翼 アフェアーズ

文字の大きさ
上 下
25 / 100
第3章 最初の一日

第1話 危険なトイレ事情

しおりを挟む
 僕らの日常に、翼と言う今までずっと欠けていたピースが突然はまった。その事で僕らの穏やかな、でも少しだけ退屈だった毎日は少しづつ変わっていった。

 それが起こったのは意外に早く、翼が登校し始めた初日の第三時時限目が終わってすぐの事だった。

 二時限目の後の休み時間は、一時限目の後ほどうるさくはなくなる事はなかった。それでも翼は、彼に興味津々の生徒たちに囲まれて席から身動きが取れずに終わっていた。そして、だからこそ、翼は次の休みこそ、彼らに囲まれる前に絶対にせねばならぬ事が出来てしまったのだ。案の定、三時限目の授業が終わると、また他の生徒に囲まれる前に翼はすくっと席を立ち、僕の傍らに駆け寄って来た。そして僕の耳元に唇を寄せて小さく囁いた。

「兼光……トレイってどこ?」

 僕だって、普通の男にこんな事をされれば、気持ち悪くてすぐに張り倒してやるところだ。しかし、相手が翼だと耳にかかる吐息と共に、その言葉が妙になまめかしく思えてしまう。僕はまたまた体の一部がむずむずしてしまった。

 そう翼は朝、家を出てからいろいろバタバタしていて一度もトイレに行けずに今まで来てしまっていたのだ。つまりこの時、翼はかなり切羽詰まった状態に追い詰められていたのだ。

「こっちだよ、おいで、翼」

 その事に気づいた僕はすぐに席から立ち上がり、翼の手を引いて教室飛び出した。僕らの背後で他の生徒たちが、手に手を取って教室を駆け出した僕と翼を見て口々に何か言っていた。けれど今は、そんな事に構っている余裕、僕らにはなかった。

 一番近いトイレは階段と隣の教室との間にあった。

「ここだよ、早く行っておいで」

 僕はトイレの前まで翼の手を引いて駆けて来ると、振り返り翼を見ながら笑顔でそう言って翼の手を放した。実を言うと僕自身も当然。小さい方だけど結構溜まっていた。なので僕は翼の手を放すと、そのまま男子トイレに駆け込んだ。そしていざ溜まりに溜まった液体を放出しようとジッパーに手を掛けた。


 その時だった。

「うわっ、何で女の子がここに居るんだ!」

 隣で溜まった液体を放出して解放感に浸りかかっていた隣のクラスの男子が素っ頓狂な声を上げた。その声に僕が隣を見るとそこには翼が居た。翼は今まさに両手をスカートの中に入れ、厚手の黒いパンストと一緒に男物のボクサーパンツ……こっちは僕自身は確認してはいないが翼は朝そう言っていた……をずり下しそうになっていた。そして、その後ろで順番待ちをしていた男子たちも、唖然とした表情で翼を見詰めていた。

 そうなのだ、翼はその姿こそ東九条も負けない絶世の美少女だが、その中身は身も心も正真正銘の男なのだ。僕もその事は頭でわかっていた。でもこの時はその姿に引きずられ、翼は当然、女子用のトイレを使うと頭から思い込んでいたのだ。しかし、自分自身でも『正真正銘の男』であると言い切る翼が、女子トイレを使うなんてことはありえなかった。実際、翼は僕が手を放した後も、僕の後をとことこと付いて男子トイレに入って来ていたのだ。それなのに僕は自分自身の用を足すことに夢中でそんな翼に全然気づかずにいたのだ。


 僕はその一瞬、戸惑った。

 翼が家庭の事情で男の娘をやっている事は、すでに各担任を通して学校中の生徒に告知されているはずである。ならば、その姿から多少奇異に映っても、翼が男子トイレをこうして使うのは何ら問題ない。それに他の生徒にも、翼と言う特殊な存在に慣れてもらう必要があるとまず思った。

 でもその時、最初は唖然とした表情を浮かべていた順番待ちや使用中の野郎どもの顔に、にやにやといやらしい笑いが浮かんで来るのに僕は気が付いた。それを見た僕は、すぐにそんな悠長な事は言ってられないって気持ちに変わった。他の男どものいやらしい視線にまみれながら、翼に用を足させるなんて事、学校での翼の保護者たる僕には絶対に出来ない。

「翼、君はこっち!」

 僕は用を足そうと出していたモノを慌ててしまって、今まさに黒パンストとパンツを一緒にずり下げる直前だった翼の手を引いて小用便器の前から離れさせた。

「えっ、何するんだよ、兼光!」

 翼は驚いて声を上げた。でも僕は、そのまま何も言わず空いていた個室のドアを開け、翼を中に押し込みながら小声で言った。

「君はこっちだ」

「だって兼光、僕、おしっこだよ」

 そんな僕に、翼は困った様な顔でそう言った。

「少なくとも学校内では、大きい方も小さい方も個室ですること。
 良いね?」

「どうして?」

「どうしても。しいて言うなら間違いが起こってからじゃ遅いから」

 一度は意味が分からず聞き返した翼だったが、僕がそう言うと、自分自身でも何か思い当たることがあったのだろう、はっとした表情になった。

「分かったよ、兼光。
 君の言う通りにする。
 その代わり、終わるまで外で待っててね」

 そう言って翼は僕を上目遣いに見ながら、その頬を少し赤らた。そして、またあの素敵な笑みを浮かべると、静かに個室の扉を閉めた。

 かちっと言うカギのかかる金属音と共に表示が『使用中』を表す赤に変わったのを確認して、僕は自身の用を足そうと振り返った。するとそこには、あからさまに僕への不満や抗議の意思をありありと示した表情をした男どもがこっちを睨んでいた。

 へんっ! ざまぁみろ! 翼の下着やら恥ずかしい場面をおまえらに鑑賞させる程、僕はお人よしじゃねぇぞ!

 本当は大声でそう叫んでやりたかった。でも、ただでさえ翼の彼氏と思われ、男どもに敵愾心を燃やされている立場の僕である。その僕がここでそんな事をしたところで、それは問題をより深刻化させるだけで何も良い事は起こらないのは明白だった。なので僕はぐっと我慢して、その言葉を心の中で叫ぶだけに留めた。


 結局、僕はトイレに居た男どもの嫉妬と抗議の鋭い視線に晒されながら翼が用を足すのを待った。そして用を足した翼を連れて教室に戻って来た。教室に帰ったら、たぶん先に用を済ませたクラスメイト男子の誰かが話したのだろう、早くも先ほどのトイレでの一件が教室中に広まっていた。いずれ必ず起こる事なので僕はあまりに気にしていなかった。それに翼自身もこう言う事には慣れているのか同じ様に笑って聞き流していた。幸い、教室の生徒達も特に問題視すること無く、そう言う事もあるんだという様な軽い笑い話程度の事で済ませてくれた。
しおりを挟む