涙の味に変わるまで【完結】

真名川正志

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 11月のある日、食事の時間になっても明日奈が食堂に現れず、探すと、真っ暗なテレビ室のソファに座っているのを見つけた。その目が涙で光っているのを見て、僕は電灯を点けずに明日奈の隣に座り、抱きしめた。

「どうした?」
「この子の将来を考えていたら……怖くなったの」

 明日奈はお腹をさすりながらそう呟いた。

「怖い?」
「うん。だって、この子を不幸にするために産むようなものでしょ? この子が健康に生まれてくれたら、きっとこの子よりも私たちの方が先に死んでしまう。こんな時代に、こんな場所にこの子を置き去りにしてしまうなんて、私たちは凄く残酷で無責任なことをしようとしているのかもしれない。そう考えたら、産むのが怖くなったの」

 4ヶ月ほど前には産みたいと言っていた明日奈は、今日はそう言い、僕の肩に頭を預けた。

「そうだよな。怖いよな」
「うん……」
「でも、今までのどんな時代だって、親は皆そういう不安を抱えていたんじゃないかな。歴史を振り返ると、貧しかったり、戦争や災害が起きていたりして、平和で裕福な時代なんてほんの一瞬だっただろう。それでも、人は未来に希望を託して、子供を作り育ててきた。うまく言えないけど、怖いのは明日奈だけじゃないと思う。皆怖かったんだと思う。だから……何が言いたいのか自分でもよく分からなくなっちゃったけど、僕にできることなら何でもするから言ってほしい」
「じゃあ、ずっと傍にいて」
「うん」
「私より先に死なないで」
「うん」
「今日はアイスクリームを2つ食べさせて」
「うん……うん?」

 僕が明日奈を見ると、明日奈は笑いながら僕にキスをした。
 涙の味がした。


 素人のアバウトな予測になってしまうが、出産予定日はだいたい3月の下旬くらいになるだろうと思われた。

 それまで何も起こりませんように、と思っていたのだが、11月29日に強い地震が起こった。
 そのとき、僕と明日奈は書庫で一緒に暇潰し用の小説を探していた。そこへ強い揺れがあったものだから、本棚から本が雪崩のように落ちてきた。

「伏せろ!」

 僕は明日奈にそう叫んだ。お腹を庇うようにして、明日奈は床に伏せた。僕は、さらにそんな彼女に覆い被さり、背中や後頭部で本を受け止めた。
 揺れがおさまると、書庫の床には大量の本が散乱し、空中には埃が舞っていた。

「明日奈、大丈夫か?」 

 僕はそう訊きながら身体を起こした。

「うん……。大丈夫。正道が庇ってくれたから。正道の方こそ、大丈夫?」
「大丈夫だよ」

 僕はそう答えたのだが、床に膝をついたまま僕の顔を見た明日奈は目を見開いた。

「どこが大丈夫なのよ! 頭から血が出てるじゃないの」
「え?」

 痛みは殆どなかったのだが、手で頭を触り、目の前に持ってくると、確かに手には血がついていた。

「痛くない?」
「本当に大丈夫だから。頭の傷は大げさに血が出るものなんだよ。むしろ、血が出ない方が内出血状態になっちゃって危ないらしいし、よかったよ」

 僕はそう言って立ち上がった。明日奈の手を持って立たせると、書庫を出た。

「待ってて。今、救急箱を持ってくるから」
「いや、明日奈は食堂で安静にしていてくれよ。救急箱は僕が持ってくるから、手当てだけ頼む」
「うん、分かった」

 僕は食堂の前で明日奈と分かれ、倉庫へ向かった。廊下は静まり返っており、何も変わっておらず、地震が起こったことなど嘘のようだった。

 しかし、倉庫の中は細かい物が床の上に散乱しており、確かに地震があったのだという証拠になっていた。片付けは後回しにすることにして、僕は棚の上に残っていた救急箱を手にすると、食堂へ戻った。

 食器棚にはガラスの戸がついているおかげか、書庫や倉庫ほどの異変は生じていなかった。せいぜい、テーブルの上に置きっぱなしにしてあったコップが落ちて割れていたくらいだった。

 僕はまず、流し台に頭を突っ込み、蛇口の水で傷口を洗った後、タオルで髪を拭いた。それでもまだ血が止まっていなかったので、明日奈に傷口を消毒してもらった後、ティッシュを押し当て、頭に包帯を巻いてもらい圧迫止血することにした。

「正道も体に気を付けてね。もしも正道が死んじゃったら、私は1人ぼっちになっちゃうんだから」

 僕の怪我の手当てをしながら、明日奈は心配そうに言った。厳密には、明日奈のお腹の中にはもう1人いるので、1人ぼっちではないのかもしれないが、僕は野暮なことは言わなかった。

「うん、分かった。気を付けるよ」

 僕は申し訳なく思いながら頷いた。
 その後、身重の明日奈にはベッドで休んでもらうことにし、僕は1人で書庫と倉庫と食堂を片付けた。
 夕方、僕は食べ物をとりに食料庫へ行き、食料庫の棚の上のものも床の上に散乱していることに気付いた。僕は床に落ちているものを棚に戻したが、包装が破けてしまったものもあったので、それから数日間はそれらを中心に食べていくことにした。

 ――その後、クリスマスや年末年始があったが、僕たちは特別なことは何もしなかった。せいぜい、クリスマスに因んだ映画を観て、大晦日には年越し蕎麦を食べたくらいだった。

「核シェルターの中にいると分からないけど、外は冬なんだよね。しかも、核の冬とかいうものが来ているらしいから、きっと普通の冬よりも寒いんでしょうね」

 2月14日。バレンタインの日に、明日奈はココアを飲みながらそう言った。

「そうだろうな。きっと、雪がたくさん降っていると思う」

 僕は水を飲みながらそう答えた。明日奈がココアなのに対して僕が水なのは、お腹の赤ちゃんのために、栄養価の高いものを優先的に明日奈に食べさせているからだった。

「そろそろ赤ちゃんの名前考えた?」

 明日奈はココアの入ったカップをテーブルの上に置くと、丸く膨らんだお腹を愛おしそうに撫で、そう訊いた。

「いや。まだ考えてない。男の子か女の子かも分からないんだから、決めようがない」

 僕は首を横に振りながらそう言った。

「男の子だったら何々、女の子だったら何々、って2通り考えておけばいいじゃないの」
「そういうのって、何か嫌なんだよな。生まれてくる子供の顔を見てから決めたい」
「まあいいか。時間だけはたっぷりあるし、慌てて決めなくても」
「そういう明日奈の方は、自分が子供の名前を付けたいとは思わないのか?」
「んー……。私はいいや。正道が考えた名前がよっぽど変なものじゃない限りは、反対しないつもりだし」
「よっぽど変な名前っていうと、例えば?」
「例は挙げたくないなあ。その名前の持ち主や、名付け親に失礼だから」

 明日奈は苦笑しながらそう言った。
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