すいれん

右川史也

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第一節 雨が多いきせつ

第13話 六月のとある月曜日

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 雨の告白。あの時から何度後悔を繰り返したか判らない。
 足が重かく、行きたくなかった。会うのが怖い。

 ただそれでも慎太郎は、もう一度会いたい、とも強く思っていた。

 あまりにも唐突過ぎた――今では嫌というほど、よくわかる。
 だがあの瞬間、想いが高まってしまい抑える事ができなかった。
 雨に濡れた彼女は美しく、雨に濡れた彼女の睡蓮はとても魅力的だった。

 嫌われても仕方ないと思う。だけどあの時、別れの際に告げられた言葉には曖昧さが残っていた。だから、はっきりとした言葉で彼女の気持ちを知りたかった。
 それ以前の話なのかもしれない、とも十分に理解している。
 だけど、断られるにしても、非礼をきちんと詫びた上で、自分の気持ちに整理を付けたかった。

 とにかく、まずはきちんと謝らないと――。

 早めに会うべく、休日を挟んだ今日、彼女のお気に入りの場所を訪ねた。
 彼女はいつもの様にそこにいた。いつもの様に腕と脛が隠れる地味な服を着ている。

「おはよう。あの、一昨日は、急にごめん」

 彼女が何かを言葉にする前に言おうと決めていた。

「いえ……」

 彼女は多少戸惑った様子を見せていた。しかし、「その、良かったら――」と、意外にも向かいに座るよう促してくれた。
 困惑を内に秘めながら腰を下ろすと、彼女はそっと言葉を紡いだ。

「あの……解らないんです」

 それきり彼女は黙ってしまった。だが、何か言い拱いている様子に見える。

「えっと、何がかな?」

 相槌も兼ねてなるべく棘をなくした響きを努めた。
 すると彼女は表情を不安で染めて、言葉を紡ぐ。

「……何故、ですか?」

 不安な色を帯びたまま、何か意を決したように表情が強張ったと思うと、彼女は左袖を捲った。
 そして、そこにある包帯を外し始めた。
 彼女の睡蓮が顕わになっていく。

 滴る雨に晒された様は魅惑的だったが、陽の光を受け真紅に輝く姿もまたかった。
 目にした瞬間、慎太郎の体内を巡る血液は速度を上げる。

        〇

 彼は傷を見ている。目を離そうとしない。
 驚いているのか。それとも、怯えているのか――明日香の心に、思わず後悔の影がかかる。

「……こんな傷です」

 色々考えていたはずなのに、ほとんどの言葉が抜け落ちていく。

 本当は、会ったらすぐに訊こうと決めていた。
 だが、いざ言おうとすると勇気が出なかった。

 一つ一つの言葉が重く、次の句を繋ぐのが辛い。どう言えば良いのか考えていたはずなのに、怖くて、最低限の言葉すらたどたどしくなってしまう。

 もう彼を見続ける事ができなかった。
 明日香は目を伏せながら、前髪を軽く上げ、こめかみを見せた。

「ここと――、それに、うなじと脛にもあります」

 遠くから聞こえる誰かの楽しそうな声が、嫌に強く耳に流れ込んできた。

「……それでも……ですか?」

 不安が頭を強く押さえつけるなか、明日香は重く目線を上げた。

 彼の瞳はわずかにだが確かに見開いた。
 何も答えなかった。彼は見つめたきり動かない。

 明日香の視線は深く下がった。

 やっぱり、そうだよね――。
 彼に見つめられと傷が疼くようで、苦しい。

 覚悟はしていた。
 もちろん、言おうかどうか迷いもした。だけど付き合っていくのだとすればいずれは知られる事になる。
 互いに深く愛するようになれば傷の事なんてもしかしたら――とも考えなくはなかった。だけど、もしその時に傷が原因で愛した人を失うのだとしたら……今のうちにはっきりとさせたい。
 ――そう思い、見せたのだが。

 せっかく……仲良くなれるかもしれなかったけど――。

 覚悟はしていた――とはいえ、悲しくない訳では無い。

 彼との出会いは驚きや戸惑いだらけだった。
 しかし、美術館を出たあとに入った喫茶店で過ごしたあの時間は、確かに幸せを感じていた。
 それはとても細やかでほんの小さなものだったのかもしれない。だが、明日香にとっては初めて感じる暖かさがあった。
 だからもし、傷が原因でこの件が白紙になったのだとしても、友人としては付き合っていきたいと思っていた。

 しかし、傷を見たきり目を離さない彼を見て、諦めた。
 明日香は包帯を巻き直した。そして感謝と別れを告げようと口を開く。

「もう一度――言っていいかな?」

 突然の彼の言葉によって、明日香の言葉を失った。

 そして彼の視線が傷から明日香の瞳へと移ると、優しく、しかし強い響きを持った声でこう告げられた。

「好きです。付き合って下さい」

 彼は明日香の手を握り腕を掴んだ。
 服の上からでも傷の感触が伝わっているはずだ。

 ……それでも――。

 もう、意味を疑う事は無い。
 彼の手に掴まれ、返事をせずに逃げる事はできない。

 想いは決まっていた。ただ、恥ずかしく、唐突で、どうしたら良いか分からない。何を考え、どう返事すればいいのかも及ばない。

 明日香はこくりと頷く。
 少し涙が漏れたが、彼の手が離れずに拭く事ができなかった。

        〇

 そんな彼女の姿を見て慎太郎は確信し――期待した。

 俺は彼女が好きだ――。
 彼女のことなら愛せるかもしれない――。
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