翼 アフェアーズ

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第6章 波乱の期末試験

第3話 異次元の得点

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「はいはい、どいてどいて!
 ちょっと通して!」

 突然、一般教室棟とは逆の方からぱたぱたとスリッパで駆ける足音と声がした。

 その声の方を見ると、この三高の保険医である宇野先生が白衣を翻しながらこちらへ駆けて来るところだった。その後ろをベージュのリボンを胸に付けた二年生の女子生徒が付いて来ていた。どうやら、この生徒が東九条の異変を見て宇野先生を呼びに行ったらしい。

 宇野先生は、すぐに東九条の前に膝をついて彼女の目をじっと見て、その状態を観察しながら声を掛けた。

「東九条さん、ここがどこか分かる?
 私が誰か分かる?」

 宇野先生の顔が目の前に現れた瞬間、東九条はまた反射的に『ひっ!』と小さな悲鳴を上げた。しかし、相手が宇野先生であると分かったのか、急に落ち着いて小さな声で呟くように答えた。

「宇野先生? 私、いったどうして……」

「とりあえず、一度保健室へ行きましょう。
 そこで少し落ち着くまで休みなさい。
 先生たちには私から事情を説明しておくから」

 宇野先生はすごく優しい、そう、まるで母親が我が子を見る時の様な優しい笑みを浮かべて東九条にそう言った。

「立てる?」

 そう尋ねて宇野先生は東九条に手を差し出した。すると東九条は小さくうなずいた後、その手を取った。宇野先生は東九条の手を握ったままゆっくり立ち上がると、東九条もその手に引かれる様に立ち上がった。

「宇野先生……」

 傍に居た翼が心配そうに声を掛けた。

「大丈夫よ、如月君。後は私に任せて……」

 宇野先生は、優しい笑みをその口元に湛えたままそう言うと、東九条の肩をそっと抱いて保健室の方へ戻って行った。もちろん侍女三人組も二人の後をぞろぞろと付いて歩いて行った。


 東九条が宇野先生に連れられて保健室へ行っても、まだここに居た生徒は落ち着かずざわざわしていた。

「さて、これ以上ここに居てもどうしようもないから、
 教室へ戻ろうか、兼光」

 東九条を宇野先生が連れて行くのを目で追っていた翼が僕を見てそう言った。

「うん、そうだね」

 僕はそう答えて、一般教室棟の方へ向かおうと歩き始めた。

 周りは『バラの女王』の地位を争うライバル同士で一触即発なんて思っている者も多い。でも僕にはこの二人、妙に波長が合っている様な気がすることが多々ある。それは僕にとって少し妬ましく思えるほどだった。今日も、平常心を失なっていた東九条を見て翼は本当に心配していた事が、傍で見ていた僕には良く分かっていた。

 ……って待てよ。あのいつだって沈着冷静『氷の女帝』とも呼ばれる東九条はどうして、あんな場所で呆けていたんだ? しかも、翼を見た時のあの異常な反応は何だ? いや、その前に僕らは何のために職員室の前まで来たんだ?

 教室に戻ろうとして一歩踏み出した僕の頭に、無数の泡の様な疑問の数々が弾けた。

「待って! 翼」

 僕は翼にそう言うと、慌てて踵を返して、貼りだされた成績表の前に駆け寄った。

 そうなのだ。僕らはこの期末テストの成績順位表を確認しに来たんだった!

「えっ……えええっ! あっ? あああああっ!」

 僕はその成績表を見た途端、素っ頓狂な叫びをあげてしまった。


 そこには信じられない事が起きていた。

 表の左の列の最上段、つまり学年一位の場所には東九条の名はなかった。東九条の名はその下、二位の欄にあった。

 では、その栄光ある学年トップの座には『如月 翼』と言う名前があった。

 しかも、それだけではない。

 名前の横に書かれた主要八教科の総合得点は今まで誰も見た事のない数字が書かれていた。

 『800点』……これは全教科100点、つまり満点を意味していた。

 ちなみに、表の冒頭に書かれていた平均点は483点である。さらに言えば、東九条の点数でさえ『672点』だった。その次の三位に至っては『598点』。通常なら余裕で東九条がトップを取っていたはずの点だった。その東九条をぶっちぎりで抜いて翼が一位に輝いていた。いやぶっちぎりなんてものじゃない。三高生徒なら誰だって分かる。三高の定期テストで例え一科目だけでも満点が取れる事などありえない事なのだ。それは西の空から陽が登ると同じくらいの事なのだ。それを主要八教科全部でやってのけるなどとは今まで誰一人想像だにしたことがない。

 僕は思わず、翼を見た。翼はそんな僕を少し小首を傾げて不思議そうな顔で見返した。ああ、こんな非常事態なのに、こいつのこんな表情と仕草、たまらなく可愛い。僕の顔は思わずとろけそうになった。その変化が翼にも分かったのだろう、翼はさらに不思議そうに、首の傾きを深めた。

「つ、翼、あれって……?」

 僕は翼にそう尋ねた。

「うん、なかなか面白いテストだったね。
 僕も数か所引っかかりそうになった問題もあったよ。
 さすが三高の先生方、思考回路が非常にユニークだ。
 しかし、東九条さんは凄いね。
 あのテストであれだけの点を取れれば、
 日本国内ならどこでも希望する大学に入る事が出来ると思うよ」

 翼はまるであの期末テストが他人事、いや、受験する側ではなく作って採点する側の様な事を答えた。

「その辺りは彼女自身も分かっていたが故にショックだったんだろうね。
 僕もつい面白くなって、大人げなくも真剣にテストを受けてしまった。
 彼女にはすごくすまない事をしてしまったとすごく反省しているんだよ」

 そして少しその顔を曇らせて翼は、宇野先生に連れられて東九条が向かった方向を見ながらそう続けた。


 待て、翼。今、君は何て言った。

 『真剣にテストを受けてしまった』って言ったよね。

 それって裏を返せば、本来ならあの期末テストは適当に答えておくべきものだったと言う事だよね。

 特に最後の所、本来なら手抜きをして東九条に花を持たせるべきだったって事じゃないか。


 僕は心の中でそう叫んでいた。この翼の言葉から、分かる事。それは翼自身、僕らがすごく難しいと感じているこの三高期末テストを、遊び感覚で解けてしまう程度の物と認識している事だ。そして、自分がすでに僕らとはまったく違う次元に立っている事までも自覚している。しかも、それがただ単に自意識過剰の『かわいそうな子』でない事は、その異次元ともいえるテストの得点が明確に証明している。
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