翼 アフェアーズ

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第2章 初登校

第5話 翼と二人で市電

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「本当に狭くてすみません、暮林様。
 もっと広くて安全な場所でしたら、
 そちら側のドアも開けて差し上げられたのですが……」

 シビックのリアシートから這い出る少し無様で恥ずかしい僕の姿を見て、メイドさんは本当に心からすまなさそうな顔をしてそう言った。

「いえいえ、僕は全然大丈夫ですから気にせずに」

 このメイドさんに『暮林様』なんて言われるとホント何だかむず痒くなる。どうせなら『兼光様』って言ってくれたらもっと良いのにって僕は変な妄想をしながら思った。それ程、このメイドさんは僕の好みにドストライクなメイドさんなんだ、悪いか! と僕は誰にともなく心の中で毒づいていた。

「では、いってらっしゃいませ、坊ちゃま。
 帰りはまたお知らせいただければ、ご指定の時間にお迎えに上がります」

 メイドさんは一度居住まいを正してからそう言って翼に頭を下げた。そして再びシビックの運転席にするりと滑り込むと、そのままシビックを走らせ来た道を戻って行った。僕的には、こんな素敵なメイド服を着ているなら、こういう場合、ご主人様に対しては頭を下げるのではなく、やはりスカートを広げ片足を後ろに引いてもう片方の足の膝を軽く曲げるカーテシーと言う西洋風の挨拶をして欲しかった。僕はメイドさんには深いこだわりがあるんだ。ああ、僕もこんなメイドさんが居る暮らしがしたい。


 さすがにこの時間、大ヶ埼駅は市電だけでなくJRや愛知環状鉄道を利用して通勤通学する人で混雑していた。

 いつも傍に居て世話をしてくれるメイドさんが居なくなって、いきなり慣れないこんな人ごみで放り出されて急に心細くなったのだろう。翼はその人の多さに驚き、どうしたら良いか分からなくて戸惑っている様子だった。僕には翼が戸惑いだけでなく、どことなく不安げで今にも泣き出だしそうな表情にも見えた。

 ああ、こいつ、いつもは大人びた感じに見えるのに、こんな時には迷子の子犬みたいになりやがって、もうたまらない。

 そんな翼が急に可愛らしくて、そして愛おしくてたまらなくなった僕は思い切ってそんな翼の手の手を握ると、出来るだけ頼もしく見える様に気を使った男らしい笑みを浮かべて少し声のトーンを落として言った。

「こっちだよ、翼。僕が手を握ってるから大丈夫」

 そう言って握った手を引いて市電のホームの方へ歩き出した。握った翼の手は、思ってたより少しだけ冷たく感じた。でも、すっごく柔らかで木目きめ細かで僕の手の平に吸い付く様だった。そして緊張してるのか少し汗ばんでる様でもあった。

「ありがとう、君は優しいね」

 僕に手を引かれながら翼は安心したのか笑顔を見せてそう言った。ああ、またこの笑顔だよ。ホント、なんでこいつが男なんだよ、って僕は心の中で神様に愚痴を言った。

 きっと事情を知らない人が見れば僕と翼は朝から手を握って一緒に通学するリア充カップルにみえるんだろう。その上、翼が少なくとも外見上は超絶美少女って事もあって、僕は周りの男達からの殺気を含んだ嫉妬の視線を痛い程感じていた。そして女の子達からは、同じ様な視線が翼に向けられている一方、お姫様に憧れる様な羨望の眼差しを向ける女の子も多かった。そんな周りの反応を見てると、僕自身も翼が本当は男だって事を忘れて、こんな誰もが羨む美少女と手を繋いで歩いている事がたまらなく嬉しく、そして誇らしく感じてしまう。そして、このままじゃいつか越えてはイケナイ一線を越えてしまうそうで怖くなった。


 周りから羨望と嫉妬の視線を浴びながら、翼の手を引いて市電のホームにたどり着くとちょうど先発の市電がホームを出て行く所だった。もう少し急いでいればあの市電に飛び乗れたのにって思うとちょっと残念だったが、この時間は5分程度待てばすぐに次の市電が来るのですぐに諦めがついた。それより、ここで翼と手を繋いだまま二人で居られる時間が増えた事の方が僕は嬉しくなった。

 さすがにこの時間のホームは市電に乗って登校する学生が多い。下は教育大学附属の小学生から上は女子短大生までさまざま年代の、そしてさまざまな制服に身を包んだ学生達で、ホームは混雑しながらも何だか弾ける様な明るい雰囲気に満ちていた。その中には当然、僕らと同じ三高の制服を纏った者達もかなり居た。実はこの時、同じクラスの東九条とその取り巻きの女子達や男子達数人も、僕らからはちょっと離れた同じホームで市電を待っていた。でもその時の僕は、手を握る翼の事だけに夢中になっていてまったく東九条達の事には気が付かなかった。


 やがて次の市電がゆっくりと僕らの待つホームに入って来た。この市電、乗降客は圧倒的にこの大ヶ埼駅前が多いのだが出発駅はここではなく四つ先の福大町駅である。その為、ここで降りる人も沢山いて車内は一気に空いたのだが、残念ながら社内左右に向かい合う様にしてある座席はすべて満席になっていた。

 僕は翼の手を握ったまま、後ろの乗降専用口から車内に乗り込んだ。今の翼に整理券を取る心の余裕などないと思っていた僕は、迷わず発券機から二枚の整理券を続けさまに引き抜いてポケットに入れた。もちろん、僕のこの判断は結果的に正しかった。

 この市電に何とか乗り込もうとする乗客の大波に押される様にして僕と翼は市電の前の方へと押し込まれて行った。その人波の揉まれて翼と離れ離れにならない様に、僕は片手で翼の男にしては凄く細い腰をしっかりと抱き寄せていた。気が付くと僕は運転手さんの後ろに設けられた料金表がある仕切り板を背に翼と向き合う様な形になって押し付けられていた。

 翼は女の子としてみればかなり背の高い方だけれど、男の子として平均的身長の僕と比べればほとんど同じくらいになる。だから、後ろからぎゅうぎゅうに押し付けられた翼の顔が僕と鼻先がくっつきそうなほど近くにあった。息を吸うと、メイドさんのシビックの中で嗅いだあの甘いシャンプーの香りがより強く感じられた。さらには、ひょっとすると初体験かもしれない満員電車に緊張しているのか少し荒くなっている翼の吐息が僕の唇に当たって妙に艶めかしく暖かだったのを僕は鮮明に覚えている。
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