翼 アフェアーズ

柴川まる

文字の大きさ
上 下
41 / 100
第4章 初めての体育

第8話 翼に関する噂話

しおりを挟む
 こうして翼にとって三高では初めての体育の授業も無事終わった。確かに翼自身にとっては大した問題もなく無事に終わったかもしれない。しかしそれは、周りの者にとっては凄まじい衝撃となった。なんせ、見るからに女の子そのままと言う華奢な翼が、あのバスケ部レギュラーの峰岸に競り勝ったのだ。そして、この事が切っ掛けになり、周りの者達の翼に対する評価が大きく変わることになった。


 この頃になると、周りの者たちも異質な存在である翼が居る事にかなり慣れて来た。実際、登校初日こそ、多少のトラブル的なものはあったが、その後は意外にも特に大きな問題は起きていなかった。

 大きな問題こそなかったが、僕は、翼が学校に慣れて来るにしたがって翼の雰囲気がちょっと変わった様な気がしていた。前にも言ったが、お屋敷で初めて会って以来、久々に会った翼は少しおどおどしていてまるで初めて家に連れてこられた子猫の様に可愛かった。でも最近では少しづつ、あのお屋敷で初めて会った時の様に、落ち着いた年上の女の人の様な雰囲気が出始めて来たのだ。

 それを見て僕は、やはり翼本来の姿はあのお屋敷で見た大人びた感じの方ではないかと思った。そして人一倍人見知りの激しい性分が、普段は心理の奥に隠されている可愛いらしい一面を表に染み出させるのだと考えた。

 僕が最初に感じた違和感はこうして僕の中では解消した。しかし、また翼に関して新たな違和感が一つ表に現れて来た。そしてこちらの方は、僕はだけでなく、僕以外の生徒も僕と同じだった。それは翼が登校を始める前からあった『如月 翼』に対するイメージと、その実状との大きな相違が原因だった。


 少々話は多少前後する。

 僕がその事に最初に気が付いたのは意外に早く、翼が初登校した翌日の三時限目だった。

 この日の三時限目は世界史。しかも、この授業の担当はかなりのベテランと言うか定年間近と言うかなりお歳を召した方だった。この先生自身はとっても良い先生ではある。しかし、その歳の所為で声がやや細く、授業のテンポが単調な嫌いがあった。その為、油断すると僕に限らずほとんどの生徒が、先生の声がちょうど良い子守歌になって眠りに落ちてしまう事が多々あった。でもこの時は、まだ三時限目、育ち盛りの僕達は空腹感も増してくる時間である。その為、いやでも眼が冴え、眠りと戦う様な生徒はほとんど居なかった。

 一人を除いては……。


 僕が何気なく隣の席を見ると、そこに座る翼の頭がこくこくと上下にゆっくり揺れているのが見えた。それに気が付いた僕は先生が黒板の方を向いた瞬間を狙って、隣へ身を乗り出し翼の華奢な肩をつんつんと突いた。

 その瞬間、翼は、はっとした表情になって左右を見回した。僕は翼と目が合ったのを確認してから首を小さく左右に振って見せた。もちろん、それは翼に、寝てちゃダメだよって事を伝える為だった。翼もそれに気が付いたのか、バツの悪そうな笑みを僕に見せて答えた。

 その時、僕は気が付いたのだ。

 そう言えば昨日の翼も、さすがに登校初日とあって今みたいに居眠りを始める様な事はなかった。それでも翼は、決して授業を真剣に聞いていると言う感じではなかった。もちろん、僕だっていくら翼の事が気になっても、授業中はそうそう翼の事ばかりは見て居られない。だから翼がずっとそうだったとは言い切れない。でも、少なくとも僕が翼を見た時はいつも、手持無沙汰な様子で頬杖をつき窓の外をぼんやり眺めていた気がするのだ。

 そう思って、この日はこの三時限目以降、僕は授業中なるべく翼の様子を観察することにした。すると翼はいつも、つまらなそうに窓の外を見ているか、あるいはさっきの様にこくこくと船を漕いでいたのだ。さらにランチタイムが終わったお昼の五時限目、六時限目となると、机に上に突っ伏して気持ち良さそうに眠っている事がほとんどだった。ひどい時など僕が見かねて、肩を軽く叩いても目を覚まさないほど熟睡してる時もあった程だ。

 ただ、不思議だったのがどの先生もそんな翼を見ても何のお咎めもしなかったのだ。そう、日ごろはこう言う生徒を見つけると、即座にチョークをレーザービームの如く正確無比に投げて来る事で有名な先生さえもだ。この時、僕は、下手に注意してまた不登校になっても面倒なので、先生同士申し合わせて今は大目に見ているのだろうと考え納得していた。

 ほどなくしてこの翼の不真面目な授業態度は、翼の近くに居た生徒から伝播してクラス中の生徒の知ることになる。そうなると当然のことながら、無理ゲー並みの難易度を誇る三高の入学試験で翼が主席合格したと言う話に疑い始める者も出て来た。そんな中、体育で見せた翼の目を見張るばかりの運動能力の噂が一気に広がった。この事で、翼は入試で主席を取る様な驚異の秀才ではなく、驚異の才能を持つスポーツ特待生の間違いだったのではないかという説が流れ始めた。そして、いつの間にか翼の主席合格の話は『都市伝説』と化していった。

 しかし翼自身は、自分に対するこんな噂話にはまったく気にも留めてない様だった。そこで、ある日の放課後、僕は気になってその事を直接、翼に尋ねてみた。

「さあ、どうなんだろうね?
 良く分からない内に爺さんに試験を受けさせられてたからね。
 その後も合格したから春からこの学校へ通えって爺さんが……」

 翼は自販機で買った紙コップのカフェオレに口をつけながら、まるで他人事の様に笑いながら答えた。

 この時の僕と翼に会話が一気に広がって、翼はやはり秀才なんかじゃなく、スポーツ万能な愛すべき男の娘って評価が決定的になった。

 ただ翼が事前の噂の様に稀代の秀才ではないという話が広がっても、翼の人気は陰る事はまったくなかった。もともと翼は黙っていれば東九条とタメを張れるほど、きりりりとした知的な美少女。東九条は、容姿端麗、かつ家柄も良く、その上に頭が良いとあって、あまりに完璧すぎてとっつきにくい。一方、翼の方は、秀才ではなくスポーツ特待生で三高に入って来た男の娘となれば親密感が沸く様で、逆に翼の人気に拍車をかける事となった。

 さらに翼の場合、見方を変えれば絶世の美男子とも言えるわけである。そこに気が付いた女子からも人気が高くなってゆく。もともと男子には美少女として人気が高い。さらには、上級生受けも良い。そんなこんなで翼は短期間の内に東九条の立場を脅かす様な『三高のアイドル』となっていった。
しおりを挟む