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【9】
3月26日。僕はこの日付を一生忘れることはないだろう。
明日奈が娘を産んだ日だからだ。
明日奈は、本当によく頑張ってくれたと思う。長時間の陣痛に耐え、素人の僕の助産に殆ど文句も付けなかった。
シーツに包まれた小さな女の子は、天使のように愛くるしかった。まあ、実際には生まれたばかりなので、他人にはそれほど可愛く見えない、というか皺くちゃの猿みたいに見えるのだろうが、親の贔屓目というやつである。
「――赤ちゃんの名前、決めた?」
少し眠った後、目を醒ました明日奈は、娘を抱っこした僕の方を見ながらそう訊いた。
ここは赤ちゃんを産んだ『桜の間』ではなく、その隣の『海の間』だった。『桜の間』のベッドが汚れてしまったので、明日奈が普段使っていた部屋へ移動したのだ。
「いや。まだだ。いくつも候補が思い浮かんで、どれにしようか決めかねているんだ」
「そっか。全く候補が思いつかないよりはマシかな。どんな名前を考えたの?」
「まず、春に『桜の間』で生まれたから、『さくら』っていうのはどうだろうかと思ったんだけど、これはやめておく。明日奈の昔の苗字、『佐倉』と同じような理由だから」
「そうね。『さくら』という名前は好きだけど、昔の苗字と被っちゃうのはちょっと嫌かも……」
明日奈は複雑そうな表情になった。
「明日奈の『奈』がついた名前はどうかと思ってるんだけど、加奈、春奈、美奈……どれもあまりピンとこないんだよ」
「いま正道が例に挙げたのは、どれもいい名前だと思うけど」
「それはそうなんだけど、この子には合わないって言うか……。とにかく、もう少しだけ考えたいんだ。一生の問題なんだから」
「そう。じゃあ、ゆっくり考えて。無理に『奈』のつく名前にしようとしなくてもいいからね。親の願いが込められていればそれで充分だと思う」
明日奈がそう言ったとき、娘が泣き出した。
「おっと、どうしたんだろう」
「たぶんお腹が空いているのよ。貸して」
明日奈はそう言うと、僕から娘を受け取り、授乳させた。食事が終わると、娘は静かになった。
「ねえ。ちょっとトイレに行ってきたいから、赤ちゃんを見ていてくれる?」
明日奈はそう言いながら、娘をベッドの上に寝かせた。
「いいけど、1人で大丈夫か? 一緒に行こうか?」
「1人で大丈夫よ。赤ちゃんから目を離さないでね」
明日奈はそう言って、『海の間』から出ていった。
しかし、明日奈がなかなか戻ってこなかったので、僕は心配になってきた。途中で具合が悪くなり、動けなくなっているのではないかと思い、僕は娘を抱いて明日奈を捜しに行こうかと思った。
実際に娘を抱こうとしたところで、明日奈は戻ってきた。
「明日奈。随分と時間がかかってたけど、大丈夫か?」
「ええ……。大丈夫。ちょっと食堂で水を飲んでただけだから」
明日奈は蒼褪めた表情でそう言った。
「顔色が悪いぞ。本当に大丈夫か?」
「うん。でも、ごめんなさい。少し1人で寝たいから、赤ちゃんを見ていてくれる?」
「分かった。すぐ隣の『紅葉の間』にいるから、何かあったら壁を叩いてくれ。すぐに駆けつけるから」
「うん。ありがとう」
明日奈はそう言うと目を閉じた。
僕は不安に思いながらも、娘を抱え、『海の間』の電気を消し、『紅葉の間』へ移動した。
ベビーベッドなどという洒落たものは核シェルターの中には存在しない。そのため、僕は『紅葉の間』のベッドの上に娘を載せた。ベッドは壁に面しているので、壁と反対側に自分が寝転がることで、娘がベッドの上から落ちてしまわないように工夫した。
そして、僕はそのまま眠ってしまったが、1時間もしないうちに娘の泣き声で目を醒ました。布製の手作りオムツを調べたところ、濡れていたので別のオムツと交換した。汚れてしまったオムツはお風呂場のバケツの中に入れ、洗濯しておいた。
僕はまた娘の隣に寝転がり、眠った。しかし、またしても1時間くらいで娘が泣き出した。今度はオムツは汚れていなかったので、お腹が空いたのだろうと思った。仕方なく『海の間』に戻り、明日奈を起こして授乳を頼んだ。
「やっぱり、明日奈の負担を減らすために、粉ミルクも飲ませた方がいいな」
「粉ミルクの賞味期限は大丈夫なの?」
「うん、まだ殆ど大丈夫だった」
「殆どって、賞味期限を過ぎているのか過ぎていないのかどっちなのよ」
「賞味期限を過ぎている粉ミルクもあったけど、過ぎていないものが殆どだった、って意味だよ」
「そう。でも、粉ミルクを作っている間、赤ちゃんを1人にしておくわけにいかないから、結局私も起きないと駄目だよね」
「いや……ベビーベッドに赤ちゃんを寝かしておけば、その間に粉ミルクを作ることができるだろう」
「ベビーベッドなんてどこにあるの?」
「ないなら作ればいいんだよ。明日にでも作ろう」
「材料は?」
「書庫の本棚を解体して、それで作る」
本棚は木製なので、材料としては申し分ないだろうと思い、僕はそう言った。
3月26日。僕はこの日付を一生忘れることはないだろう。
明日奈が娘を産んだ日だからだ。
明日奈は、本当によく頑張ってくれたと思う。長時間の陣痛に耐え、素人の僕の助産に殆ど文句も付けなかった。
シーツに包まれた小さな女の子は、天使のように愛くるしかった。まあ、実際には生まれたばかりなので、他人にはそれほど可愛く見えない、というか皺くちゃの猿みたいに見えるのだろうが、親の贔屓目というやつである。
「――赤ちゃんの名前、決めた?」
少し眠った後、目を醒ました明日奈は、娘を抱っこした僕の方を見ながらそう訊いた。
ここは赤ちゃんを産んだ『桜の間』ではなく、その隣の『海の間』だった。『桜の間』のベッドが汚れてしまったので、明日奈が普段使っていた部屋へ移動したのだ。
「いや。まだだ。いくつも候補が思い浮かんで、どれにしようか決めかねているんだ」
「そっか。全く候補が思いつかないよりはマシかな。どんな名前を考えたの?」
「まず、春に『桜の間』で生まれたから、『さくら』っていうのはどうだろうかと思ったんだけど、これはやめておく。明日奈の昔の苗字、『佐倉』と同じような理由だから」
「そうね。『さくら』という名前は好きだけど、昔の苗字と被っちゃうのはちょっと嫌かも……」
明日奈は複雑そうな表情になった。
「明日奈の『奈』がついた名前はどうかと思ってるんだけど、加奈、春奈、美奈……どれもあまりピンとこないんだよ」
「いま正道が例に挙げたのは、どれもいい名前だと思うけど」
「それはそうなんだけど、この子には合わないって言うか……。とにかく、もう少しだけ考えたいんだ。一生の問題なんだから」
「そう。じゃあ、ゆっくり考えて。無理に『奈』のつく名前にしようとしなくてもいいからね。親の願いが込められていればそれで充分だと思う」
明日奈がそう言ったとき、娘が泣き出した。
「おっと、どうしたんだろう」
「たぶんお腹が空いているのよ。貸して」
明日奈はそう言うと、僕から娘を受け取り、授乳させた。食事が終わると、娘は静かになった。
「ねえ。ちょっとトイレに行ってきたいから、赤ちゃんを見ていてくれる?」
明日奈はそう言いながら、娘をベッドの上に寝かせた。
「いいけど、1人で大丈夫か? 一緒に行こうか?」
「1人で大丈夫よ。赤ちゃんから目を離さないでね」
明日奈はそう言って、『海の間』から出ていった。
しかし、明日奈がなかなか戻ってこなかったので、僕は心配になってきた。途中で具合が悪くなり、動けなくなっているのではないかと思い、僕は娘を抱いて明日奈を捜しに行こうかと思った。
実際に娘を抱こうとしたところで、明日奈は戻ってきた。
「明日奈。随分と時間がかかってたけど、大丈夫か?」
「ええ……。大丈夫。ちょっと食堂で水を飲んでただけだから」
明日奈は蒼褪めた表情でそう言った。
「顔色が悪いぞ。本当に大丈夫か?」
「うん。でも、ごめんなさい。少し1人で寝たいから、赤ちゃんを見ていてくれる?」
「分かった。すぐ隣の『紅葉の間』にいるから、何かあったら壁を叩いてくれ。すぐに駆けつけるから」
「うん。ありがとう」
明日奈はそう言うと目を閉じた。
僕は不安に思いながらも、娘を抱え、『海の間』の電気を消し、『紅葉の間』へ移動した。
ベビーベッドなどという洒落たものは核シェルターの中には存在しない。そのため、僕は『紅葉の間』のベッドの上に娘を載せた。ベッドは壁に面しているので、壁と反対側に自分が寝転がることで、娘がベッドの上から落ちてしまわないように工夫した。
そして、僕はそのまま眠ってしまったが、1時間もしないうちに娘の泣き声で目を醒ました。布製の手作りオムツを調べたところ、濡れていたので別のオムツと交換した。汚れてしまったオムツはお風呂場のバケツの中に入れ、洗濯しておいた。
僕はまた娘の隣に寝転がり、眠った。しかし、またしても1時間くらいで娘が泣き出した。今度はオムツは汚れていなかったので、お腹が空いたのだろうと思った。仕方なく『海の間』に戻り、明日奈を起こして授乳を頼んだ。
「やっぱり、明日奈の負担を減らすために、粉ミルクも飲ませた方がいいな」
「粉ミルクの賞味期限は大丈夫なの?」
「うん、まだ殆ど大丈夫だった」
「殆どって、賞味期限を過ぎているのか過ぎていないのかどっちなのよ」
「賞味期限を過ぎている粉ミルクもあったけど、過ぎていないものが殆どだった、って意味だよ」
「そう。でも、粉ミルクを作っている間、赤ちゃんを1人にしておくわけにいかないから、結局私も起きないと駄目だよね」
「いや……ベビーベッドに赤ちゃんを寝かしておけば、その間に粉ミルクを作ることができるだろう」
「ベビーベッドなんてどこにあるの?」
「ないなら作ればいいんだよ。明日にでも作ろう」
「材料は?」
「書庫の本棚を解体して、それで作る」
本棚は木製なので、材料としては申し分ないだろうと思い、僕はそう言った。
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