翼 アフェアーズ

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第1章 出会い

第8話 再び市電の中で

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 翌日、学校に登校した僕は事前に静ちゃんに言われてた通りに、すぐに職員室に静ちゃんを訪ねて事の顛末を報告した。ちなみにプリントの署名は翼の両親が不在だったために、後日、必ず学校まで届けるとの事だった。

「ご苦労さんだったね、暮林ちゃん」

 僕の報告を聞いた静ちゃんは優しい笑顔を浮かべて僕に労いの言葉を掛けた。

「これは先生からのお願いなんだけど……」

 そう言って優しい笑みを浮かべたまま僕にもっと近づく様にと手招きをした。

 僕は静ちゃんの招かれるまま一歩近づいたが、静ちゃんはそんな僕の制服のネクタイを掴んでさらにぐっ自分の方へ引き寄せた。僕の顔は文字通り静ちゃんの目と鼻の先に来ていた。コロンかシャンプーかは分からないけどふわりととても良い香りがした。同時に思春期真っ只中の僕の心臓は爆発しそうな程どきどきし始めた。

 そして静ちゃんはその唇を僕の耳元に近づけてこう言った。

「『如月 翼』の屋敷で見たり聞いたりした事は、
 私の口から皆に話すまで一切他言無用。
 もし、それまでに私以外の誰かしゃべったりしたら、
 君の高校生活は悲惨な事になるよ。
 良いわね?」

 静ちゃんの熱い吐息が耳に掛かるのはたまらなく嬉しかったのに、その言葉は、生徒にフレンドリーないつもの静ちゃんの物とは全く違う、恐ろしいヤクザが脅しを掛ける時の様な低くドスの利いた物だった。

「はい、先生、約束します……」

 僕は頭をぺこぺこ盾に振りながらほとんど反射的に答えていた。

 僕が答えると同時に僕のネクタイを掴んでいた静ちゃんの手が離れた。僕は彼女から逃げる様に一歩後ろに飛び退いた。

 そうして改めて静ちゃんを見ると、彼女はいつものフレンドリーで少しドジっ子の愛すべき担任の静ちゃんに戻っていた。

「じゃあ約束よ、暮林ちゃん!
 素直な暮林ちゃんって先生大好きよぉ~!
 お礼にキスしてあげようかぁ~!」

その静ちゃんはさっきの言葉がまるで嘘の様に、おどけた明るい笑顔で僕にそう言った。

「じゃあ、お言葉に甘えて是非お願いします!」

僕もさっき静ちゃんが口にしたドスの利いた言葉をすっかり忘れ、思わずいつものノリに戻ってそう答えていた。

「でもここじゃ他の先生の目があるからねぇ。
 残念でしたぁ~、暮林ちゃん!」

静ちゃんも、もう完全にいつもの静ちゃんだった。

 ただ、いつもの静ちゃんらしからぬあの言葉は僕の心の奥深くにしっかりと刺さっていた。あの言葉は決して冗談じゃない、『如月 翼』の事に関してはやっぱり僕らが知ってはいけない何らかの『大人の事情』が絡んでいるに違いないと勝手に確信した僕は、その後、静ちゃんが自らその口で話すまで『如月 翼』の事は、学校ではもちろんの事、家でさえも一切口外しなかった。


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「暮林君、あなた今、翼の事、いやらしい事想像しながら見てたでしょ」

 市電の中で本を読む翼の耽美的な美しさに酔いしれながらまるで夢を見る様に翼との出会いを想い出していた僕はそんな毒を含んだ声で一気に現実に引き戻された。

「馬鹿な事言うなよ、東九条!
 翼は男だぞ! 男に欲情する趣味はない!」

 空いていたとは言え、乗客が僕たち以外にも居た車内でまるで痴漢を吊し上げ様とするかの『東九条ひがしくじょう 翠子みどりこ』の言葉に、僕は恥ずかしくなって言い訳がましく言い返した。

 そんな僕を翼が文庫本から顔を上げくすりと笑った。

「翼も笑うな!」

 東九条にああ言われた事より僕は翼に笑われた事の方が恥ずかしく感じてしまうのだった。

 そんな僕を東九条はふんっと半分馬鹿にした様な笑いを浮かべて一瞥した後、自分の鞄から可愛い絵柄の付いたハンディーボトルを取り出し蓋を開けてから隣に座る翼にそっと差し出した。

「緑茶よ、一口飲む、如月君?」

「ありがとう。ちょうど喉が渇いて所なんだ」

 そう言って翼は笑顔で東九条のボトルを受け取ると、そのまま飲み口に口を付けぐっと一口飲んだ。こくりと翼の白い喉が動いた。その動きが妙に艶めかしくて僕の胸がざわざわと変に騒ぎ出した。本当にこの翼ときたら性別は正真正銘の男のはずなのに喉仏もほとんど目立たず女の子の首筋そのままなんだから始末に悪い。

 一口飲んだ翼はそのままボトルを東九条に返し再び手に持った文庫本を読み始めた。

 翼からそのボトルを受け取った東九条は、今しがた翼が口を付けていた飲み口に自分も口を付けてこくりと一口飲むと僕に見せつける様に自分の唇をぺろりと舐めてみせた。そして元通り蓋をして鞄にしまった後、また僕の方を見てまるで勝ち誇った様な笑みをその口元に浮かべた。それを見て僕は何だかすっごく腹立たしい想いにかられたけど何か言い返すのも東九条の思惑通りになりそうで溢れ出る言葉を我慢して黙っていた。その時、僕自身にははっきりとした自覚はなかったけれど後で思い返すとのあの感情は嫉妬に近い物だった様な気がもする。


 『東九条 翠子』は僕と同じクラスの女生徒。艶やかな黒髪を平安貴族の姫君そのままに長く伸ばした通称『お姫様カット』の美しい髪。少し古風な赤いセルフレームの眼鏡を掛けたきりりとした顔立ちと長い手足。そして翼ほど長身ではなくこの年齢の女子としては平均的な身長ながら、翼同様にスレンダーでありながらも適度に抑揚のあって翼とは明らかに違う異性を魅惑するえっちな……もとい、素敵な肢体を持つ美しい女の子だ。

 自分で言っておきながらなんだが、体の抑揚と言う部分に関してはいくら外見からは男と絶対に判別できない程とは言え肉体的な性別は間違いなく男である翼と比較するのは酷って物だろうと、僕はあえて強く主張しておきたい。それに翼だって東九条にはない変な色気だって確かにあるんだ。

 東九条はその外見が美しいだけでなく、大ヶ埼市と名古屋の中間辺りに位置する刈谷市の歴史ある大病院の一人娘と来ては彼女に勝てる女子などこの名門三高と言えどそうは居なかった。さらには入学式で答辞を読む事になっていた翼がまさかの入学式無断欠席をした事で、その代役を入学式当時の朝に校長から突然頼まれたにも関わらず立派にこなしたのが、入試成績も翼に次ぐ次席と言う素晴らしい成績を残していたこの東九条だった。もちろん、東九条の場合、入試だけでなくその後の成績も一貫して非常に素晴らしものだった。

 実は、この東九条が翼に負けず劣らずの『訳アリ』で、ただでさえ翼が居てややこしい事になっていた僕の周辺が、こいつが絡む事でさらにややこしくなっていったのだ。
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