涙の味に変わるまで【完結】

真名川正志

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「嫌っ。そんなの嫌。いやああああっ」

 朝日奈さんは泣き出した。床の上に座り込んだまま、目尻から流れ落ちる涙を両手でしきりに擦っている。
 無理もないか、と思う。むしろ、僕のように平然としている方が不自然なのだろう。

「朝日奈さん、落ち着いて」

 僕はそう言ったが、朝日奈さんは大声で泣き続けていた。

「もう無理。どうせ死ぬのなら今すぐに死んだって同じよ! 死にたい……今すぐに死にたい」

 彼女を抱き締めて落ち着かせることができたら、どんなに良かっただろう。しかし、僕にはそんなことはできなかった。
 こうなったら、いっそのこと思い切り泣かせ続けた方がいいかもしれないと僕は思い直した。人間は、泣くことが必要だから泣くのだ。感情を爆発させることによって、過剰なストレスから精神を守っているのだ。
 僕はただ、彼女の隣に座って、彼女が泣き止むのを待っていた。
 10分くらいで、朝日奈さんは泣き止んだ。朝日奈さんは自分の服の内ポケットから取り出したハンカチで、涙を拭った。

「ごめんなさい」

 朝日奈さんは僕の方を見ずに、気まずそうな表情をして、蚊の鳴くように声でそう言った。

「落ち着いてくれてよかった」
「……うん。顔洗ってくる」

 朝日奈さんは立ち上がりながらそう言った。

「あ。ちょっと待って」
「何?」

 朝日奈さんは振り向かずにそう訊いた。

「洗面所の水、使っても大丈夫かな? もしも普通の水道水を引いているのなら、放射能に汚染されているかもしれない」
「そうか。思いつきもしなかった」
「福田さんは何も言ってなかったよね?」
「うん。水に関する説明はなかったと思う。どこかに書いてないかな」

 朝日奈さんは困ったような表情でそう言った。

「もしかしたら、このパソコンの中に書いてあるかも」

 僕はそう言い、機械室の中央の机の上に置かれていたノートパソコンを見た。先ほど電源を入れたまま放置していたので、画面にはスクリーンセーバーが映し出されていた。

「そうね。椅子、座ってもいい?」
「うん。どうぞ」

 僕はそう言いながら、さっきは僕に聞かずに座っていたのに、朝日奈さんの中で何か心境の変化があったのかな、と思った。
 朝日奈さんはデスクトップにあった「核シェルター」というフォルダーを開いた。その中にはさらに数十個ものフォルダーがあった。朝日奈さんは1つ1つ、カーソルを合わせて慎重に調べ、ようやく「生活」フォルダーに含まれていた「水」という文書を発見した。文書をダブルクリックして開くと、長文が表示された。

 文書の内容を要約すると、この核シェルター内の水は、非常に深い場所から汲み上げた地下水を利用しており、蛇口から出る前に、放射能に汚染されていないか自動でチェックし、汚染が確認された場合は水の供給が停止されることになっている――と書かれていた。

「要するに、汚染された水は出ないから大丈夫だってことみたいだね」

 僕はそう言った。

「そうみたいね。ただ、放射能に汚染されていなくても、長期間使っていない水道管の中にある水は危険だから、しばらく水を出しっぱなしにしておいた方がいいだろうけど」
「じゃあ、とりあえず洗面所と浴室と食堂の水をしばらく出しっぱなしにして、水道管の中の水を入れ替えようか」
「そうね。私は洗面所と浴室をするから、山上くんには食堂をお願いしてもいい?」
「え? いや、それはちょっと……」
「逆の方がいい?」
「そうじゃなくて、いま朝日奈さんを1人にするのはちょっとまずいんじゃないかと思って」

 僕がそう言うと、朝日奈さんは不思議そうな表情になった。

「どうして私を1人にするとまずいの?」
「だって、さっき朝日奈さん、死にたいって言ってたし」
「あ――そうか。そうよね。ちょっと目を離した隙に自殺するかもしれない、とか考えてるんでしょ。でも、もう大丈夫よ。今はちょっと顔でも洗って1人になりたい気分だけど、もう自分から死のうとはしないから安心して」

 朝日奈さんは明るい口調で言ったが、それが却って痛々しく見えた。

「うん……。分かった。でも、本当に自殺だけはしないでくれ。朝日奈さんが死んだら、僕は1人きりで核シェルターの中に閉じ込められることになるんだから」
「うん、約束する。絶対に自殺はしないって」
「それならいいよ。じゃあ、行ってらっしゃい」
「行ってきます。ありがとう」

 朝日奈さんはそう言って機械室を出ていった。

 僕は廊下に出ると、食堂へ行った。食堂の奥のキッチンの流し台の水道の蛇口を捻り、水を出した。時々水を手で触り、水が冷たくなったのを確認してから蛇口を閉めた。
 その後、トイレに行った。トイレの中には洋式便器が2種類あった。片方は普通の水洗だったが、もう片方は水が止まったとき用のトイレだと案内板に書かれていた。非常用の便器の内側には黒いビニールがあり、特殊な溶剤で便を固め、密封して捨てることもできるようになっていた。

 そして、便座に座ったまま、僕はぼんやりとトイレのドアを見つめた。
 今ごろになって、恐怖が足元から這い上がってくるような気分になった。

 ここから先は、1歩間違えるだけで僕の人生が終わってしまうかもしれないのだ。気を引き締めていこう、と僕は今さら決意した。
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