涙の味に変わるまで【完結】

真名川正志

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     【1】

 僕が玄関の前でインターホンを押すタイミングを見計らっていると、灰色の乗用車がやってきて駐車場に停まった。少し長めの髪を濃い茶色に染めて後ろで結んだ、20歳代後半の女性が、その車から降りてきた。

「こんにちは。もしかして、朝日奈あさひなさんですか?」

 僕はその女性――朝日奈明日奈あすなさんに近づき、そう訊ねた。朝日奈さんは女性にしては長身で、ヒールを履いている今は僕と目の高さが同じだった。

「どうもこんにちは。福田さんの家の人ですか?」

 朝日奈さんが車のドアを閉めながらそう訊き返したとき、強い風が吹き、僕と朝日奈さんは同時に目を細めた。そんな表情も美しかった。アスファルトを敷いてある駐車スペースの上に降り積もっていた桜の花びらが舞い上がり、数秒間渦を作り、また積もった。

「違うよ。僕は高校で朝日奈さんの隣のクラスだった、山上やまがみ正道まさみちだよ」

 風が弱まるのを待ってから僕はそう答えた。

「山上くん……」

 朝日奈さんはそう復唱したが、怪訝そうな表情だった。残念ながら僕のことを思い出したわけではなさそうだった。無理もないか、と思う。最後に会ってからもう10年以上も経つのだ。

「えっと、朝日奈さんのクラスに松宮って奴がいて、僕は松宮と仲が良かったから、よく朝日奈さんのクラスに顔を出していたんだ。そのときに何度か会話したことがあると思うんだけど……」
「ごめんなさい。ちょっと思い出せない。何しろ10年以上も前の話だし、松宮くんのこともうろ覚えなくらいだから」

 朝日奈さんは申し訳なさそうにそう言った。こういうとき、普通は適当に話を合わせて相手のことを思い出した演技をするものだと思うのだが、朝日奈さんはそういうことはしなかった。相変わらず変なところで正直な人だ、変わっていないな、と僕は懐かしく思った。

「そうか……。朝日奈さんは、どうしてここに?」

 気まずくならないように、僕は話題を変えた。

「私は取材」
「取材? 朝日奈さんって今、出版社に勤めてるの?」
「ううん。私、高校を卒業してから市役所に勤めてて、今は広報課にいるの。来月、市の広報で防災特集をやることになっていて、その取材に来たんだ」
「へぇ。凄いね」
「全然凄くないよ。ただ課長に言われるがままに動いているだけだから。今日だっていきなり、『核シェルターに関する取材のために福田充夫の家に行ってくれ』なんて言われて、慌ててここまで来たくらいだし。本当は別の人が取材に来るはずだったんだけど、その人が今日、出張に行くのを課長が忘れていて、私にお鉢が回ってきた、っていうわけ」

 朝日奈さんはそう言って、溜め息をついた。

「ふうん。そうなのか。じゃあ、朝日奈さんは福田充夫さんについて何も知らないの?」

 僕は、玄関の上にある『福田充夫』という表札を見ながらそう訊ねた。

 洋風で二階建ての大きな家だ。この辺の一般的な住宅の四倍の大きさはあるだろう。外壁には煉瓦が埋め込まれており、敷地の周囲は鉄柵で囲まれている。玄関に向かって左側にはガレージがあり、右側には中型車ごと入ることができる、倉庫への通用口がある。

 庭には今ちょうど満開の桜の木が植えられており、その前が来客用の駐車スペースになっていた。敷地の裏には小さめの山があり、ここからでは見えないが、その山の下には核シェルターと倉庫があるのを僕は知っている。
 敷地の正面には小さな林があり、その向こうには田んぼが広がっている。いま僕が立っている位置からは、他の民家は殆ど見えなかった。

「うん。『充福』の社長だってことくらいしか知らない。いつもはもっと取材対象について下調べしておくんだけど、今回は時間がなかったから。気難しい人で、約束の時間を遅らせるわけにはいかないから、とにかく行ってくれ――って課長に言われちゃって」

 朝日奈さんはそう答えた。

『充福』はスーパーマーケットである。この県の中では1位のシェアを誇るスーパーだが、他の都道府県では全くの無名という、田舎によくあるパターンのチェーン展開をしている。

「慣れてくればそれほど気難しいとは感じなくなるんだけどね。例えば、約束の時間に1分でも遅れたり、逆に1分でも早く行ったりすると途端に不機嫌になるけど、こうやって玄関前で調整して約束の時間ちょうどにインターホンを押せば、常識的な対応をしてくれるし」
「いや、そういうのを気難しい人だって言うと思うんだけど……。他に気を付けることってない?」

 朝日奈さんは小声でそう言った。

「気を付けることって言うほどでもないけど、福田さんはちょっと、独身の若い男女を見るとくっつけたがるタイプの人だから、それだけは覚悟しておいた方がいいかもね」
「くっつけたがるって?」
「恋人同士にさせたがる、ってこと」
「ああ、なるほど。数は減ってきているけど、そういうお節介な人ってまだどこにでもいるよね」

 朝日奈さんは何とも思ってないような口調でそう言った。僕のことを異性として見ていないということが伝わってきて、僕は少し落胆した。

「――ごめん。あと1分で約束の午後2時になるから、2時になったらインターホン押すよ。朝日奈さんは何時の約束なの?」

 僕はスマホの画面に表示された時計を見ながらそう言った。

「私も午後2時よ」
「あ、そうなんだ」

 僕はそう言い、2時ちょうどにインターホンを押した。
 すぐに玄関のドアが開く。

「やあ、山上さんいらっしゃい。そちらは市役所の方ですね?」

 髪の毛の大部分が白くなった、40歳代後半くらいに見える男――充夫がそう言った。

「はい。市役所広報課の朝日奈明日奈と申します。よろしくお願いします」

 朝日奈さんはそう言って頭を下げ、充夫に名刺を渡した。

「そうですか。今日は核シェルターの取材だとか?」
「はい、そうです。失礼ですが、会話を録音させていただいてもよろしいでしょうか?」

 朝日奈さんはそう言って鞄からICレコーダーを取り出した。

「構いませんよ。では、こちらへどうぞ。早速核シェルターの入口へ案内しましょう」

 そう言って、充夫は僕と朝日奈さんを招き入れた。
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