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第一章 ── 斎藤 蒼 ──
口止め料の接吻【1】
しおりを挟むそれから数日経った放課後、蒼が美術室を訪れた。
「場所を、変えようか」
練習用のユニフォームを着たままの蒼が、熱心に筆を動かし続ける瑤子に言った。
「見られたのは、偶然でしょう?」
キャンバスから顔をそらさずに瑤子は答える。
構図に問題はないはずだ。エスキースの段階で納得して始めたのだから。
やはり、明暗の付け方が悪かったのだろう。
同じ色でも、微妙に明るさを変えていけば───。
「綺麗な髪が汚れるよ。絵を描いている間だけでも、結べば?」
自分の世界に入りこんだままの瑤子に少し笑って、蒼は、椅子の背もたれに預けていた腕を上げる。
蒼の指が、瑤子の黒髪をひとふさ捕えた。
蒼がサッカー部の練習を抜けだしてきたのは、これが初めてというわけではない。
瑤子があきれるほど部活動を休み、その日の気分で練習を抜けてはここへやって来るのが彼の日常だった。
「部活……大丈夫なの?」
ひたむきな練習をするでもない蒼の実力が、サッカー部内でも高く評価されていることは、知ってる。
それを快く思わない輩も多いだろうと、他人事ながら心配してしまう。
暇を持て余したように瑤子の髪を束ねだした蒼を見上げる。
催促されてヘアゴムを渡すと、器用に髪が結ばれた。
「関谷がまた、呼びに来ない限り、ね」
瑤子の心配をはぐらかすように蒼は笑ってみせた。
虫も殺さない笑みとは、こういうものだろうと、瑤子はいつも思う。
「だから、困るんだよ」
褐色の少し長めの前髪をかきあげた蒼の顔が、憂うつな表情へと変わる。
「ここへ来ればおれがいるっていうのをあいつが知って、また邪魔されるのかと思うとね」
「そうね……」
素直にうなずく。
蒼が練習を抜けだす度に呼びに来られるようでは、確かにいい迷惑だ。
せっかくの楽しみも、ぶち壊しになる。
(それに───)
ふと別の理由が頭をよぎりかけ否定する。そんなはずは……ない。
「ここに来ないようにしてもらえば、いいのよね……」
ぽつりとつぶやく。
邪魔さえ入らなければ、場所を変えずとも良いのだ。
「私が彼に会って、頼んでみるわ」
「頼むって……」
蒼は眉を寄せた。
瑤子の真意が分からず、どう対処したものかといった様子だ。
「私、この場所が気に入っているのよ。誰にも邪魔されたくないの。
あなただって、そうでしょう?」
「───それは……そうだけど」
いつになく感情をあらわにした瑤子に驚きつつも、蒼のほうに異存はないようだった。
瞳の奥に、わずかに不信感が見てとれたが、瑤子は気づかないふりをして、話を終わらせた。
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