翼 アフェアーズ

文字の大きさ
上 下
51 / 100
第6章 波乱の期末試験

第1話 ビートホーベンって?

しおりを挟む
 月替わりのカレンダーはまた一枚減って七月になった。それでもまだ、じめじめとうっとおしい梅雨がまだ続いていた。

 昔は三高でも衣替えの日がきちんと決められていたらしい。しかし、今では気候に合わせそれぞれの生徒が自主性行う様になっている。それでも、六月の中旬を過ぎるとほとんどの生徒が夏服へと衣替えを終える。

 翼も六月の終わりにはブレザーを脱いで夏服になった。上が半袖の白いブラウスだけになると、薄っすらブラが透けて見える時がある。翼がパッド入のブラを付けてるのは知ってたけど、こうして実際に目にするとやっぱり妙に生々しくてドキドキした。それに、ブラウス一枚の翼の背中は華奢でとても男のものとは思えないからなおさらだ。ただ、期待していた生足は空振りに終わった。衣替えが終わっても翼は黒いストッキングは脱がなかった。いや正確に言えば、さすがにこの蒸し暑さで黒パンストは脱いだのだ。そして、黒パンストから薄手の黒ニーハイソックスに履き替えた。しかし、翼は夏用スカートでも膝下まであるから、見ただけでは判別がつかないのだ。これも例によって翼がそう言ったから分かっただけで、実際、僕がこの目で見て確認したわけではない。ニーハイの上に存在する翼の真っ白な絶対領域をちらりとでも見られたら僕はどれだけ幸せな気分になれるのだろうと最近は良く思う。

 そんな僕にとっては毎日がご褒美の様な翼の夏服を楽しんでいられるのもつかの間、三高では七月一日から期末テストが始まる。三高では一学期中に中間と期末との二回定期テストがある。このテスト、入試に負けず劣らず、平均点が60点に満たない事が日常茶飯事と言う無理ゲー並みの難易度を誇る。

 そして、五月の連休明けにあった中間テストを華麗にスルーしていた翼にとってはこれが公式定期テストデビュー戦となる。もっとも、最近では翼はもっぱらスポーツ特待生と言う噂が定着して、この期末テストに関しては誰も翼の成績に注目する者は居なかった。


 ただ、このテスト期間中に、僕が後々までよく覚えている面白い出来事があった。

 それは英語のテストの後の事だった。

 「おい、ビートホーベンって誰だ?」

 監督をやっていた静ちゃんが回収したテストを小脇に抱えて教室を出て行くなり時田が声を上げた。

「いや、ビーツホーベンだろ。
 たぶん、耳が聞こえないとかあったんでヘレン=ケラー的な人じゃね?」

 時田の隣の席に居た奴が答えた。

 そう、今回の長文読解は非常に難問だった。複雑な構造の文章で、なおかつ授業でも習わない難しい単語が山の様に出て来ていた。僕自身、彼らの言ってるビーツなんチャラと言う人が耳が聞こえなくてもピアノを弾いてどうのこうのっていう事しか分からなかった。推測で、僕も耳が聞こえなくなった人がピアノのコンクールで成功したって話だろうって事ぐらいしか理解できなった。

「俺もたぶん、そう言うハンディキャップのある人の成功談だと思った」

「これって福祉関係の有名人の話じゃないの」

 誰もが同じことを思っていたのだろう、すぐに教室中のそこかしこで謎の人物ビーツなんチャラの話題で持ちきりになった。

 その時だった。翼がぼそりと呟いたのだ。

「ベートーベン……」

「えっ……?」

 僕は翼のその呟きの意味がすぐには分からなかった。

 そこへ東九条が声を上げた。

「何、馬鹿な事言ってるのよ。
 あれはベートーベンの良く知られてる逸話が英文で書かれているだけでしょ。
 内容がベートーベンの事だって分かれば、
 あとは単語が多少わからなくても問題は類推で何とか解けるレベルよ」

 僕は、東九条の説明を聞いて、思わず隣に居た翼を見た。

「確かに、本文の方は文章が固くて回りくどくい上に、
 難しい言葉も多くてとっても読みにくい文章だったね。
 でも問題の方は、すごく簡単な英文で、
 ベートーベンの逸話を知っていれば本文は読まなくても、
 ほとんど答えれるものだったね」

 翼は僕を見て、にやにや何か嬉しそうに笑いながらそう言った。

 そうなのだ。一見、すごく難解な問題に見えた。しかしただ一点『Beethoven』と言う単語が正しく『ベートーベン』の事である事さえ理解出来ていれば、後の問題は彼の有名すぎる逸話から類推でほとんど答えられるものだったのだ。これは一見難問に見えるが、その実、機転が利けば非常に簡単な問題と言う洒落の効いたひっかけ問題だった。

 しかも翼はあの東九条と同じく、この高度なひっかけ問題の肝をちゃんと見つけていたのだ。でも、その時の僕は、翼が帰国子女だからやはり英語は得意なんだろう程度にしか思っていなかった。


 まあ、他にはこれと言って大きな出来事もなくほぼ一週間に渡った期末テストは無事終わった。僕自身、前回の中間テスト同様かなり苦戦したが、たぶん成績は前回と同じくらいだろうと言う手ごたえはあった。一方、翼の方は三高で初めてのテストなのにほとんど興味はなさそうだった。テストが終わっても他の生徒の様に自分の回答の答え合わせをする気配もなかった。ただ淡々とテストを受け、いつもの様に僕と帰宅するだけだった。


 その後、平穏な数日が過ぎた後、例によって授業でテストが採点されて返される最初の日がやって来た。天に片手を高々と挙げ歓喜の雄叫びを上げる者。うつむき言葉を失う者。ただただ天を仰ぐ者。それぞれ他人から見ても何かしらの感情を表す。県下でも進学校としてその名をとどろかす三高の生徒なら誰しもテストの成績が気になるのは当たり前の話だ。

 ところがである、翼は先生からテストを受け取るとそのテスト用紙を見るでもなく二つ折りにしてしまった。そして席に帰るなりそのテスト用紙を机の下に無造作に突っ込んで、後はいつもの様に机に突っ伏して居眠りを始めてしまった。これは、この時だけでなく、その後、どのテストが帰って来た時も翼は毎回こんな感じだった。僕もこの時にはすでに、翼はスポーツ特待生で勉強の方はダメらしいと思い込んでいた。だから翼は、テストの成績がすでに良くないのが分かって、それをあえて見るのが嫌でこうした態度を取っているんだろうと思った。

 事実、一部の先生は翼がテストを受け取る時に、一瞬何か言おうとして結局はその言葉を飲む様な仕草をしていた。僕は、それはたぶん翼に何か言葉を掛けて慰めようとしたが、翼がすぐにくるりと背を向けてしまったので言いあぐねてしまったのだろうと勝手に思っていた。
しおりを挟む