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序章
あじさい色の情事【1】
しおりを挟む雨が降っていた。
美術室の窓際で、それを見つめる少女───美少女、と評してもいい。
涼しげな目もとをした、面長の上品な顔立ち。
腰近くまで伸びたストレートの黒髪を、セーラー服の背にそのまま下ろしている。
身長は、平均的な女子高校生よりも、やや高め。
その体躯は、以前、斎藤蒼から「着やせするね」と言われたように、見た目は華奢な印象を相手に与える。
けれども、その下にはふくよかな肢体が隠されていた。
(傘……忘れていたわ)
六月中旬。
梅雨時期に傘を忘れるなど、瑤子にしては珍しいことだった。
歳より大人びた表情や言動が多い彼女を、周囲の者は“しっかり者の優等生”として見ている。
もちろん、概ねその通りではあったが───。
美術室には、瑤子の他に誰も居なかった。
放課後のこの時間に、美術部員が誰も……正確には瑤子以外、一人も姿を現してはいなかった。
無理もない。
月に一度の部会にすら、顔をだす者が少ないのが現状だ。
溜息と共に瑤子は窓際から離れ描きかけのキャンバスの前に立つ。
(あじさいって……こんな色だった……?)
自分の描いた絵を見つめる。
そんな感想を持ってしまいたくなる色遣いだ。
花びらの霞がかった曖昧さ。その向こうの空も薄く濁り、描かれたものが分かりにくい。
「───君らしくない絵だね」
ふいに耳もとで、ささやかれた。青年というよりは、少年と表わしたくなる、透明な声音。
彼の気配に気づくのが遅れるほどに、自分は放心していたらしい。
ふっ……と。瑤子は苦笑いを浮かべた。
「そうかしら?」
「自分で、そう思わないの?」
後ろから、蒼の半袖の腕が伸びてきて、やんわりと瑤子を包みこむ。
「……そうね」
つぶやくような相槌を唇にのせ、ゆっくりと視線を床に転じる。
雨音が、ひそやかに室内に響いていた。
蒼の見立ては正しい。
瑤子の描いた紫陽花は、今までの筆のタッチと一変していた。
どちらかというと写実的に描いてきた瑤子だが、その絵は抽象画に近かった。
首筋に、蒼の息がかかる。
唇が押しあてられた。
「───部活……休みだったの?」
この時刻にこの場所を訪れたことへの、皮肉を含んだ問いかけ。
蒼に伝わらないはずもないだろうが、しかし答えはあっさりと告げられる。
「サボりだよ。……柔軟なら、君とした方がいいしね」
セーラー服の裾から蒼の長い指が入りこむ。それを片手で押さえ、小さく笑ってたしなめた。
「誰か来たら困るわ。
準備室と違って、廊下からの見通しがいいのよ、ここは」
約一年前から日常的に行為に及んだ隣室との違いを示唆する。
廊下側からも自然の光が射しこむ窓側からも、死角にあたる位置。
ふたりは、その場においてだけ気の向くままに、互いを求め合っていた。
ふたりの間に存在するのは、恋人同士のそれではなく、似た者同士の快楽の共有でしかなかった。
「特別な用事でもない限り、人は来ないと思うよ。
……もっとも、その用事すら、あるとは思えないけどね」
からかうような言葉がかけられた直後、上半身の締めつけが、ふっとゆるむ。
瑤子の手をやんわりと退け、蒼の指先が下着の内側にあるふくらみに触れた。
「……見られたって、知らないから」
優しい顔立ちのわりに、蒼には強引なところがあった。
それを苦く思ったことはないし、そうと感じさせない魅力を彼はもっていた。
美術室は、旧校舎の最上階である四階にあった。
奥まった位置にある教室には、極端に人の訪れが少ない。
蒼のいう通り、必要がなければ誰も来ないだろう。
そう安心しきっているのは、瑤子も同じだった。
何より、美術部員の自分が、一番よく知っている。
床に落ちてから、かなり経ったらしい絵の具の塊を、横目に見やった。
制服に埃がつくのはためらわれたが、蒼の煽情的なくちづけは、それを凌いだ。
「……気がのらない?」
さらさらの褐色髪が、あごをかすめる。
蒼の顔は、見えない。耳たぶを軽く噛まれた。
「いやなら、拒むわ」
吐息と共に答える。見透かされそうな想いを、ごまかすように。
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