すいれん

右川史也

文字の大きさ
9 / 29
第一節 雨が多いきせつ

第9話 六月のとある木曜日 -その3-

しおりを挟む
 恭子は上司に事情を話し、少し早く帰宅させてもらった。
 自宅近くに着いたのは夜の七時を少し回った頃。段々と日が長くなっているのか、この時間でも十分に辺りを見渡せるほどに明るい。そのため、公園の入り口手前からでもすぐに見つける事ができた。

「明日香」

 声をかけると相手もベンチから立ち上がり、恭子の方へと駆けてくる。

「ごめん、お姉ちゃん。ありがとう」

 そう言った妹の明日香は、安堵したような弱々しい笑みを浮かべていた。

 歩き始めて間もなく、恭子は言った。

「今朝もボーっとしてたんでしょ? 昨日からだけど……どうしたの?」
「うん……」

 少し待ったが、妹の口はそれ以上、言葉を紡がなかった。

「まあ、良いわ」

 二人並んで歩くなんてそう珍しくはない。だけど、心ここに非ずな妹は見るのはとても稀なことだった。

 玄関の扉を開けると、妹は短い廊下を小走り気味に奥へと進んでいった。

「すぐに準備するから、先にお風呂入って」

 恭子は妹と二人で暮らしている。
 二人暮らしには少しだけ手狭なアパート。だが、自他共に認めるほど姉妹仲が良く、不満を持った事は全くと言って良いほど無い。むしろ、旅行代理店に勤める恭子に代わって家事全般をしてくれている妹には日々感謝しているし、毎日顔を合わせるからいらぬ心配をしなくて済む、とさえ思っていた。

「それじゃあ、いただきます」

 風呂から上がり恭子は食卓に着いた。すると、向かいに座る妹の前には食事が並んでいない事にすぐに気付く。

「明日香は食べないの? 何処かで食べてきた?」

 何気ない家族の会話。先に食事を取ったとしても何も問題無い。むしろ、自分は食べないのに食事を用意してくれて、普段から――旅行シーズンなど残業で遅く帰る事が多い時期でも食事の時間が合わないのに付き合ってくれている妹には、申し訳なさもあった。
 そして心配している。

「うん――コンビニで……」
「そっか」

 少しだけ期待した。それを気取られないように普段通りに応える。

 妹に友達が少ない事は知っている。夕飯を共に過ごすような友人が大学いない事も。だから、
「あのね、お姉ちゃん――」
 と、妹の口から、今日大学であった出来事を聞いた時には少しだけ嬉しくなり、少しだけ心配にもなった。

「――それで何貰ったの?」
「おにぎり三つとサンドイッチ三つ」
「それ全部食べたの?」

 予想より少々多めの量に論点がずれそうになる。

「すぐに全部食べたわけじゃないよ。その人がいなくなってから半分くらい食べて、お姉ちゃんを待つ間、近くの公園で半分食べた」
「夜の公園で一人でコンビニのおにぎりとサンドイッチって――なんだか惨めね」

 冗談めいて言ったつもりだったが、妹の寂しげなを想像したら胸が苦しくなった。だけど、
「今日は一日中惨めだったよ」
 と、半分本音の妹の反応を見て、もう半分に冗談ぽさを入れる余裕がある事に、恭子は救われた。

        〇

「でも、そうかぁ。なるほどね。それで食事がいらない訳だ」
「うん……」

 姉に話しながら明日香の中にその時の情景が少しずつ蘇っていた。
 昨日の出会い、今日のベンチでの再会。
 大した事ではないはずだ。それなの、不思議な出来事に思える。
 それと同時に、彼の事が気になっている自分にも気付いていた。

 今日は、昨日の謝罪が目的だって言ってた――。
 なら昨日は、何がしたかったんだろう――。

「で――」と少し大きめに放たれた姉の声に明日香は意識を戻した。

「ナンパ男なのか足長おじさんだか判らないけど――そいつの名前は何ていうの?」
「名前? 名前……。そういえば――」

 姉に言われるまで気が付かなかった。
 彼が借りてくれた本は自分が代わりに返せば良いかもしれない。だけど、お金を借りたのだから名前を聞いておくべきだった。

 それに、私も教えてない――。
 お金を貸した方からすれば相手の名前を聞いておくべきだと思うのに――。
 ……なんなんだろう――。

 考える程に明日香には彼の事が解らなくなっていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さくら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

なほ
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模るな子。新入社員として入った会社でるなを待ち受ける運命とは....。

偽りの愛の終焉〜サレ妻アイナの冷徹な断罪〜

紅葉山参
恋愛
貧しいけれど、愛と笑顔に満ちた生活。それが、私(アイナ)が夫と築き上げた全てだと思っていた。築40年のボロアパートの一室。安いスーパーの食材。それでも、あの人の「愛してる」の言葉一つで、アイナは満たされていた。 しかし、些細な変化が、穏やかな日々にヒビを入れる。 私の配偶者の帰宅時間が遅くなった。仕事のメールだと誤魔化す、頻繁に確認されるスマートフォン。その違和感の正体が、アイナのすぐそばにいた。 近所に住むシンママのユリエ。彼女の愛らしい笑顔の裏に、私の全てを奪う魔女の顔が隠されていた。夫とユリエの、不貞の証拠を握ったアイナの心は、凍てつく怒りに支配される。 泣き崩れるだけの弱々しい妻は、もういない。 私は、彼と彼女が築いた「偽りの愛」を、社会的な地獄へと突き落とす、冷徹な復讐を誓う。一歩ずつ、緻密に、二人からすべてを奪い尽くす、断罪の物語。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

処理中です...