翼 アフェアーズ

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第6章 波乱の期末試験

第5話 東九条の帰還

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 結局、東九条は四時限目が始まってもまだ教室に帰って来なかった。

 僕は、東九条が居ない教室と言うのがすごく珍しく、かつ新鮮だった。何故なら東九条はまだ一度として授業を、病欠や遅刻はもちろん、ましてやサボりなどしたことはなかったからだ。しかし、だからと言って僕はそんな状況を面白がるような真似は出来なかった。はっきり言って僕は東九条と言う女の子が苦手ではある。それでもやはり僕は東九条の事が心配だった。いや、僕だけではない。クラスの者すべてがそうだった。もちろん、と言うかその中でも翼は特に、あの侍女三人組匹敵するほど東九条の事を気にかけている様だった。


 その東九条は、四時間目が終わると同時にひょこりと教室に帰って来た。

 宇野先生に連れられて保健室へ行く時の東九条は、立っているのがやっとな程、肉体的にも精神的にもへろへろだった。僕らがそんな東九条見るのは初めてだった。いや、そんな東九条を想像する事すら出来なかった。もちろん、ごく一部のマニアックな趣味の人は別にしてだ。

 それが今、教室に入って来た東九条は何事もなかったかの様にいつもの強く凛とした東九条だった。ただ少々不機嫌そうな顔をしている様に見えた。まあ、東九条が不機嫌そうなのは何も今日に限った事ではなく日常茶飯事である。

 教室に入って来た東九条に気が付いて、さっそく例の侍女三人組が駆け寄って来た。

「姫、もう大丈夫なの?」

「今日はこのまま帰った方が良いんじゃない?」

「何か飲み物でも買って来ようか?」

 口々に彼女を心配する声を掛けて来た三人組を東九条は無言のまま片手で制した。そして、クラス中の視線が彼女に集中する中、つかつかと僕が居る方へ歩いて来た。もちろん、東九条の目的が僕ではない事は明白だった。僕は、ここで女同士の戦いキャットファイト……いや、正確に言えば女同士でではないが……が始まるのではないかと期待した。いや違う、そんな事態を恐れ、もしもの時は身を挺して翼を守ろうと身構えた。


「東九条、落ち着け。
 この件に関しては翼は何も悪い事はしていない。
 逆に君の事をすごく心配してたんだ」

 東九条は、自分の席に座っていた翼のすぐ前まで来て恐ろしいほど真剣な表情で翼を見降ろしていた。そんな東九条を見て、僕は思わず口を開いていた。

 しかし、意外にも当の翼がそんな僕を制する様に言った。

「兼光、君の方が落ち着き給え。
 大丈夫、東九条さんは十分冷静だよ」

 そう言って僕を安心させる様に微笑んだ後、翼は東九条を見上げて尋ねた。

「そうだよね、東九条さん」

 その言葉に東九条は黙って頷いた。

「君は凄く優秀な人だ。
 ただ思考が固すぎるきらいがある。
 数学、第三問、君は間違えてるね。
 実に惜しい所まで行きながら問題作成者の罠に掛かった。
 違うかな?」

 翼は東九条を見上げて、まるで姉が妹に語り掛ける様な優しい笑みを浮かべながらそう言った。

「何で、そんな事、あなたが分かるの?
 私は自分のテスト用紙を先生以外には誰にも見せてないのに。
 まさか、あなた、先生から私のテストを……」

 東九条の顔に、一瞬明らかな動揺の色が浮かんだ。

「まさか! いくら僕が相手でも先生達はそんなことしないよ。
 でも、僕には分かる。
 君が取った八教科の総合得点を見れば君の思考が読み取れる。
 特にあれほど優秀な得点を得る事が出来る者なら、
 不勉強で答えられない問題、ましてやイージーなケアレスミスはない。
 そうなれば得点を失う箇所はおのずと絞られる。
 そこから、逆採点を行って総合得点を出したら、
 発表されてた総合得点にほぼ近いものがだったからね。
 それで自分の推理が間違っていないと確信したんだよ」

 翼の言葉に、東九条はもちろん、教室中の生徒が耳を澄ませて翼の話に聞き入っていた。


 な、何だって。翼、君の言っている事は何なんだ。

 僕らは自分のテストの解答がどうだったかだけで頭がいっぱいだった。

 それが君は、その設問からその設問を作った者の意図を完全に理解して、どんな考え方をすればどう言う解答を導き出すかまで推理していたと言うのかい?

 しかも、この一か月少々で東九条の思考パターンをほぼ完ぺきに掴んでいたと。


「分かったわ。やっぱりそう言う事なのね」

 クラスに居たほとんどの者が翼の言っている事が正確に理解できてはいなかった。ただ周りの者は東九条が明らかな上から目線でこれだけの事を言われて黙っているわけがないとだけは確信していた。それ故、この場に居た者ほとんどすべてが、東九条の反撃を期待して身構えていた。

 ところが、当の本人である東九条には何か、翼の話を信じそして納得できるものがあったのだろう。しごく冷静かつ落ち着いた様子でそう答えると、ポケットからスマホを取り出して続けた。

「如月君、あなたの携帯番号とかメアドを教えて。
 あなたとは是非一度、ゆっくりお話がしたいわ」

「ああ、構わないよ、東九条さん。
 是非、連絡をくれたまえ。
 僕も君とは一度ゆっくり話してみたいと思っていたんだ」

 そう言って翼も自分のスマホをポケットから取り出した。

 そして二人はお互いのメアドや携帯番号を交換した。今まで、翼の個人的な連絡先を知っている生徒は僕一人だけだったので、その光景を見て僕はちょっと嫉妬を覚えた。そして、漠然とした不安も感じた。翼にとって僕だけが特別な一人と思っていたのに、なんだかその神聖な立場を東九条に脅かされそうな気がしたのだ。

 三時限目からは、東九条は何事もなかったかの様に授業を受けた。事が事だけに、クラスの者は皆、そしてあの侍女三人組さえも、朝の出来事に関しては東九条の前では触れようとはしなかった。もちろん、東九条の方も翼と積極的に絡んでくることはなかった。それも、二人とも無視するとかいう悪い形ではなく、昨日までの状態に戻ったという方が正しい。

 その後、数日は、あの事件がなかったかの様にまったくいつも通りの毎日が続いた。一旦は他の生徒の翼を見る目に少し怯えの感情が見て取れることもあった。しかし、それも、当の翼や東九条が今まで通り変わらなかった事もあって、すぐに元に戻った。


 ところがである。

 一週間が経っても何もなく平穏無事に過ぎ、僕自身も、あの事件の事をほとんど夢の中の出来事だったかの様に思い始めた頃の事だった。

 東九条の態度が誰の目から見ても明らかに変わり始めたのだ。
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