翼 アフェアーズ

柴川まる

文字の大きさ
上 下
1 / 64
プロローグ

市電の中の美しき天使

しおりを挟む
 愛知県のほぼ中央に位置するここ大ヶ埼市の中心を南北に福大町からJR大ヶ埼駅を経由し大木だいぼく寺まで約九キロを、まるで昭和初期からタイムスリップしたかの様なレトロな外観そのままに、横を走る車達に少し迷惑そうな顔をされながらも、そんな事これっぽちも気にせず堂々とゆったり、そしてのんびり走る大ヶ埼市内線、通称『市電』。

 もともとは、一世紀以上前から名古屋駅までは乗り入れている近鉄を除いて、愛知県唯一の大手私鉄である名鉄が経営していた路線なのだが、第二次大戦後急速に発展したモータリゼーションの波に押されて昭和三十七年(1962年)には廃止寸前まで追い詰めらていた。それを戦後の混乱期に株や商品相場、土地取引で財を成し、たった一代で地元の一大名士にまで成り上がった『如月きさらぎ 長太郎ちょうたろう』が存続を熱望する市民の声に応える形で全線買い取り、そのまま平成の世までこの市電を存続させた物だ。

 当初は増え続ける車が渋滞を起こすのではとの危惧や利用客の伸び悩みと言った問題もあったのだが、市電の走る国道248号線にほぼ平行する形で、現在ではこちらが正式な国道248号線となっている広いバイパス道路が造られた事もあり、そんな交通の問題はまもなくほぼなくなった。 

 その上、国鉄からJRへ変わり快速の本数が増え運賃も相対的に安くなり、それまで名古屋や豊橋へ向かう市民の主な足は圧倒的に名鉄だったものが、徐々にJRに流れた事もありJR駅前に直結する市電は重宝される様になる。ちなみに名鉄の駅は東大ヶ埼と呼ばれ、JR駅と大木寺の中間辺りにあるのだが市電とは直結されていない。

 さらには途中に有名スーパーが中心となった、今ではシネコンまでも備える様になっている一大商業施設が出来た事もあり、この市電の利用客は想像以上に増えて行った。

 さらには長太郎の意志もあり、時代が進んだ今でもあえて外観、さらには快適性を保ったまま出来るだけ内装までもが当時の面影を色濃く残したレトロなデザインの車体を今でも採用し続けている事が市民だけでなく、日本中の鉄道ファンにも愛され、予想外の人気を呼ぶ要因になった。


 もちろん僕もこの市電が好きだ。

 特にこの時期の晴れた日中、外観と内装はレトロ風でも今はさすがにエアコンは完備の仕様になっているのだがそのエアコンを停め、窓を全部開け放ち、心地良い五月の風を窓から社内にそよそよと流しながら走るのがとても良い。あえて車と速さを競わず、ゆっくりコトコト走っているからこの心地良い風の流れがあるのだ。

 もっとも電車と言えど道路を走る以上信号には従わねばならぬ市電の宿命で、どんなに速度を上げてみた所で必ず途中信号に引っかかる。だから、こんなゆったりした速度で走った所で目的地に着く時間はそんな車達とほとんど変わらない。

 そして、開け放たれた窓からは風と共に、街の音が聞こえてくる。それは街が生きている呼吸や鼓動を聞いて居る様な気が僕はする。今は異常なまでの潔癖症が蔓延してほとんど感じなくなったけど、きっと昔は様々な匂いもまでも車内に流れて来たのだろう。

 だからこの時期、市電に乗るとレトロな外見と内装のおかげで、遥か昔、まだまだ貧しかったけれど明日への希望に満ち溢れた旧き良き昭和三十年代にタイムスリップしたかの様に感じられるんだ。

 平成生まれの僕は、下手なラノベじゃあるまいし実際にタイムスリップしてそんな昭和三十年代を経験した事など当然あるわけじゃないんだけどね。



 今日は電車は空いていたので、僕は隣に座ってその体温や髪の残るシャンプーの微かな香りを身近に感じたい衝動を押さえつけ、あえてこいつから離れ真向いの席に座る。

 こいつは立っていれば結構長身なのに座ると逆にかなり小柄に見える。

 僕が向かいの席に座ったのを見てこいつは意味有り気な微笑を一瞬だけその口元に浮かべると、何食わぬ顔で鞄から文庫本を取り出し、それを静かに読み始めた。

 こいつが今、手にしているのが、甘酸っぱい初恋を描いた恋愛小説なのか? コミカルな学園生活を描いたラノベなのか? 陰惨な事件を探偵役が鮮やかに解決する推理小説なのか? あるいは精緻で美しい文章で綴られる一枚の絵画の様な文学作品なのか? それは書店オリジナルの可愛らしいイラストのブックカバーで覆われ僕には分からない。まあ、相手がこいつの事、かなり濃厚な年齢制限付きのBL小説であったとしてさもありなんと僕は思ってしまうだろう。

 肩の辺りから太い三つ編みにした腰まで届きそうなほどの艶やかで長い黒髪。

 少し長めに垂らした前髪が窓から流れ込む風にさらさらと揺られている。

 揺れる前髪の下には、初対面だと理知的ながら少し冷たい印象を与える磨き上げられた碁石の様に黒く美しい瞳を持つやや目じりが上がった切れ長の目。

 まるで彫刻の様な彫の深い整った顔立ち。

 降り積もったばかりの新雪を思わせる真っ白で細く長い首筋。

 腰はきゅっと引き締まって細い上に胸元の抑揚まで少なく、肉感的な魅力には欠ける嫌いがあるスレンダーでコンパクトな上半身。それが赤いリボンタイが付いた白いブラウスと濃紺のブレザーに包まれている。

 まあ、この胸元の抑揚に関しては『山高きが故に尊からず』と言う言葉もあるし、最近では逆に抑揚の少ない方を尊ぶ男どもがかなりの割合で居る。だから、この事が今の世の中一概に欠点とは良い難い。

 そして、肩から伸びた細く長い腕の先、乱暴に扱えば砕けてしまいそうなほど細くしなやかな指が文庫本を開いて持つ。

 赤みが強いチェック地のスカートから磨き上げられた黒革のローファーでまで続く長い脚。それが、厚手の黒いストッキングに包まれ緩やかで美しい曲線が描きながら絡み合う様に美しく組まれていた。

 こいつは、一般的な女生徒の様に腰で折ってスカートの裾を短くする様な細工をしていない。それでも、この位置からすると組んだ足の間からその奥が見えそうでついドキドキしてしまう。まあ見えた所であの厚手の黒ストッキングが絶対障壁となって男の子が望むモノを確認する事はここからでは至難の業であろう。

 それで僕が一体何を言いたいかというと、何の事はない『こいつは年齢性別を問わず誰もが一目見れば必ず心を奪われてしまう程美しい』と言う事だけなのだ。

 だから僕は市電が空いている時には、必ず、こいつの美しさを美術館で彫刻を鑑賞するかの様にその全身を眺める事が出来る向かいに座る。


 そうこいつとの出会いは、僕が志望通りの三ッ葵高校に何とか入学して一か月ほど経った五月の連休ゴールデンウィーク明けだった。
しおりを挟む