を落としてアシェルが謝ると、ネロが首を横に振る。
「やはり風邪をひいてらっしゃるのではないのですか。お医者さまをお呼びいたしましょうか」
いつも食欲旺盛で出されたものをほとんど残したことがないアシェルが、今朝は半分も朝食を食べられなかった。
他になにか食べられるものはないか、食欲がないなら果物でも切って来ようかと厨房に行きかけたネロをアシェルは慌てて引き留めた。
「お医者さまは呼ばなくて大丈夫……だと思う。果物もいらない」
せっかく切ってもらっても、また残してしまったらもったいない。
ふるふると首を振り、俯いたままアシェルが小さな声で言うと、ネロに心配そうに顔を覗き込まれた。
「お熱は……? ないようですわね」
自分の額に手を当てたネロがアシェルの額にも手をやる。けれどもちろん、平熱だ。
「食欲がないだけですか? 喉の痛みは? お腹の調子はどうですか」
「なんともない」
食欲が全くわいてこないのには別の理由があった。そのことについてネロに言おうか言うまいかアシェルは随分悩んだが、結局口には出せなかった。
(どうしよう……これって、病気ではないよね。きっと。でも一体、誰に相談したらいいんだろう)
ぎゅうっとズボンを握りしめて途方に暮れる。
昨夜は疲れていたはずなのに遅くまで眠れず、やっと朝方になってうとうとし始めたところ、とんでもない夢を見てしまった。ラオドールの大きな手や唇で、自分の体の色んな場所を触れられる夢だ。
はじめはいつものように優しい手つきで、まるで子供を可愛がるような穏やかなものだったが、「嬉しい」とアシェルが喜ぶと、触り方が段々と熱を帯び大胆になっていった。
いつも黒いローブを身に纏い隠れてしまっているためほとんどわからないが、ラオドールはがっしりとした体つきをしている。ローブの下には、まるで戦士のように鍛え上げられた立派な筋肉がある。生まれつき線の細い自分はどんなに鍛えてもそうはならないから、密かなあこがれだった。
夢の中でアシェルはその厚みのあるたくましい体に組み敷かれ、うっとりと吐息をもらし、熱い手と唇で翻弄された。
あらぬ場所をラオドールに愛撫されて、快感で身をよじり悶えた……。
目が覚めたとき自分はなんという夢を見てしまったのだろうと、羞恥と罪悪感で真っ青になったが、それよりも困ってしまったのは下着がべっとりと濡れていたことだった。
まさかこの年でおねしょをするなんて……とショックで涙をこぼしてしまったが、鼻を啜りながらよくよく見ると、それはおねしょとは何か違うようだった。
(なんだろう、これ……)
腹のあたりはスッキリしていて調子がいい。寝る前のもやもやとしていた気分も晴れていていつもより体は軽いくらいだ。
けれど。
(……僕の体から出たやつで間違いないんだよね……? おねしょじゃないなら何なんだろう)
途方に暮れていると、下の階からアシェルを呼ぶ大きな声が聞こえてきた。
「アシェル坊ちゃま! 起きてらっしゃいますか。朝食のお支度が出来ましたよ!」
いつも寝坊しがちなアシェルを起こす、屋敷の朝の名物、ネロのかけ声だ。
「起きてるよ! 今、行くから!」
部屋までもし来られて自分のこの状態をネロに見られてしまったら恥ずかしい、と慌てて大声で返事をすると、アシェルはベッドから飛び降りた。
そして大急ぎで着替え、汚れた服は後でこっそり自分で洗うことに決めてベッドの下に押し込んだ。
(誰かに相談したいけど。……ネロさんは女のひとだからアレを持ってないし)
同じような経験はしたことはないんじゃないか、とアシェルは推測する。男女の体の構造については昔絵本で見たことがある。あまり詳しくは描かれていなかったが。
そうなると、この屋敷で相談出来る相手はラオドールか料理人のハンクス、庭師のガロンになるが。どうしてそんなことになってしまったのか、もし夢の内容を詳しく聞かれてしまったら困るから、ラオドールに相談するのはなるべくなら避けたい。
「アシェル坊ちゃま?」
アシェルがあれこれ考えを巡らせていると、ネロが心配そうに声をかけてきた。
「うん……えっと、お腹はあまり空いてないけど。あたたかい紅茶とかなら飲めるかも。ハンクスさんお手製のジャムを入れた甘いものなら……」
「承知しました」
すぐにネロが厨房の方へと姿を消した。その背を見送ってからアシェルは食堂の窓の外へと目を向けた。
よく手入れされた木々や花壇が見える。腰のまがった庭師のガロンが、帽子を深くかぶり一際大きな木の幹に梯子をかけて枝を切っていた。
ガロンはすでに八十歳をこえているが、屋敷の誰よりもいつも早起きでよく働く。
リズミカルにハサミを動かすガロンを眺めていると、ネロがいつの間にか戻ってきていた。テーブルの上に小さな焼き菓子ののった皿を置き、カップになみなみと紅茶を注いでくれる。
お手製のジャムをそこにたっぷり入れて、アシュルはふーふーと冷ましながらゆっくり口をつけた。……おいしい。知らず知らずのうちに体に力が入っていたのだろうか。ネロのいれてくれたあたたかい紅茶のおかげでほっと緩んでいく。
「ありがとう、ネロさん。……そういえば、今日はラオドールさまは?」
いつもならアシェルが朝食を食べている傍らで、書類に目を通したり本などを読んでいるラオドールの姿が今朝はどこにも見当たらない。
「先に召し上がって、出かけられました」
「そうなんだ。今朝は早かったんだね……。ネロさん、ごちそうさまでした」
焼き菓子をつまんでポイと口に入れると、ガロンが他の場所へ移動してしまう前に質問してしまおう、とアシェルは急いで椅子から立ち上がった。
「ガロンさん、おはようございます」
ガロンがいる梯子の上を見上げてアシェルが元気よく挨拶をすると、ガロンが手を止めてアシェルの方を見た。切った葉や枝がパラパラと落ちて来て、アシェルはそれを避けながら口を開く。
「今日もいいお天気ですね!」
まずは朝の挨拶だ。
ガロンが頷いてそのまますぐに作業を再開しようとしたのを見て、慌ててアシェルは続きを口にした。
「あの……少しだけ、お時間をいただいてもいいでしょうか。本当に少しなので……!」
そういえばガロンは無口なほうなのだった。会話のついでに何気なく質問をするのは難しい。
それに今は仕事中だ。ガロンの邪魔をしないように、すぐに本題に入らないと。
ガロンは手に持ったハサミとアシェルを交互に見て少し迷っているようだったが、アシェルの必死な表情に気付くと頷いた。
梯子をスルスルと下りてきてアシェルに花壇のそばのベンチに座るようにと促す。
「……どうなさいました、アシェル坊ちゃま」
帽子を取って首にかけているタオルで汗を拭いながら、アシェルの隣に腰かけた。
ガロンはこの屋敷にきて四年になる。ケイレブの街はずれに夫婦二人で住んでいたのだが、五年前に妻を流行り病で亡くし、気落ちしていたところをラオドールが屋敷の庭師として雇ったのだ。
腕の立つ靴職人として長年街で働いていたらしく、手先が器用だったので、庭師としても向いていた。ガロンが来る前は荒れ放題だった屋敷の庭が、今はもう以前の姿を思い出せないほど美しくいつも整えられている。
酒や料理に使うことが出来る草や花の品種も調べて植えてくれるので、ネロやハンクスにもとても喜ばれている。
もじもじと足をすり合わせ、ガロンの顔はなるべく見ないようにしてアシェルは今朝自分に起きた出来事を説明した。
黙って最後までアシェルの話を聞いていたガロンが小さく唸った。
「……そういったことは初めてでしたか」
「……え? ……はい」
訊かれて思い出してみるが、こんなことは今まで一度もなかった。何か悪い病気なのかとさっと青褪めるとガロンが困ったように頭を掻いた。
「……ふうむ。いや……それはいたって正常で、健康で、大人の男に起こる生理現象なようなものですが……こりゃ、まいったな。いったいなんと説明したものか……。学校ではそういうことは習いませんでしたか」
「習ってません」
「ああ、入学したての頃に習うのかな……。アシェル坊ちゃんはだいぶ遅く入られたのでしたね」
「……あの。おかしいことではないですか……?」
「いやいやおかしくなんてありません。むしろ、そういったことがないことの方がおかしい。……アシェル坊ちゃまの年齢にしたら少し遅めの方です」
アシェルがほっとして潤んだ瞳でガロンを見ると、ガロンが頷いて落ちていた枝を手に取った。地面の上に何やら絵を書いてくれる。
「こう……植物におしべとめしべがあるように、動物にもオスとメスがあって、子孫を残すために大人になるとオスはここで……子種を作るわけですが」
まるで学校の授業のように丁寧に教えてくれる。アシェルはこくこくと頷く。
「それを定期的に排出してあげないと、たまっていく一方になって困るわけです……。今朝アシェル坊ちゃまに起きたのはそれが勝手に出てしまったわけで……」
なるほど、とアシェルが顔を上げるとガロンが続けた。
「これは病気でもなんでもなく、当たり前のことです」
「そうなんですね。よくわかりました、ガロンさん。ありがとうございます」
深々とおじぎをするとガロンがほっとした顔をした。
(あれ、でも子孫を残す子種ってことは……)
「ガロンさん。でも僕……いやらしい夢を見てそうなってしまったのですが。相手は女のひとではなくて……ラオドールさまだったのです」
ぐふっとガロンが喉の奥で変な音をたててゲホゲホと咳き込み始めた。背を丸めて苦しそうにしているガロンに何か変なことを言ったのだろうかと、アシェルは不安になりながら、手で背中を擦る。
ガロンはベンチのそばに置いてあった水筒を手にすると一気に口の中に流し込み、飲み干した。それで少し落ち着いたのか、ふう、と息をつきじっとガロンの言葉を待っているアシェルを困ったように見た。
「まあ……そういうことも……あるでしょうな……。いや相手が男ということも……もちろん、おかしなことではない……」
しどろもどろになっているガロンを不思議に思いながらも、ほっと胸を撫で下ろす。
「……そうでしょうか」
「もちろん。相手が愛しいと思ったときにそういったことは起こるものですから」
――愛しい。
ガロンの言葉がストンとアシェルの胸の奥に落ちた。
愛しい。
僕はラオドールさまが……愛しい。
「ええっと、それは……父として、兄としてではなく……」
「そういった気持ちとはまた別のものです」
アシェルは今までもずっとラオドールのことをかけがえのない大切なひとだと思っていたが。
それがだんだんと輪郭を持って、アシェルの中で明確な形になってゆく。
(そうか……そうだったんだ)
「ありがとうございます、ガロンさん」
丁寧に礼を言い、にこりとアシェルが微笑むとガロンもつられたように笑みを浮かべた。だが次の瞬間、ハッとしたような顔をして枝を拾いアシェルに再び説明の続きを始めた。
「それからたまっていく子種ですが。それを定期的に排出していく方法もありまして……。下着や布団を汚さずにすむ上にスッキリするので私としてはそちらがおすすめになるのですが……」
そこから先の説明はアシェルにとっては驚くことばかりで、大人になるということは大変なことなのだと気が重くなってしまったが。最後にいつも無口なガロンが「これで大人の仲間入りです。アシェル坊ちゃま」と背中を強く叩いてくれたので少し誇らしい気持ちになった。
そして、そんなふうに説明をしてくれたガロンに感謝した。
それからアシェルはラオドールと少しだけ距離をおくようになった。
今までのように二人で歩く時に手を繋いだりするようなことはせず、必要以上に体に触れないように気を配った。
ラオドールへの恋心を自覚してから、ほんの少しのきっかけで自分の体が反応してしまうようになったからだ。
時々怒っているような苛立ったような視線をラオドールが投げかけてくることがあったが、なるべく気にしないようにした。
まさかラオドール本人に、触れられると夜中に自分の体を慰めることになるからなどと言えるわけがなかった。
朝食のテーブルの上を眺めていたネロが口を開いた。心配そうなその声音になんとかもう少し口に入れようとスプーンを手に取るが、スープの中を掻き回しているうちに段々と食欲が失せていってしまう。
「うん……ごめんね」
しょんぼり肩を落としてアシェルが謝ると、ネロが首を横に振る。
「やはり風邪をひいてらっしゃるのではないのですか。お医者さまをお呼びいたしましょうか」
いつも食欲旺盛で出されたものをほとんど残したことがないアシェルが、今朝は半分も朝食を食べられなかった。
他になにか食べられるものはないか、食欲がないなら果物でも切って来ようかと厨房に行きかけたネロをアシェルは慌てて引き留めた。
「お医者さまは呼ばなくて大丈夫……だと思う。果物もいらない」
せっかく切ってもらっても、また残してしまったらもったいない。
ふるふると首を振り、俯いたままアシェルが小さな声で言うと、ネロに心配そうに顔を覗き込まれた。
「お熱は……? ないようですわね」
自分の額に手を当てたネロがアシェルの額にも手をやる。けれどもちろん、平熱だ。
「食欲がないだけですか? 喉の痛みは? お腹の調子はどうですか」
「なんともない」
食欲が全くわいてこないのには別の理由があった。そのことについてネロに言おうか言うまいかアシェルは随分悩んだが、結局口には出せなかった。
(どうしよう……これって、病気ではないよね。きっと。でも一体、誰に相談したらいいんだろう)
ぎゅうっとズボンを握りしめて途方に暮れる。
昨夜は疲れていたはずなのに遅くまで眠れず、やっと朝方になってうとうとし始めたところ、とんでもない夢を見てしまった。ラオドールの大きな手や唇で、自分の体の色んな場所を触れられる夢だ。
はじめはいつものように優しい手つきで、まるで子供を可愛がるような穏やかなものだったが、「嬉しい」とアシェルが喜ぶと、触り方が段々と熱を帯び大胆になっていった。
いつも黒いローブを身に纏い隠れてしまっているためほとんどわからないが、ラオドールはがっしりとした体つきをしている。ローブの下には、まるで戦士のように鍛え上げられた立派な筋肉がある。生まれつき線の細い自分はどんなに鍛えてもそうはならないから、密かなあこがれだった。
夢の中でアシェルはその厚みのあるたくましい体に組み敷かれ、うっとりと吐息をもらし、熱い手と唇で翻弄された。
あらぬ場所をラオドールに愛撫されて、快感で身をよじり悶えた……。
目が覚めたとき自分はなんという夢を見てしまったのだろうと、羞恥と罪悪感で真っ青になったが、それよりも困ってしまったのは下着がべっとりと濡れていたことだった。
まさかこの年でおねしょをするなんて……とショックで涙をこぼしてしまったが、鼻を啜りながらよくよく見ると、それはおねしょとは何か違うようだった。
(なんだろう、これ……)
腹のあたりはスッキリしていて調子がいい。寝る前のもやもやとしていた気分も晴れていていつもより体は軽いくらいだ。
けれど。
(……僕の体から出たやつで間違いないんだよね……? おねしょじゃないなら何なんだろう)
途方に暮れていると、下の階からアシェルを呼ぶ大きな声が聞こえてきた。
「アシェル坊ちゃま! 起きてらっしゃいますか。朝食のお支度が出来ましたよ!」
いつも寝坊しがちなアシェルを起こす、屋敷の朝の名物、ネロのかけ声だ。
「起きてるよ! 今、行くから!」
部屋までもし来られて自分のこの状態をネロに見られてしまったら恥ずかしい、と慌てて大声で返事をすると、アシェルはベッドから飛び降りた。
そして大急ぎで着替え、汚れた服は後でこっそり自分で洗うことに決めてベッドの下に押し込んだ。
(誰かに相談したいけど。……ネロさんは女のひとだからアレを持ってないし)
同じような経験はしたことはないんじゃないか、とアシェルは推測する。男女の体の構造については昔絵本で見たことがある。あまり詳しくは描かれていなかったが。
そうなると、この屋敷で相談出来る相手はラオドールか料理人のハンクス、庭師のガロンになるが。どうしてそんなことになってしまったのか、もし夢の内容を詳しく聞かれてしまったら困るから、ラオドールに相談するのはなるべくなら避けたい。
「アシェル坊ちゃま?」
アシェルがあれこれ考えを巡らせていると、ネロが心配そうに声をかけてきた。
「うん……えっと、お腹はあまり空いてないけど。あたたかい紅茶とかなら飲めるかも。ハンクスさんお手製のジャムを入れた甘いものなら……」
「承知しました」
すぐにネロが厨房の方へと姿を消した。その背を見送ってからアシェルは食堂の窓の外へと目を向けた。
よく手入れされた木々や花壇が見える。腰のまがった庭師のガロンが、帽子を深くかぶり一際大きな木の幹に梯子をかけて枝を切っていた。
ガロンはすでに八十歳をこえているが、屋敷の誰よりもいつも早起きでよく働く。
リズミカルにハサミを動かすガロンを眺めていると、ネロがいつの間にか戻ってきていた。テーブルの上に小さな焼き菓子ののった皿を置き、カップになみなみと紅茶を注いでくれる。
お手製のジャムをそこにたっぷり入れて、アシュルはふーふーと冷ましながらゆっくり口をつけた。……おいしい。知らず知らずのうちに体に力が入っていたのだろうか。ネロのいれてくれたあたたかい紅茶のおかげでほっと緩んでいく。
「ありがとう、ネロさん。……そういえば、今日はラオドールさまは?」
いつもならアシェルが朝食を食べている傍らで、書類に目を通したり本などを読んでいるラオドールの姿が今朝はどこにも見当たらない。
「先に召し上がって、出かけられました」
「そうなんだ。今朝は早かったんだね……。ネロさん、ごちそうさまでした」
焼き菓子をつまんでポイと口に入れると、ガロンが他の場所へ移動してしまう前に質問してしまおう、とアシェルは急いで椅子から立ち上がった。
「ガロンさん、おはようございます」
ガロンがいる梯子の上を見上げてアシェルが元気よく挨拶をすると、ガロンが手を止めてアシェルの方を見た。切った葉や枝がパラパラと落ちて来て、アシェルはそれを避けながら口を開く。
「今日もいいお天気ですね!」
まずは朝の挨拶だ。
ガロンが頷いてそのまますぐに作業を再開しようとしたのを見て、慌ててアシェルは続きを口にした。
「あの……少しだけ、お時間をいただいてもいいでしょうか。本当に少しなので……!」
そういえばガロンは無口なほうなのだった。会話のついでに何気なく質問をするのは難しい。
それに今は仕事中だ。ガロンの邪魔をしないように、すぐに本題に入らないと。
ガロンは手に持ったハサミとアシェルを交互に見て少し迷っているようだったが、アシェルの必死な表情に気付くと頷いた。
梯子をスルスルと下りてきてアシェルに花壇のそばのベンチに座るようにと促す。
「……どうなさいました、アシェル坊ちゃま」
帽子を取って首にかけているタオルで汗を拭いながら、アシェルの隣に腰かけた。
ガロンはこの屋敷にきて四年になる。ケイレブの街はずれに夫婦二人で住んでいたのだが、五年前に妻を流行り病で亡くし、気落ちしていたところをラオドールが屋敷の庭師として雇ったのだ。
腕の立つ靴職人として長年街で働いていたらしく、手先が器用だったので、庭師としても向いていた。ガロンが来る前は荒れ放題だった屋敷の庭が、今はもう以前の姿を思い出せないほど美しくいつも整えられている。
酒や料理に使うことが出来る草や花の品種も調べて植えてくれるので、ネロやハンクスにもとても喜ばれている。
もじもじと足をすり合わせ、ガロンの顔はなるべく見ないようにしてアシェルは今朝自分に起きた出来事を説明した。
黙って最後までアシェルの話を聞いていたガロンが小さく唸った。
「……そういったことは初めてでしたか」
「……え? ……はい」
訊かれて思い出してみるが、こんなことは今まで一度もなかった。何か悪い病気なのかとさっと青褪めるとガロンが困ったように頭を掻いた。
「……ふうむ。いや……それはいたって正常で、健康で、大人の男に起こる生理現象なようなものですが……こりゃ、まいったな。いったいなんと説明したものか……。学校ではそういうことは習いませんでしたか」
「習ってません」
「ああ、入学したての頃に習うのかな……。アシェル坊ちゃんはだいぶ遅く入られたのでしたね」
「……あの。おかしいことではないですか……?」
「いやいやおかしくなんてありません。むしろ、そういったことがないことの方がおかしい。……アシェル坊ちゃまの年齢にしたら少し遅めの方です」
アシェルがほっとして潤んだ瞳でガロンを見ると、ガロンが頷いて落ちていた枝を手に取った。地面の上に何やら絵を書いてくれる。
「こう……植物におしべとめしべがあるように、動物にもオスとメスがあって、子孫を残すために大人になるとオスはここで……子種を作るわけですが」
まるで学校の授業のように丁寧に教えてくれる。アシェルはこくこくと頷く。
「それを定期的に排出してあげないと、たまっていく一方になって困るわけです……。今朝アシェル坊ちゃまに起きたのはそれが勝手に出てしまったわけで……」
なるほど、とアシェルが顔を上げるとガロンが続けた。
「これは病気でもなんでもなく、当たり前のことです」
「そうなんですね。よくわかりました、ガロンさん。ありがとうございます」
深々とおじぎをするとガロンがほっとした顔をした。
(あれ、でも子孫を残す子種ってことは……)
「ガロンさん。でも僕……いやらしい夢を見てそうなってしまったのですが。相手は女のひとではなくて……ラオドールさまだったのです」
ぐふっとガロンが喉の奥で変な音をたててゲホゲホと咳き込み始めた。背を丸めて苦しそうにしているガロンに何か変なことを言ったのだろうかと、アシェルは不安になりながら、手で背中を擦る。
ガロンはベンチのそばに置いてあった水筒を手にすると一気に口の中に流し込み、飲み干した。それで少し落ち着いたのか、ふう、と息をつきじっとガロンの言葉を待っているアシェルを困ったように見た。
「まあ……そういうことも……あるでしょうな……。いや相手が男ということも……もちろん、おかしなことではない……」
しどろもどろになっているガロンを不思議に思いながらも、ほっと胸を撫で下ろす。
「……そうでしょうか」
「もちろん。相手が愛しいと思ったときにそういったことは起こるものですから」
――愛しい。
ガロンの言葉がストンとアシェルの胸の奥に落ちた。
愛しい。
僕はラオドールさまが……愛しい。
「ええっと、それは……父として、兄としてではなく……」
「そういった気持ちとはまた別のものです」
アシェルは今までもずっとラオドールのことをかけがえのない大切なひとだと思っていたが。
それがだんだんと輪郭を持って、アシェルの中で明確な形になってゆく。
(そうか……そうだったんだ)
「ありがとうございます、ガロンさん」
丁寧に礼を言い、にこりとアシェルが微笑むとガロンもつられたように笑みを浮かべた。だが次の瞬間、ハッとしたような顔をして枝を拾いアシェルに再び説明の続きを始めた。
「それからたまっていく子種ですが。それを定期的に排出していく方法もありまして……。下着や布団を汚さずにすむ上にスッキリするので私としてはそちらがおすすめになるのですが……」
そこから先の説明はアシェルにとっては驚くことばかりで、大人になるということは大変なことなのだと気が重くなってしまったが。最後にいつも無口なガロンが「これで大人の仲間入りです。アシェル坊ちゃま」と背中を強く叩いてくれたので少し誇らしい気持ちになった。
そして、そんなふうに説明をしてくれたガロンに感謝した。
それからアシェルはラオドールと少しだけ距離をおくようになった。
今までのように二人で歩く時に手を繋いだりするようなことはせず、必要以上に体に触れないように気を配った。
ラオドールへの恋心を自覚してから、ほんの少しのきっかけで自分の体が反応してしまうようになったからだ。
時々怒っているような苛立ったような視線をラオドールが投げかけてくることがあったが、なるべく気にしないようにした。
まさかラオドール本人に、触れられると夜中に自分の体を慰めることになるからなどと言えるわけがなかった。
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