泣き鬼の花嫁

志波 連

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「何事ですか?」

「若殿が慰みに笛を聞かせてやろうと仰ってな」

「おおっ! それはありがたや」

 酒を飲みながら名手と言われる若殿の笛が聞けるとあって、佐次郎たちは姿勢を正して正座した。

「ヒョロォォォ」

 澄んだ音色が夜空に染みた。
 がやがやと聞こえていた話し声が静まり、尼子軍の全員が政久の笛の音に耳を傾ける。
 天界の音かと思わせるほどの美しい音色に、荒々しい男たちも口を閉じて聞き入った。

 雲が流れ、蒼白い月光が黒々とした森を浮かび上がらせる。
 その動きがまるで人生の浮き沈みのように感じるのは、神々しい程の音色のせいか。
 誰かが漏らした嗚咽が佐次郎の耳に触れた。

 長月とはいえ今年は妙に温かい日が続いていたが、さすがに夜ともなると肌寒い。
 誰かが放り込んだ枝が、焚火の中でパチンと爆ぜた。

「今宵はここまでとしようか」

 櫓から下りてきた政久が錦の袋に横笛を仕舞いながらポツンと言った。

「ありがとうございました」

 たまたま一番近くにいた佐次郎が声に出す。

「お気に召したかな?」

「ありがたくて震えるほどでございました」

「そう言ってくれるなら明日も聞かせてやろうかの」

 また雲間に隠れた月が政久の顔を隠した。

「おやすみなさいませ」

 その言葉には返事をせず政久達一行は去っていった。
 金縛りにでもあったように動かなかった男たちが、現実に戻ってくる。
 あの笛の音に心の澱が流れたのか、皆が穏やかな顔つきで火の始末を始めた。
 静かになった丘の上でゴロンと横になった佐次郎が、目を開けているのかいないのかさえ分からないほどの暗闇に、春乃の顔を描いている。
 戻れば祝言というだけで、思わず笑みが浮かんでしまう。

「のう、権左。お前は屋敷に残るのか?」

 見えないが横に寝ているはずの権左に声を掛ける。

「居て良いと言われれば残りましょうが、出て行け言われれば出るだけですわい」

「一緒に来んか?」

「あれ、よろしいので?」

「もちろんじゃ。俺は木こりになろうと思うておるでのう、村に売りに行く人手が欲しい」

 権左が笑い声をあげた。

「なるほど。そういうことならお供しましょうわい。佐次郎様では売れませんでのう」

「ああ、また鬼が来たと言われて石礫を投げられては敵わん」

 どちらからともなく寝息を立て始める。
 戦場とは思えないほど潤沢な食料と、時々振る舞われる酒が、男たちの緊張感を奪い取って行った。
 そして翌朝。

「うわぁぁぁぁぁ!」

 けたたましい叫び声で跳ね起きた佐次郎と権左が見たのは、磨石山の大門から雪崩出てくる武将たちの姿だった。

「起きろ! 敵襲じゃぁぁぁぁ!」

 武将たちが寝起きしていた野営幕が跳ねあがった。

「馬を! 若殿を後方へ!」

 だらけ切っていた男たちが呆然としている間に、桜井軍は尼子軍に迫っている。

「権左! 背に乗れ!」

「ほいきた!」

 ウロウロとする杣人兵に佐次郎が声を出した。

「お前らは木の上に逃れよ。敵がどこに固まっておるのかを小松様に知らせろ」

「合点承知!」

 杣人たちが荷物を纏めて森に消えた。
 それを見届けることもなく、手早く鎧に身を包む佐次郎と権左。
 用意していた背負子の帯に腕を差し入れた佐次郎が叫んだ。

「走るぞ! 権左」

「準備万端!」

「うおぉぉぉぉぉ!」

 権左を背負った佐次郎が敵軍に向かって丘を駆け下りていく。
 それに続けとばかりに武将を乗せた馬たちが追う。
 佐次郎の背中で権左が言った。

「さすがに兵糧が尽きて出てきたのでしょうなぁ」

「腹が減っては戦もできぬとは良く聞くが、腹が減ったから戦に出るとはのぉ」

「ははは! 佐次郎様。上手いことを言いなさる」

「すぐに出会うぞ。舌を嚙むなよ」

 数騎の馬には追い越されたが、それでも戦闘集団を守る佐次郎の姿に、遠眼鏡で様子を見ている政久が感嘆の声を上げた。

「わが軍には鬼がおったか!」

「わぁぁぁぁぁ!」

「うおぉぉぉぉ!」

 命のやり取りの場で口から出るのは叫び声だけだ。
 男たちの叫び声に、森から鳥たちが飛び立った。
 金属で叩きあう音が、奥歯に滲みる。
 右翼に進んだ佐次郎の刀は、すでに血糊で切れなくなっていた。
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